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潮騒は文字を知らない

作者:門 隈
最終エピソード掲載日:2026/05/25
この町では、人が消える前に、名前が消される。

海沿いの小さな工場で働くヨウスケは、ある朝、掲示板に並ぶ文字の中から、自分の名前を教えられる。
同時に知らされたのは、その名前がまもなく消される側の列にあるということだった。

ヨウスケは、文字が読めない。
給料の紙に何が書かれているのかも知らない。
毎日働き、腹を空かせ、濡れた布団で眠る暮らしを、そういうものだと思っていた。

けれど、作業場で一人の男が倒れた日、町の歪みは隠しきれなくなる。

血を拭かされるヨウスケ。
救急車を呼んだことを責める同僚たち。
翌朝、黒く塗り潰されていた倒れた男の名前。

なぜ、助けた側が悪いのか。
なぜ、働いている人間が食べられないのか。
なぜ、この町では誰も、自分が奪われていることに気づけないのか。

ヨウスケは、暗い部屋で文字を教える男・高瀬と出会い、消された名前を書き写し始める。
やがて、自分の名を知らなかった少女、店の裏で眠りながら働く青年、善意の名のもとに使い潰された老人たちの暮らしにも、同じ黒い線が引かれようとしていることを知る。

文字を覚えるたび、ヨウスケは救われるのではなく、見なくて済んだ地獄を見てしまう。
支払われなかった金。
奪われた時間。
働いていたのに失った部屋。
名前すら残らず消えていった人々。

それでもヨウスケは、紙を捨てない。

消された人間が、初めからいなかったことにされないために。
まだ生きている人間が、自分を諦めないために。
そして、自分がそこにいた時間を、誰かの都合で塗り潰されないために。

海は、何も語らない。
誰が飢えたのかも、誰が働いたのかも、誰の名前が消されたのかも知らない。

だからヨウスケは、書く。

名前を失った町で、文字を読めなかった青年が、初めて自分の人生を取り戻そうとする。
これは、灰色の海辺に沈められた声を拾い上げる、静かな反抗の物語。
第一話 封筒の重さ
2026/05/23 03:53
第二話 読める人間
2026/05/23 03:53
第四話 橋の下で燃える紙
2026/05/23 04:08
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