第十一話 春泥の匂いがする朝に紙は増えていく
蝋燭の匂いが、作業着に残っていた。
陽介は朝、布団の中で目を覚ますと、最初に袖を鼻へ近づけた。
油でも、鉄でも、湿った畳でもない。
昨夜、先生の部屋で小さく燃えていた火の匂いだった。
暗い部屋。
赤い封筒。
先生の口元の布。
少女の指がなぞっていた文字。
契約。
終わり。
陽介は枕元に置いた紙を手に取った。
自分で書いた文字は、朝の薄い明かりで見ると、昨夜よりひどく歪んでいた。
先生の字と並べると、とても同じものには見えない。
それでも、捨てなかった。
作業着の内ポケットへ入れる。
短い鉛筆も一緒に入れた。
部屋を出ると、隣の扉の前に男が二人立っていた。
見たことのない男たちだった。
片方が鍵を回し、もう片方が中から物を出している。
古い毛布。
空の薬の袋。
割れた湯呑み。
陽介は階段へ向かいながら、立ち止まる。
そこ、住んでた人は。
男の一人が振り向いた。
知らね。
片付けろって言われただけ。
夜ごと聞こえていた咳を思い出す。
三日前から聞こえなくなった咳。
静かになったことで、眠りやすくなったと思った夜。
陽介は、出された毛布の端を見る。
薄茶色の染みが広がり、乾いて固くなっていた。
男たちは、毛布を黒い袋へ押し込んだ。
陽介は何も言えず、階段を下りた。
外は生温かかった。
冬の寒さが薄くなった代わりに、道の端から腐ったような匂いが上がっている。
雪の下に埋もれていた泥とごみが、急に息を始めたみたいだった。
川の水は増えていた。
濁った流れが、橋脚にぶつかって泡を立てている。
橋の下を見ても、火は見えなかった。
朝だからなのか。
もう燃やす紙がないのか。
陽介は工場へ向かった。
門の前で、片手を怪我した男が立っていた。
布を巻いた手を胸元に抱え、もう片方の手で煙草を持っている。
火はついていなかった。
指が震えて、ライターを何度擦ってもうまくつかない。
陽介は足を止める。
手、大丈夫ですか。
男は腫れた手を見下ろした。
動かねぇな。
病院は。
昨日と同じ言葉が出る。
男は笑いもしなかった。
行ってねぇ。
その手じゃ、作業できないんじゃ。
できるかどうかじゃなくて、来るしかねぇんだよ。
男は煙草を口に咥えたまま、門の横の掲示板を見る。
俺も今月までだしな。
休んだら、最後の金も出ねぇかもしれねぇ。
陽介は、胸の紙を思い出した。
契約。
満了。
終わり。
あの紙、もらいましたか。
男は頷いた。
もらった。
捨てたけど。
読んでもらわなかったんですか。
誰に。
先生に。
男は、やっと陽介を見た。
お前、あいつんとこ行ってんの。
陽介は頷いた。
男はしばらく黙り、それから小さく鼻を鳴らした。
やめとけ。
どうしてですか。
読めるようになったら、逃げられなくなるべ。
陽介は、その言葉の意味を考えた。
知らなければ、捨てられる。
読めなければ、終わりの紙も、ただの紙に戻る。
けれど、捨てた紙の中身は消えない。
男の腫れた手も消えない。
始業のベルが鳴った。
男は火のつかない煙草をポケットへ戻し、工場の中へ入っていった。
陽介も後に続いた。
午前中、男は何度も物を落とした。
持ち上げようとするたび、怪我をした手が力を失う。
金属の部品が床へ落ち、硬い音が作業場に響く。
三度目に落とした時、班長がやって来た。
使えねぇなら、帰れ。
男は頭を下げる。
すみません。
やれます。
やれてねぇから言ってんだべ。
班長は、男の手に巻かれた布を見る。
そういうの見せながら働かれると、こっちが悪いみてぇになるんだよ。
陽介の手が止まった。
男は、慌てたように怪我をした手を背中側へ隠した。
すみません。
謝る声だった。
手を潰された男が。
血を隠し切れない男が。
迷惑をかけた側みたいに、頭を下げている。
班長は作業場を見回した。
誰か代わり入れ。
誰も動かなかった。
陽介は、自分の足が一歩前へ出るのを感じた。
俺、やります。
班長が陽介を見る。
お前、余計なこと覚える前に、仕事覚えろよ。
周りで、誰かが小さく笑った。
陽介は俯いたまま、男の持っていた部品を受け取る。
冷たかった。
けれど、男の手はもっと冷たそうだった。
昼休み、男は作業場の隅に座っていた。
食べ物は持っていない。
布を巻いた手を、膝の上に載せている。
陽介も隣へ座る。
今日は自分も何も持っていなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
機械は止まっているはずなのに、耳の奥ではまだ振動が続いている。
男が言う。
先生に聞いたら、何か変わるのか。
陽介は答えられなかった。
仕事が戻るわけではない。
男の手が治るわけでもない。
腹が膨れるわけでもない。
でも。
陽介は内ポケットから紙を出した。
覚えかけの文字が書かれている。
俺、自分の名前、知らなかったんです。
男は紙を見る。
名前。
陽介は、先生の書いた二文字を指でなぞる。
これが、俺らしいです。
男はしばらく紙を見ていた。
それから、自分の作業着の胸元を触る。
名札はついていない。
この工場では、誰も名札をつけていなかった。
俺のも、あるのかな。
ありますよ。
陽介はそう言ったあと、少し怖くなった。
あるはずだ。
掲示板にも、封筒にも、どこかの紙にも。
けれど、消されれば分からなくなる。
読める者がいなければ、あったことにすら気づけない。
男は腫れた手を見ながら言った。
昨日捨てた紙、拾えっかな。
陽介は顔を上げた。
捨てた場所、分かるなら。
男は何も言わず、立ち上がった。
昼休みはまだ残っていた。
二人は工場の裏へ回る。
廃材とごみ袋が積まれた場所に、濡れた紙が何枚も落ちていた。
雨を吸って、地面に貼りついている。
男は片手で一枚ずつめくろうとする。
うまく剥がれず、紙が途中で破れた。
陽介もしゃがみ込む。
白い封筒。
薄茶色の封筒。
何かの通知。
数字の並んだ紙。
どれも泥に汚れ、文字が滲んでいる。
男が、一枚を指差した。
これだ。
赤い文字のついた白い紙だった。
端は破れ、真ん中に靴跡がある。
陽介はそっと拾い上げた。
破れないように、両手で持つ。
先生なら、まだ読めるかもしれない。
男は言った。
持ってってくれるか。
一緒に行かないんですか。
男は工場の窓を見る。
今日、帰ったら、今日の分なくなるかもしれねぇから。
昼のベルが鳴った。
男はすぐに作業場へ戻っていく。
腫れた手を背中に隠すようにして。
陽介は、その場に残った。
自分の封筒のほかに、男の泥で汚れた紙が手元にある。
紙一枚で、人ひとりの何かが分かる。
紙一枚を捨てれば、人ひとりの何かが分からなくなる。
陽介は、その紙を自分の紙と重ねて折らなかった。
濡れたまま、破れないように作業着の内側へ挟む。
午後の仕事が始まる。
陽介は何度も胸元を気にしながら、部品を運んだ。
班長に見つかれば、余計なことをしていると言われるかもしれない。
男に紙を返せなければ、自分が消したのと同じになる気がした。
夕方、作業が終わる前に、男がまた倒れた。
今度は、物を落とした音ではなかった。
身体そのものが床に崩れ、頭が鉄枠へぶつかった。
周囲の人間が一瞬だけ振り向く。
班長が舌打ちをした。
だから帰れって言ったべ。
陽介は男のそばへ駆け寄る。
呼吸はある。
けれど、目は閉じたまま開かない。
腫れた手の布が外れ、指の付け根まで黒く変わっていた。
陽介は息を呑む。
救急車、呼んでください。
班長は苛立った顔をする。
またかよ。
こんなんで呼んでたら仕事になんねぇべ。
死にますよ。
陽介の声が、作業場の音より大きく響いた。
何人かが作業の手を止める。
班長の顔が変わった。
お前、誰に向かって言ってんだ。
陽介は答えなかった。
胸の内側に、男の紙が貼りついている。
泥に濡れた、読まれないまま捨てられた終わりの紙。
床に倒れている男には、名前がある。
陽介はまだ読めない。
呼ぶこともできない。
それが、急にひどく恐ろしかった。
この人の名前、何ですか。
陽介は班長に聞いた。
班長は、意味が分からないという顔をした。
名前なんか今どうでもいいべ。
陽介は倒れた男の肩へ手を置く。
どうでもよくないです。
口から出た言葉に、自分の身体が震えた。
作業場は静かになっていた。
機械だけが、誰も触れていないのに回り続けている。
外では、海から湿った風が吹いていた。
冬の終わりに溶け出した泥の匂いが、開け放された搬入口から、ゆっくり工場の中へ入ってきた。




