第十二話 名前を呼ぶための紙は泥で濡れていた
機械は止まらなかった。
男が床に倒れていても、鉄を削る音は一定の間隔で鳴り続けている。
金属の粉が湿った床に落ち、油の上に薄く散った。
陽介は男の肩を支えたまま、もう一度言った。
救急車、呼んでください。
班長は答えなかった。
周囲に立っていた作業員たちの顔を見回している。
誰が手を止めているのか。
誰が陽介の言葉を聞いているのか。
確かめるような目だった。
やがて、低い声で言った。
仕事戻れ。
陽介は男の顔を見る。
頬が灰色だった。
口元がかすかに動いているが、言葉にはならない。
怪我をした手は床に投げ出され、布のほどけた隙間から黒ずんだ皮膚が見えていた。
戻れないです。
陽介が言うと、班長の口元が歪んだ。
お前が医者なのか。
違います。
だったら余計なことすんな。
倒れたくらいで騒いで、こっちの仕事止めるな。
床に横たわる男が、小さく呻いた。
その声を聞いた瞬間、陽介は立ち上がった。
作業場の隅に、古い電話機がある。
出勤の連絡や、荷物の確認に使っているものだった。
陽介はそこへ走った。
何してんだ。
班長の怒鳴り声が追いかけてくる。
陽介は受話器を持ち上げた。
耳に当てると、低い音が続いていた。
外のどこかへ繋がる音だった。
けれど、指が動かない。
救急車を呼ぶための数字が分からなかった。
昔、誰かが口にしていた気がする。
道端で人が倒れた時。
集合住宅のどこかから大きな声が聞こえた時。
街の中で鳴るサイレンを見て、誰かが短い数字を言っていた気がする。
けれど、それは音としても残っていない。
文字と同じだった。
知らないものは、目の前にあっても使えない。
陽介は受話器を握ったまま立ち尽くす。
後ろで誰かが笑った。
呼び方も知らねぇのに、格好つけんなよ。
笑いはすぐに機械音へ消えた。
陽介は振り返らない。
受話器の音だけが、耳の奥で続いている。
その時、作業場の入口から声がした。
何してるの。
掃除用具を持った中年の女だった。
午前中だけ工場に入っている人間で、陽介は名前を知らない。
いつも作業が始まる前に床を拭き、昼になる前には消えている。
誰ともほとんど話さない女だった。
女は床に倒れている男を見ると、手にしていたバケツを落とした。
金属の取っ手が床へぶつかり、乾いた音が響く。
救急車、呼ばないと。
女はそう言って、陽介の手から受話器を取った。
班長がすぐに近づいてくる。
いや、本人が大丈夫って言ってるから。
言ってないべ。
女は男を見たまま答えた。
喋れてないもの。
班長の顔に、露骨な苛立ちが浮かぶ。
大げさにすると、あとでこの人も困るんだよ。
仕事中に倒れたなんて話になったら、面倒になるべ。
女は受話器を持ったまま、班長を見た。
面倒になるのは、あんたらでしょ。
作業場が静まった。
機械はまだ動いている。
それなのに、人の息だけが止まったようだった。
女は電話機の数字を押した。
一つ。
一つ。
九つ。
陽介は、その指の動きを見ていた。
三つの数字。
男が倒れた時に押す数字。
人を運ぶための数字。
助けを呼ぶための数字。
陽介は胸の中で繰り返した。
いち。
いち。
きゅう。
忘れてはいけないと思った。
班長は舌打ちをし、作業場の奥へ歩いていった。
事務所の電話を取り、誰かへ連絡しているらしい。
面倒だ。
勝手に呼びやがって。
話が違う。
途切れ途切れに、その声が聞こえてくる。
救急車が来るまで、思ったより時間があった。
女は倒れた男の頭の下に、畳んだ作業着を差し入れた。
陽介は男の横へ座り、呼吸を見ていた。
時々、男の瞼がわずかに動く。
唇も動く。
けれど、音にはならない。
聞こえますか。
陽介は声を掛けた。
返事はない。
名前、何ていうんですか。
自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。
意識のない人間に聞いても、答えられるはずがない。
それでも、名前がなければ、このまま床の汚れと一緒に拭き取られてしまう気がした。
近くにいた年配の作業員が、ぼそりと言った。
あいはらだよ。
陽介は顔を上げる。
あいはら。
そう。
下の方は知らねぇけどな。
年配の男は、それ以上何も言わず、目を逸らした。
陽介は、口の中で繰り返した。
あいはら。
音だけだった。
どんな文字になるのかは分からない。
掲示板のどこにあるのかも分からない。
胸の内側にしまった泥まみれの紙が、本当にその人のものなのかも確かめられない。
それでも、床に倒れている男は、もう男ではなかった。
あいはらという音を持つ人間だった。
昨日、手を潰した人。
病院へ行く金がないと言った人。
捨てた紙を拾ってほしいと言った人。
今日食べるために、動かない手を隠して働いていた人。
あいはら。
陽介はもう一度、心の中で呼んだ。
遠くからサイレンが聞こえた。
いつも街のどこかで鳴っている音だった。
今までは、また誰か倒れたのだろうと思うだけだった。
今日は、その音がこちらへ近づいてくる。
搬入口の前に救急車が止まる。
赤い灯りが工場の壁へ反射し、濡れた床を断続的に照らした。
隊員が担架を持って駆け込んでくる。
班長がいち早く前へ出た。
朝から体調が悪そうで。
本人も無理して来たみたいで。
こちらは休むように言ったんですが。
陽介は、その言葉が身体の中で冷えていくのを感じた。
違う。
あいはらは、昨日ここで手を潰した。
病院へ行く金がないと言った。
休んだら最後の金も出ないかもしれないと言った。
それでも働いて、今日、倒れた。
なのに班長の口から出る話では、工場はあいはらを気遣っていたことになっている。
掃除の女が、陽介の横で小さく息を吐いた。
始まった。
何がですか。
助けたことにするんだよ。
女の声は疲れていた。
隊員の一人が、あいはらの手に巻かれた布を外す。
黒く腫れた手を見た瞬間、その顔が変わった。
これは、いつ怪我を。
班長はすぐに首を振る。
さあ。
昔から怪我してたんじゃないですかね。
うちでは分からないです。
陽介は立ち上がった。
今日です。
声が震えた。
皆が陽介を見る。
今日じゃなくて、昨日です。
昨日、ここで箱が落ちて、手を怪我しました。
そのあとも、今日まで働いてました。
班長の顔が固まる。
陽介。
低い声だった。
名前を呼ばれたのに、その音には自分を呼ぶ感じがなかった。
止めるための音だった。
陽介は止まれなかった。
病院に行かないのかって聞いたら、金がないって。
休んだら最後の金も出ないかもしれないって。
それで今日も来て、作業してました。
周りの作業員たちは俯いている。
誰も頷かない。
誰も否定しない。
自分の靴先を見ている。
濡れた床を見ている。
まだ回っている機械を見ている。
隊員の一人が陽介へ近づいた。
あなた、怪我をしたところを見ていたんですか。
陽介は頷く。
見ました。
運ばれる方の名前は分かりますか。
陽介は、さっき聞いた音を思い出す。
あいはら、です。
漢字は分かりますか。
陽介は首を振った。
分かりません。
名前も、今聞いたばかりです。
隊員は手元の板に何かを書いた。
鉛筆の先が紙の上を走る。
陽介には、それがあいはらという形なのか、別の何かなのかは分からなかった。
ただ、誰かの手で、倒れた人の名前らしいものが残されている。
それを見ているだけで、胸の奥が痛くなった。
隊員が続けて聞く。
あなたのお名前は。
陽介です。
苗字もお願いします。
その問いで、陽介の身体が固まった。
自分には、もう一つ名前がある。
給与の紙に書かれていたはずだった。
先生に教えてもらった陽と介の前に、別の形があった。
けれど、それが何という音なのか、まだ知らない。
分かりません。
隊員は顔を上げた。
分からない。
自分の、そこはまだ読めないです。
何を言っているのか、自分でも分からなくなった。
けれど、嘘ではなかった。
陽介は胸ポケットへ手を入れる。
先生が自分の名前を書いた紙。
泥に濡れた、あいはらのものらしい白い封筒。
自分が受け取った赤い文字の封筒。
給与の紙。
何枚もの紙が、汗と湿気で重なっている。
陽介はその中から、自分の給与の紙を取り出した。
ここに、たぶん書いてあります。
隊員は紙を受け取る。
折り目を開き、上の方にある文字を見た。
岡崎、陽介さん。
その音を、陽介は初めて聞いたような気がした。
おかざき。
自分に、そんな音がついていた。
先生に教わった陽介は、すでに聞き慣れた名前だった。
けれど、その前にある音は、自分のものなのに、これまで一度も手にしたことがないものに思えた。
隊員が確認する。
岡崎陽介さんで、間違いないですか。
陽介はすぐには頷けなかった。
知らなかった名前を、間違いないと言っていいのか分からない。
けれど、紙にはそう書かれている。
自分が持っていた紙に。
自分の働いた時間や、受け取った金の横に。
はい。
声が小さくなった。
おかざき。
その音を忘れないように、陽介は心の中で繰り返した。
担架が持ち上げられる。
あいはらの身体が、機械の間を通って搬入口へ運ばれていく。
その時、あいはらの目がほんの少し開いた気がした。
陽介は一歩近づく。
あいはらさん。
呼んでみた。
男が聞こえたのかは分からない。
目はすぐ閉じた。
けれど、陽介は初めて、その人を名前で呼んだ。
救急車の扉が閉まる。
赤い灯りが一度、強く床を照らした。
車が走り出し、サイレンの音が遠ざかっていく。
その音が消えると、工場には機械の振動だけが残った。
少し前まで誰かが倒れていた場所に、黒い跡がある。
汗と泥と、血の混じった跡だった。
班長が陽介の前へ来た。
よくやったな。
褒めている声ではなかった。
陽介は黙っていた。
皆、困るんだぞ。
お前が余計なこと喋るせいで、ここが止まったら、働ける場所なくなるやつもいるんだ。
遠くで、誰かが小さく言った。
ほんとだよ。
別の声が続く。
相原だって、騒がれたくなかったべ。
あいはらという音だけが、作業場の中で一度だけ聞こえた。
けれど陽介には、その声が、名前を呼んでいるようには聞こえなかった。
倒れた本人を責めるための音に聞こえた。
掃除の女が、落としたバケツを拾った。
この人らに言っても無駄だよ。
女は陽介を見ずに言った。
悪いのは、倒れ方が下手だった人と、騒いだ人になるから。
班長が女を睨む。
あんたも余計なこと言わなくていいから。
女は返事をしない。
代わりに、バケツへ水を汲み始めた。
班長は床の跡を見て、陽介へ顎をしゃくる。
拭け。
陽介は動かなかった。
お前が止めたんだから、お前が片付けろ。
掃除の女が顔を上げる。
それは私がやる。
いいんです。
陽介は言った。
自分の声が、変に落ち着いていた。
雑巾を取り、水へ浸す。
床へ膝をつく。
黒い跡に雑巾を当てると、最初の一拭きで水が赤黒く濁った。
陽介は手を止める。
さっきまで、ここにあいはらがいた。
声を出せないまま倒れていた。
動かない手を床へ投げ出していた。
息をしていた。
それが、濡れた布一枚で薄くなっていく。
もう一度擦る。
血の色が広がり、油の汚れに混じる。
もう一度。
元から何もなかったように、床の色へ戻っていく。
この工場では、名前より先に跡が消される。
陽介はそう思った。
雑巾を握る手に力が入る。
自分が今拭いているのは、仕事を再開するための汚れだった。
倒れた人間がここにいたことを、邪魔にならないように薄める作業だった。
機械の音が、少しずつ大きくなる。
班長が電源を戻したのだろう。
止まっていた作業員たちが、元の場所へ戻っていく。
誰もあいはらのいた床を見ない。
陽介は汚れた雑巾をバケツへ入れた。
水の中で、黒い赤がゆっくり広がる。
掃除の女が小さく言った。
あんた、今日は帰った方がいいよ。
陽介は首を振った。
帰ったら、今日の分が出ないかもしれないんで。
その言葉を口にした瞬間、自分も同じ場所に立っていることが分かった。
あいはらと同じように。
怪我をした手を隠して働く人間たちと同じように。
終わりの紙を受け取っても、最後の日まで工場へ来る人間たちと同じように。
女は何も言わなかった。
ただ、バケツの濁った水を見ていた。
午後の作業が始まった。
陽介は部品を運ぶ。
持ち上げる。
歩く。
下ろす。
腕は動いている。
足も動いている。
けれど、胸の内側では、紙がずっと擦れていた。
泥に濡れた、あいはらの封筒。
自分の終わりの封筒。
自分の名前が書かれた紙。
作業の合間に、陽介は何度も音を思い出した。
あいはら。
おかざき。
名前が二つ増えた。
それなのに、あいはらはもうここにいない。
自分も、もうすぐここからいなくなる。
消える前に名前を知ることに、何の意味があるのだろう。
その問いは、機械音に掻き消されず、陽介の中に残り続けた。
終業のベルが鳴った頃には、外は暗くなっていた。
陽介は作業着を脱がず、そのまま門へ向かう。
掲示板の前に立つ。
白い紙には、昨日と同じように名前が並んでいる。
自分の名前は見つけられる。
陽。
介。
その前にある文字が、おかざきという音なのだろう。
けれど、どの形が岡で、どの形が崎なのかは分からない。
そして、あいはらという音が、どの形なのかも分からない。
陽介は胸ポケットから、泥に濡れた紙を出した。
昼に拾った、あいはらが自分のものだと言った紙。
封筒は濡れて柔らかくなり、角が破れている。
中に書かれている名前を、陽介は読むことができない。
この紙に、本当にあいはらがいるのか。
掲示板のどこかに、あいはらが並んでいるのか。
明日来た時には、黒い線で塗られているのか。
確かめなければならない。
先生に読んでもらわなければならない。
陽介は紙を破らないように、胸へ戻した。
工場を出る。
道路は、昼間より湿っていた。
雪解けの水が排水溝から溢れ、泥と油を川の方へ流している。
橋の下には、今日は寄らなかった。
火があるかどうかを見る余裕もなかった。
駅裏の集合住宅へ向かって歩く。
先生の部屋の電気は止まっている。
蝋燭も、もう残っているか分からない。
先生自身が起きていられるかも分からない。
それでも、行かなければならなかった。
教えてもらう文字が、また増えていた。
岡崎。
あいはら。
事故。
救急車。
嘘。
それから、悪いという字。
救急車を呼んだ自分が、なぜ悪い人間みたいに見られたのか。
倒れた人を働かせていた班長が、なぜ皆を守る人間みたいに話すのか。
その理由が文字で分かるとは思えなかった。
けれど、言葉を知らなければ、問いにすることさえできない。
海から吹く風には、もう雪の冷たさはなかった。
代わりに、濁った川と、腐り始めた泥の臭いが混じっている。
陽介は歩きながら、音だけを何度も繰り返した。
おかざき。
あいはら。
まだ形を知らない名前が増えるほど、消えていく人間の輪郭だけが、かえって濃くなっていった。




