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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第十三話 相原という字は消される前から薄かった

先生の部屋の前まで来た時、陽介は息を切らしていた。


走ったわけではない。

工場から駅裏までの道を、いつもより少し速く歩いただけだった。


それでも身体は重かった。

一日働いた腕にはまだ鉄の箱の感触が残っている。

膝には、床にこびりついた血を拭いた時の冷たさがあった。


胸ポケットの中で、紙が湿っている。


自分の紙。

赤い封筒。

あいはらのものらしい紙。


破れていないか、歩く間に何度も確かめた。


集合住宅の階段は暗かった。

電球が切れているのか、誰かが外して持っていったのか分からない。

壁に手をつき、二階まで上がる。


先生の部屋の扉の下から、細い明かりが漏れていた。


蝋燭がまだ残っている。


陽介は扉を叩いた。


返事はない。


もう一度叩こうとすると、内側から少女の声がした。


開いてる。


陽介は扉を開ける。


部屋には、昨日と同じ蝋燭が一本だけ立っていた。

昨日より短くなった蝋が、机の上で白く固まっている。


少女は机の前に座り、紙の上に何かを描いていた。


鉛筆ではない。

焦げた木の先だった。


何してる。


陽介が聞く。


字。


少女は顔を上げずに答えた。


紙には、歪んだ形がいくつか並んでいる。


終。

仕事。

金。


先生が書いたものを、真似たのだろう。

どれも途中で潰れ、黒い汚れに近かった。


それでも陽介には、何を書こうとしたのかが少し分かった。


先生は。


少女は部屋の奥を指差す。


寝てる。


布団の上で、先生が横になっていた。

昨日までは座っていた。

毛布を肩に掛け、咳の合間に話していた。


今日は身体を丸めたまま、目を閉じている。


陽介は靴を脱ぎ、紙の間を踏まないように奥へ進んだ。


先生。


声を掛ける。


先生の目がゆっくり開いた。


来たんだ。


声は昨日より細かった。


陽介は頷く。


読みたい紙があって。


先生は、少しだけ笑った。


増えたね。


何がですか。


読みたいもの。


陽介は返事をしなかった。


胸ポケットから紙を取り出す。


最初に、自分の給与の紙を机へ置いた。

次に、泥で汚れた白い紙を置く。

最後に、自分の終わりが書かれている封筒を重ねた。


少女が寄ってくる。


いっぱいある。


先生は身体を起こそうとした。


咳が出る。

毛布の中で肩が何度も跳ねる。


陽介は手を伸ばしたが、触れていいのか分からず、途中で止めた。


先生はゆっくり机の前へ移動する。


蝋燭の火が、その顔を照らした。

頬が昨日より落ちている。

唇の端が乾いて白くなっていた。


まず、自分のを教えてください。


陽介は給与の紙を指差した。


今日、名前を聞かれて。

そこに書いてあるのを読んでもらって、おかざきって。


先生は紙を見る。


それから、焦げた木で少女が字を書いていた紙の裏側へ、鉛筆を走らせた。


岡。


崎。


陽介。


四つの文字が縦に並ぶ。


これで、岡崎陽介。


陽介はじっと見つめた。


岡は、角ばった形だった。

中に何かを囲っているように見える。


崎は、海の近くの崖みたいに線が重なっていた。


これが、俺。


先生は小さく頷く。


そう書いてある。


少女が隣から覗く。


おかざき。


陽介は、少女の口から自分の苗字が出るのを聞いた。


昨日まで、陽介だけだった名前に、急に前がついた。

長くなった分、自分がはっきりしたようにも、知らない誰かに近づいたようにも感じた。


陽介は、指先で岡と崎を一度ずつなぞった。


それから、泥で濡れた紙を先生へ寄せた。


こっちは。


先生の目が紙に移る。


今日、工場で倒れた人のです。

たぶん。


先生の指が止まった。


倒れた。


昨日、手を怪我した人です。

今日、また働いて、倒れて。

救急車で運ばれました。


先生は紙を持ち上げた。


蝋燭の火へ近づける。

泥で滲んだ文字を、目を細めて追う。


少女も黙って見ていた。


陽介は、紙を読む先生の表情から目を離せなかった。


読めるということは、そこにいる誰かを見つけることなのだと思った。


先生の唇が、かすかに動く。


相原。


陽介の胸が詰まる。


これ、あいはらですか。


先生は頷いた。


相原信一。


下の名前は、しんいち。


しんいち。


陽介は初めて聞く音を、小さく繰り返した。


相原だけではなかった。

あの人にも、もう一つ名前があった。


相原信一。


先生は白い紙へ、ゆっくり文字を書く。


相。

原。

信。

一。


陽介は、その形を追った。


相原の最初の字は、二つの形が並んでいる。

原は、屋根の下に何かが入っているみたいだった。


掲示板で見た気がする。


陽介は言った。


先生は顔を上げる。


どこに。


工場の紙に。

俺の名前が並んでる紙に、これと似たのがあった気がします。


先生は、相原の紙を机へ戻した。


明日、見て。


もう消されてるかもしれません。


自分の声が思ったより早く出た。


今日、救急車で運ばれて。

床の血を拭かされて。

班長は、最初から具合が悪かったことにしようとしてました。


先生は黙って聞いている。


陽介は続ける。


俺が話したら、みんな俺を悪いみたいに見ました。

救急車呼んだせいで仕事が止まるって。

あいはらさんも騒がれたくなかったはずだって。


少女が、焦げた木を置いた。


倒れた人、悪いの。


陽介は答えられない。


先生が咳をした。


咳き込みながら、それでも少女へ向かって首を振る。


悪くないよ。


じゃあ、呼んだ人も悪くない。


先生はもう一度頷く。


悪くない。


少女は少し考える。


じゃあ、怒ってる人が悪い。


先生は答えなかった。


蝋燭の火が揺れる。

風が、どこかの隙間から入り込んでいる。


陽介は先生を見る。


違うんですか。


先生は相原の紙を指で押さえた。


この街では、悪い人も、悪くない人も、腹が減ってる。


陽介は黙る。


先生は続けた。


だから、助けられた人を見るより、助けたせいで自分の明日が減るかもしれない方を見る。

それで、倒れた人が悪いことになる。

騒いだ人が悪いことになる。


じゃあ、班長は。


陽介の声が少し強くなる。


先生は答えるまでに時間がかかった。


班長は、悪い側に立つことで、まだ倒れないでいられる人だよ。


少女が言う。


じゃあ、いい人じゃない。


先生は薄く笑った。


そうだね。


陽介は、工場で聞いた班長の言葉を思い出した。


知らないで働いている方が、ずっと立派だ。


あれは、皆を励ます言葉ではなかった。

皆が何も見ないようにするための言葉だった。


それでも、皆がその言葉に従うのは、従わなければ明日食べるものがなくなるからだった。


陽介は、相原信一と書かれた紙を見る。


あいはらさん、どうなるんでしょう。


先生は首を振った。


分からない。


戻ってきますか。


分からない。


先生は咳を堪えるように口元へ手を当てた。


でも、もし戻ってこなくても、紙だけは残る。


陽介は泥で汚れた封筒を見る。


これは、捨てない方がいいですか。


捨てたくないなら、持っていていい。


本人に返せなくても。


先生は陽介を見た。


返せない時のために、残すこともある。


少女が、相原の字を指でなぞった。


あいはら。


発音は少し不器用だった。


けれど、今度は音だけではない。

紙の上に形がある。


陽介は胸の奥で、何かが固まるのを感じた。


明日、掲示板を見ます。


先生は頷いた。


もし消されてたら。


陽介は机の紙を見る。


書きます。


自分で言ってから、手が震えた。


まだ、相原の文字を正しく書ける気はしない。

岡崎でさえ、見ないで書けるか分からない。


先生は鉛筆を陽介へ渡した。


今、書いてみな。


陽介は紙の前へ座り直す。


先生の書いた文字の下に、同じ形を書こうとする。


相の左側。

縦の線。

横の線。

右側の四角い形。


何度も途中で止まる。


原はもっと難しかった。

屋根のような線の下に、形が重なる。


手に汗が滲む。

鉛筆が滑る。


書き終えたものは、先生の字とは似ても似つかなかった。


陽介は顔を伏せる。


読めませんよね。


少女がすぐに言った。


あいはら。


陽介は顔を上げる。


少女は、陽介の歪んだ字を指差している。


だって、今書いてたから。


先生が、小さく息を吐いた。

笑ったのかもしれない。


陽介は自分の書いた文字を見る。


形が正しいから読まれたのではない。

少女が、何を書こうとしているのかを見ていたから読めた。


それでも、相原という名前が、この部屋に一度残った。


先生は毛布の中で身体を丸める。


もう一枚、紙を出した。


何の紙ですか。


陽介が聞く。


先生は、しばらくそれを見たあと、机へ置いた。


昔の俺の給与明細。


蝋燭の火の下で、紙は黄色く変色していた。

折り目がいくつもあり、端は擦り切れている。


工場の。


先生は首を振る。


外にいた頃の。


陽介は息を止めた。


外。


初めて、先生がその場所の紙を見せた。


陽介は数字を見る。


数字だけなら少し分かる。


そこに並んでいる数は、自分の給与の紙にあったものより、桁が多いように見えた。


こんなに。


言葉が口から漏れた。


先生は静かに言う。


同じくらい働いてた。


陽介は自分の紙を横に置いた。


二枚を比べる。


読めない文字の間にある数字だけが、あまりにも違った。


頭の中で何かが崩れる。


少ないと思っていた。

先生にも少ないと言われた。

けれど、どれほど少ないのかを見たのは初めてだった。


これ、外だと普通なんですか。


先生は答えなかった。


その沈黙が、陽介には十分だった。


先生は、外の紙をゆっくり畳む。


陽介。


呼ばれて、陽介は顔を上げる。


掲示板に相原さんの名前が残っていても、消されていても、誰にも見せるな。


どうしてですか。


君まで、消す理由にされる。


少女が不安そうに先生を見る。


消されるって、紙だけ。


先生は返事をしなかった。


その代わり、激しく咳き込んだ。


身体が前へ折れる。

咳が続き、息を吸う音が途中で細く途切れる。


陽介は立ち上がった。


今度こそ病院に。


先生は首を振る。


陽介は、昨夜覚えた数字を思い出した。


一。

一。

九。


助けを呼ぶ数字。


胸の中で形になる。


陽介は部屋の中を見回した。


電話は見当たらない。

携帯もない。

少女が持っているはずもない。


下の部屋か、通りまで走れば、どこかに電話があるかもしれない。


先生が、陽介の袖を弱く掴んだ。


まだ、いい。


その声は、相原が言えなかった言葉に似ていた。


陽介は先生の手を見る。


まだとは、いつまでなのか。

いいとは、誰にとっていいのか。


聞けなかった。


咳が落ち着くまで、陽介は先生のそばに座った。


少女は蝋燭の近くで、何度も相原の字をなぞっていた。


外では、夜の雨が降り始めていた。


春の雨は、雪より音が大きい。

屋根を打ち、窓を伝い、道路の泥をさらに柔らかくしていく。


陽介は、相原信一と書かれた紙を折らずに持ち上げた。


自分の胸ポケットへ入れる前に、もう一度だけ見る。


相。

原。

信。

一。


明日、掲示板の前で、この形を探す。


残っていたら覚える。

消されていたら、自分の紙に書く。


それが何になるのかは分からない。


相原が戻るわけではない。

先生の咳が治るわけでもない。

自分の終わりが取り消されるわけでもない。


それでも、名前を知らないまま、床の汚れと一緒に消されるよりはましだと思った。


部屋を出る時、少女が陽介を追いかけてきた。


廊下は暗い。

雨の匂いが入り込んでいる。


少女は小さな紙切れを差し出した。


そこには、焦げた木で書いた黒い形があった。


形は歪んでいる。

けれど、陽介には分かった。


相原。


持ってて。


少女は言った。


陽介は受け取った。


胸ポケットには、もう何枚も紙が入っている。

金になる紙は一枚もない。


けれど、どれも捨てられなかった。


階段を下りると、雨の中で街の明かりが滲んでいた。


看板の赤い文字も。

閉まった店の張り紙も。

工場の方角に浮かぶ白い光も。


陽介には、まだほとんど読めない。


けれど、読めないものの向こう側に、人の名前があることだけは分かり始めていた。


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