第十四話 黒く塗られた名前の下で水が流れる
翌朝、陽介は工場へ着く前に、橋の上で一度足を止めた。
川は昨日より濁っていた。
雪解けの水に雨が混じり、橋脚の根元へぶつかっては茶色い泡を作っている。
橋の下には、火がなかった。
青いシートの端が風でめくれている。
誰かの足が見える。
眠っているのか、動けないのか、上からでは分からない。
陽介は胸ポケットへ手を入れた。
先生が書いた相原信一の文字。
少女が焦げた木で書いた相原の紙。
自分の終わりが書かれた封筒。
昨日まで、紙は濡れれば燃やすものだった。
今日は、一枚でも失くしたくなかった。
工場へ向かう道には、ぬるい風が吹いていた。
冬が終わりかけている。
けれど、暖かいという感じはしない。
雪に隠れていたごみや泥が露わになり、道の脇から甘く腐った臭いが上がっている。
コンビニの前を通る。
年老いた店員の姿は、今日もなかった。
入口の脇には、赤い文字の紙が貼られたままだった。
新しい働き手を探す紙。
陽介は、その前で足を緩めた。
老人が立っていた場所へ、知らない若い男が入っていた。
制服の袖が長く、何度も手の甲までずり落ちている。
レジの前で店長に何かを言われ、何度も頭を下げていた。
まだ顔色は悪くない。
まだ痩せきってもいない。
陽介は目を逸らした。
あの男も、いつか段ボールの横で眠るのだろうか。
それとも、その前にいなくなるのだろうか。
分からない。
工場の門へ着く。
始業のベルまでは、まだ時間があった。
掲示板の前に立つ。
昨日と同じ白い紙。
透明なカバー。
縦に並ぶ名前。
陽介は、胸ポケットから先生の紙を出した。
最初に、自分の名前を探す。
岡。
崎。
陽。
介。
先生が書いた形と見比べる。
あった。
自分の名前の横には、まだ読めない文字が並んでいる。
けれど、その意味はもう知っている。
終わる側の名前。
陽介は視線を下へ移す。
相。
原。
昨夜、何度も見た形を探す。
少女が書いた黒い線の方が、先生の字より強く頭に残っていた。
歪んでいたからこそ、忘れにくかった。
一行。
二行。
三行。
形を追う。
そして、紙の真ん中あたりで指が止まった。
黒い線が引かれている。
太く、何度も重ねられた線だった。
元の文字は、ほとんど見えない。
けれど、一番端に、消しきれなかった形が残っていた。
左側の縦の線。
その横にある四角い形の端。
相。
陽介は、先生の紙と見比べる。
間違いないと思った。
その下に続いていたはずの形は、黒い線の中へ消えている。
信一まであったのかは分からない。
けれど、そこに相原がいた。
昨日まで、相原信一という人間の名前が並んでいた。
今日、黒く塗られている。
陽介は息を吸った。
胸の奥に冷たいものが入ってくる。
救急車で運ばれた翌朝に、相原の名前は消されていた。
死んだのか。
辞めたのか。
病院にいるのか。
戻ってくるのか。
何一つ分からない。
分かるのは、工場の紙の上では、もう相原がいないことだけだった。
陽介は鉛筆を取り出した。
紙切れの余白に、先生の書いた相原を見ながら、ゆっくり写す。
相。
最初の字は、昨日より少し形になった。
原。
屋根の下の線がうまく書けず、二度なぞった。
その下に、信。
一。
信は難しく、何度書いても崩れた。
一だけは、真っ直ぐ引けた。
相原信一。
歪んだ文字が紙に残った。
消された掲示板の前で、陽介が初めて一人で書いた他人の名前だった。
何書いてんだ。
背後から声がした。
陽介は紙を隠さなかった。
班長が立っている。
煙草は吸っていない。
口元だけが、いつも煙を吐く時と同じように曲がっていた。
これ、あいはらさんですよね。
班長は掲示板を見た。
さあな。
昨日、運ばれた人です。
だから何だ。
何で消したんですか。
班長の目が細くなる。
いねぇやつの名前、残してどうすんの。
いないって、どこに。
知らねぇよ。
病院か、家か、その辺だべ。
戻ってくるんですか。
戻ってこねぇよ。
班長は、あまりに簡単に言った。
あの手じゃ使えねぇし。
それに、面倒起こしたやつ置いといても、ろくなことになんねぇ。
陽介は、握っていた鉛筆へ力を入れる。
面倒を起こしたのは、あいはらさんですか。
班長は一歩近づく。
お前だよ。
陽介は顔を上げた。
お前が騒いで、救急車呼んで、余計なこと喋った。
昨日、事務所に何本電話来たと思ってんだ。
お前が黙ってりゃ、あいつだって少し休ませて終わりだったんだよ。
少し休ませて。
陽介は、コンビニの老人を思い出した。
段ボールの横に寝かされ、休めば戻ると言われていた。
その翌日、店からいなくなった老人。
休ませるという言葉は、この街では助けるという意味ではないのかもしれない。
見えない場所へ動かし、声が出なくなるまで待つことなのかもしれない。
陽介は掲示板の黒い線を見る。
あいはらさん、悪くないです。
班長の顔が引きつった。
何。
悪いのは、倒れるまで働かせた方だと思います。
言ってしまった。
工場の門の前には、始業を待つ人間が何人かいた。
皆、聞こえているはずだった。
けれど誰もこちらを見なかった。
班長は笑った。
先生に何吹き込まれたか知らねぇけど、よく考えろよ。
ここ潰れたら、お前だけじゃねぇんだぞ。
皆、食えなくなる。
陽介は周囲を見る。
俯いている作業員たち。
火のつかない煙草を咥えている男。
薄い作業着で震えている女。
誰も、班長の言葉を否定しない。
昨日までなら、陽介も同じように黙っていた。
ここがなくなれば食えなくなる。
働けるだけありがたい。
倒れた人間より、まだ立っている人間が優先される。
その考えが間違っていると、陽介はまだうまく説明できない。
ただ、相原の名前を黒い線の下へ置いたまま、同じ場所で働くことが怖かった。
ベルが鳴る。
班長は掲示板の前から離れた。
入れ。
今日も金欲しいんだろ。
陽介は返事をしなかった。
紙を胸ポケットへ戻し、工場の中へ入る。
昨日、相原が倒れた場所はきれいになっていた。
自分が拭いた床だった。
血も、泥も、擦った跡さえほとんど残っていない。
その上を、人が歩く。
台車が通る。
金属の箱が運ばれていく。
陽介の作業は、昨日と同じだった。
持ち上げる。
歩く。
下ろす。
けれど、身体が以前のように動かなかった。
床を見るたび、相原の灰色の顔が浮かぶ。
鉄枠へぶつかった音が戻ってくる。
班長が救急隊員へ話していた声が聞こえる。
朝から体調が悪そうで。
こちらは休むように言ったんですが。
持っていた部品が、陽介の手から滑った。
床に落ち、大きな音が鳴る。
班長の怒鳴り声が飛んだ。
集中しろや。
陽介は部品を拾う。
手が震えている。
隣にいた年配の作業員が、小声で言った。
あんまり逆らうな。
陽介は男を見る。
男は手を動かしたまま続ける。
あいはらみたいになりたくねぇなら。
あいはらさんは、何になったんですか。
男の手が一瞬止まった。
それ以上は言わなかった。
昼休み。
陽介は壁際へ座った。
今日も食べ物はない。
水道で水を飲んだが、腹の奥が冷たくなるだけだった。
作業員たちは、陽介から少し離れて座っている。
昨日までと距離が違う。
誰も露骨に睨みはしない。
けれど、近くへ来ない。
陽介の隣には、空いた場所だけが残っていた。
しばらくして、掃除の女が作業場の入口へ現れた。
今日はもう帰ったと思っていた。
女は手に、小さな袋を持っている。
陽介の前まで来て、それを床へ置いた。
食べな。
袋の中には、塩のついた握り飯が一つ入っていた。
陽介は女を見る。
でも。
食べないと倒れるよ。
女はそれだけ言った。
陽介は握り飯を手に取る。
まだ少し温かかった。
一口食べると、喉が詰まりそうになる。
空腹のせいだけではなかった。
あいはらさん、どうなったか知ってますか。
陽介が聞くと、女は立ったまま黙った。
それから、周囲へ聞こえないくらいの声で言った。
病院には着いたみたい。
生きてるんですか。
そこまでは知らない。
女は、掲示板のある門の方を見る。
ただ、ここはもう、あの人が来ないことにしたんだろうね。
陽介は握り飯を飲み込む。
紙から消したから。
女は陽介を見た。
紙から消される前に、人から消されるんだよ。
意味を聞こうとした時、休憩の終わりを知らせるベルが鳴った。
女は空になった袋を拾い、去っていく。
午後、陽介は一度だけ掲示板の方を見た。
工場の中からは見えない。
壁の向こうにあるだけだった。
それでも、黒い線の下に相原がいることを、もう忘れなかった。
仕事が終わると、陽介は真っ先に門の横へ向かった。
相原の消された行は、そのままだった。
黒い線は、朝より乾いて濃く見える。
陽介は胸ポケットから紙を出す。
自分で書いた相原信一。
形は歪んでいる。
それでも黒い線よりは、名前に見えた。
陽介は、その紙の下へもう一つ書いた。
岡崎陽介。
先生の字を見ながらではあったが、朝よりは迷わず書けた。
消された相原の名前。
まだ消されていない自分の名前。
二つを並べて見る。
その時、工場の門から班長が出てきた。
まだいたのか。
陽介は紙を畳む。
班長は掲示板を見て、それから陽介の手元を見る。
変なことすんなよ。
変なこと。
陽介はその言葉を繰り返した。
文字なんか覚えても、お前の金は増えねぇ。
あいつも戻ってこねぇ。
先生だって、どうせ長くねぇだろ。
陽介の身体が強張る。
班長は何でもないことのように続ける。
知ってどうすんだよ。
苦しくなるだけだべ。
それは、橋の下の老人も言っていた言葉だった。
読むと、苦しい。
知ると、眠れない。
何も変わらない。
陽介は紙を胸へしまう。
それでも、あいはらさんがいなかったことにはしたくないです。
班長は、しばらく陽介を見た。
そして、初めて笑わなかった。
好きにしろ。
声は低かった。
ただ、お前も貼られてんの忘れんなよ。
班長は工場へ戻っていった。
陽介は掲示板の自分の名前を見る。
黒い線は、まだ引かれていない。
けれど、いつ引かれるかはもう分かっている。
月が終われば、自分もここから消える。
この白い紙からも。
作業場からも。
誰かの記憶からも。
陽介は、相原の消された行へ指を当てた。
透明なカバー越しで、文字には触れられない。
冷たい板の感触だけが指先に残る。
遠くで、海へ流れ込む川の音が聞こえていた。
春の水は、冬の間に溜まったものを何も選ばず運んでいく。
泥も。
ごみも。
捨てられた紙も。
誰かがここにいた痕跡も。
陽介は駅裏へ向かって歩き出した。
先生に伝えなければならない。
相原の名前は消されていた。
けれど、自分が書いた。
少女も書いた。
消された名前を、二人はもう知っている。
街の灯りが、濁った水溜まりに揺れていた。
陽介は歩きながら、声に出さずに文字を思い浮かべた。
相原信一。
岡崎陽介。
名前は、呼ばれるためだけのものではない。
消された時に、消されたと気づくためにもあるのだと思った。




