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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第十五話 消えた名前を写す指に

先生の部屋へ向かう途中で、雨が降り始めた。


粒の細かい、音のしない雨だった。

頬に触れてから、降っていることに気づくような雨。


春になりかけた街は、夜になるとまだ冷える。

道路の端には雪の名残が黒く固まり、その脇を泥水が細く流れていた。


陽介は胸ポケットを押さえながら歩いた。


中には、相原信一と書いた紙がある。

その下には、自分の名前も書いてある。


工場の掲示板では、相原の名前は黒い線になっていた。

けれど、ここには残っている。


自分で書いた文字は歪んでいた。

先生の字と並べたら、まだ子どもの落書きに近い。


それでも、あれが相原の名前だと分かる。


読めるということが、少しだけ変わってきていた。


形を知ることではない。

その形の向こうに、誰がいたのかを忘れないことだった。


駅裏の集合住宅へ着く。


二階の奥の窓に、灯りはなかった。


昨日は蝋燭の炎が見えた。

今日は赤い看板の明かりさえ、カーテンに遮られている。


陽介は階段を上がった。


扉の前に、少女が座っていた。


膝を抱え、顔を伏せている。

足元には、濡れた紙袋が一つ置かれていた。


どうした。


声を掛けると、少女は顔を上げた。


目の周りが赤い。


先生、開けない。


陽介は扉を見る。


叩いたのか。


いっぱい。


少女は小さく答えた。


陽介は扉を叩いた。


先生。


返事はない。


もう一度、少し強く叩く。


部屋の中は静かだった。


昨日までは、返事がなくても咳が聞こえた。

本を動かす音がした。

布団の上で身体を起こす気配があった。


今日は何もない。


陽介は取っ手へ手を掛けた。


鍵は掛かっていなかった。


扉を開けると、冷たい空気が流れてきた。


電気の止まった部屋は、外より暗かった。

本の山も、机も、布団も、すべて輪郭だけになっている。


少女が陽介の後ろから入ってくる。


先生。


陽介はもう一度呼んだ。


奥の布団が、わずかに動いた。


息を吐く音がした。


陽介は急いで近づく。


先生は毛布の下で横になっていた。

目は閉じたままだったが、唇が小さく動いた。


うるさいな。


声はほとんど息だった。


少女が、泣きそうな声を出す。


死んだかと思った。


先生は目を開けずに言った。


まだだよ。


陽介は布団の脇へ座った。


顔が熱そうだった。

額に汗が浮いている。

毛布を掛けているのに、身体は細かく震えていた。


病院、行きましょう。


またそれ。


今日は行ってください。


陽介は胸ポケットへ手を入れた。


俺、電話の数字覚えました。

一、一、九です。

下の通りまで行けば、店の電話借りられるかもしれない。


先生は、ゆっくり目を開けた。


その数字は、覚えておいて損はないね。


行くんですよ。


先生は答えず、咳き込んだ。


身体を起こす力もないのか、横になったまま肩だけが震える。

口元に当てた布は、昨日より赤く汚れていた。


少女が紙袋を開ける。


中には、小さなペットボトルの水と、潰れたパンが一つ入っていた。


水、飲む。


先生は首を横へ動かした。


陽介がペットボトルを受け取り、蓋を開ける。

先生の肩を支えて、少しだけ身体を起こした。


先生は一口飲んだ。

すぐにむせた。

水が顎から毛布へ落ちる。


もういい。


先生は言った。


陽介は水を机へ置く。


机の上には、昨日の紙が残っていた。


岡崎陽介。

相原信一。

契約。

満了。


蝋燭が消えたあとも、文字だけはそこにあった。


陽介は濡れないように懐へ入れていた紙を取り出す。


先生。


先生は目だけを動かした。


相原さんの名前、消されてました。


少女が陽介の手元を見る。


消されたの。


陽介は頷く。


黒い線で、見えなくされてた。

でも、少し残ってて、相原って分かりました。


先生は目を閉じる。


早かったね。


どういう意味ですか。


仕事場っていうのはね。


先生は息を整えるように間を置いた。


働けなくなった人間のことは、早く消したがるんだよ。

残っていると、どうしていなくなったのか、誰かが聞くかもしれないから。


陽介は、掲示板の黒い線を思い出す。


相原は、ただ辞めた人間ではない。

怪我をして、倒れて、救急車で運ばれた。


名前が残っていれば、いつか誰かが、その順番に気づくかもしれない。


だから消した。


そんなことをして、いいんですか。


陽介が聞くと、先生は少しだけ笑った。


いいか悪いかを決める人が、この街にはあまりいないんだよ。


悪いって思う人はいます。


君みたいに。


陽介は黙った。


先生は続ける。


でも、思うだけじゃ、すぐ消える。

腹が減って、眠って、次の日にはまた働かなくちゃならない。

怒っている時間を持てる人は少ない。


陽介は紙を見た。


自分で書いた相原信一。

その下の岡崎陽介。


だから、書いたんです。


先生が目を開ける。


消されたから、書きました。

ちゃんと書けてるか分からないけど。


陽介は紙を机の上へ広げた。


少女がすぐ横へ来る。


私も書いた。


少女はポケットから、焦げた木で書いた紙切れを出した。

黒い汚れのような字で、相原と並んでいる。


先生は、二枚の紙をしばらく見ていた。


薄暗くて、本当に見えているのかは分からない。


けれど、口元がわずかに緩んだ。


残ったね。


陽介の胸が詰まる。


その一言が、救いなのかどうかは分からなかった。


相原は病院にいる。

生きているのかも分からない。

名前を紙に書いたところで、傷が治るわけではない。


それでも、黒い線だけにならなかった。


先生がゆっくり手を伸ばす。


机の端にある紙束から、一枚抜き取った。


薄い紙だった。

縦に線が入り、小さな文字がいくつも並んでいる。


これは。


陽介が聞く。


俺が、昔ここで働いていた時の紙。


先生は答えた。


工場で。


うん。


陽介は、先生が工場のことを知りすぎている理由を初めて理解した。


先生は、外にいた人だった。

けれど、戻ってきてからは、陽介と同じ工場にいた。


先生は紙の一箇所を指差した。


ここ、俺の名前。


陽介は目を凝らす。


知らない形が並んでいる。


読んでください。


先生は小さく息を吸った。


高瀬、宗一。


たかせ。

そういち。


陽介は繰り返した。


先生は先生である前に、高瀬宗一という名前を持っていた。


少女も、小さく言った。


たかせそういち。


先生は少し笑った。


初めて呼ばれた気がするな。


誰にも呼ばれなかったんですか。


工場じゃ、先生だったから。

橋の下でも、先生。

外から戻ってきてから、名前で呼ぶ人はほとんどいなかった。


陽介は、紙の上の形を見る。


教えてください。


先生は眉をわずかに動かす。


先生の名前。

俺、書きたいです。


少女も頷く。


私も。


先生は咳の間に、鉛筆を探した。

陽介が自分の胸ポケットから短い鉛筆を出す。


先生は震える指で紙に書いた。


高。

瀬。

宗。

一。


最後の一は、途中で線が震えた。


陽介はその下へ写す。


相原より難しかった。

高の中の線が曲がる。

瀬は何度見ても形を掴めない。

宗の上の部分は屋根のように見えた。


少女も焦げた木で書く。

紙が黒く汚れ、途中で指まで黒くなった。


先生は二人の手元を見ていた。


その目が、少しだけ穏やかだった。


陽介。


先生が呼ぶ。


はい。


読めるようになったら、紙を一枚、取っておいて。


何の紙ですか。


消された人の名前を書く紙。


陽介は鉛筆を持ったまま、先生を見る。


誰にも見せなくていい。

何かを訴えるためじゃなくてもいい。

ただ、ここにいた人間が、初めからいなかったことにならないように。


先生の呼吸が浅くなる。


陽介は何も答えられなかった。


それは、あまりに大きな役目に思えた。

自分はまだ、自分の名前を見ながらでなければ書けない。

仕事もなくなる。

明日食べるものもない。


それでも、机の上に並んだ三つの名前を見る。


相原信一。

岡崎陽介。

高瀬宗一。


少女の名前だけがない。


陽介は気づいた。


お前の名前は。


少女はきょとんとした。


分かんない。


呼ばれてる名前は。


少女は少し考えた。


ちい。


それだけ。


先生が布団の中で目を閉じた。


陽介は少女を見る。


ちいという音に、どんな文字があるのか。

本当の名前なのか。

誰がそう呼び始めたのか。


何も分からない。


少女は自分の黒く汚れた指を見ている。


私のも、あるのかな。


陽介は、すぐに答えた。


探そう。


言ってから、自分の声が部屋の中に残った。


先生は目を閉じたまま、ほんの少し笑った。


外の雨が強くなる。


蝋燭のない部屋で、赤い看板の光だけが机の紙を照らしていた。


相原信一。

高瀬宗一。

岡崎陽介。

そして、まだ文字のない、ちい。


紙は薄く、火に入れればすぐ燃える。

雨に濡れれば崩れる。

黒い線を引かれれば、名前は簡単に見えなくなる。


陽介は三枚の紙を重ね、濡れないように内ポケットへ入れた。


先生の咳が、暗い部屋の奥でまた始まる。


今度こそ数字を使わなければならないのではないかと、陽介は思った。


一。

一。

九。


助けを呼ぶための数字。


けれど、その時、先生は目を閉じたまま言った。


明日、来て。


陽介は唇を噛んだ。


明日まで、この人はいるのだろうか。


雨音の中で、答えはどこからも返ってこなかった。

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