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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第十話 赤い封筒を開く部屋に春は来ない

先生の部屋の灯りはついていなかった。


駅裏の集合住宅まで来た時、陽介は初めて足を止めた。


いつもなら、二階の奥の窓に細い明かりが見える。

本を読むには暗すぎる、黄色い電球の明かり。

それが今夜はない。


建物の外壁には、昼間の雨がまだ残っていた。

黒ずんだ壁を水が細く伝い、地面の水溜まりへ落ちる。


陽介は胸の内ポケットを押さえた。


赤い文字のある封筒。

先生に読んでもらわなければならない紙。


橋の下で老人に言われた言葉が、まだ残っている。


苦しい方へ行くのか。


陽介には、まだ答えが分からなかった。


ただ、読めないまま持っている方が、今は苦しい気がした。


階段を上がる。


一段ごとに、靴の裏が湿った音を立てる。

二階へ着くと、先生の部屋の前に人が立っていた。


見たことのない女だった。


年は四十より上だろうか。

髪を後ろで束ね、薄い上着の上にエプロンを着ている。

片手に小さなごみ袋を持っていた。


女は陽介を見る。


あんた、ここの人に用。


陽介は頷く。


先生に。


女の眉が少し上がった。


先生。


その呼び方を、馬鹿にしているのか警戒しているのか分からなかった。


女は先生の扉を見る。


また若いの呼んでるんだ。


陽介は何も言わない。


女はごみ袋を持ち直した。


あの人、変なことばっかり教えるからね。

紙だの、金だの。

知らなくていいこと知って、人の仕事まで駄目にする。


陽介は胸の封筒に触れる。


仕事を駄目にする。


その言葉が、うまく飲み込めなかった。


俺は、もう終わりって書かれたみたいで。


口にすると、女はため息をついた。


だからでしょ。

そういうのを知るから、変に落ち込むの。

黙って次の仕事探せばいいのに。


でも、知らなかったら、明日も行くところでした。


行けばよかったじゃない。


女は当たり前のように言った。


行って、使ってもらえるところまで使ってもらえば、何か食べられたかもしれないべ。

紙読んだって、ご飯にならないんだから。


陽介は返事ができなかった。


その言葉は、橋の下の老人の言葉にも似ていた。

工場の班長の言葉にも似ていた。


けれど、女は怒鳴ってはいない。

ただ、隣の部屋に住む人間として、普通のことを話しているだけだった。


この街では、誰かを知らないまま働かせる方が優しくて、知ろうとさせる方が冷たいのかもしれない。


陽介は扉を叩いた。


返事はない。


もう一度叩く。


中で、小さな物音がした。


女が舌打ちをする。


いるなら出ればいいのに。


しばらくして、鍵の外れる音がした。


扉が開く。


先生は、壁に手をついて立っていた。


昨日よりも顔が白い。

髪が汗で額に貼りついている。


先生は女を見ると、少し困ったように笑った。


すみません、音、うるさかったですか。


音じゃないよ。


女は吐き捨てるように言う。


若い人に変なこと教えないでくれる。

働ける人まで、働けなくなったら困るから。


先生は何も言わなかった。


女は陽介を一度見て、階段の方へ歩いていく。


降りる途中で、まだ声がした。


知識なんか持たせたって、誰も幸せにならないのに。


足音が遠ざかる。


先生は、扉の枠に手を掛けたまま、しばらく動かなかった。


入る。


陽介は頷いた。


部屋の中は暗かった。


電球が切れたわけではない。

机の上の紐を引けば灯りはつくはずだった。


先生は電気をつけず、布団までゆっくり歩いて座り込む。


灯り、つけないんですか。


電気、止まった。


先生は短く答えた。


陽介は天井から垂れた紐を見る。


昨日まで、黄色い光の下で文字を教えてもらった。

今日も同じつもりで来た。


けれど部屋は、窓の外にある赤い看板の光だけでぼんやり照らされている。


先生の本は、影の中に積まれていた。


文字が見えない本は、ただの黒い壁みたいだった。


陽介は机の前へ座る。


胸から白い封筒を出した。


これ、今日もらいました。


先生は封筒を見た。


赤い文字だけが、窓の外の光に重なって見える。


開けていい。


陽介は答える前に、封筒を先生へ差し出した。


先生は端に指をかける。


指が少し震えていた。

うまく破れず、封筒の口を何度もこする。


陽介は、先生の手が思っていたより細いことに気づいた。

工場で紙を折っていた時には、もっとしっかりした手に見えていた。


ようやく封筒が開く。


中から一枚の紙が出た。


先生は窓の近くへ身体を寄せ、外から入るわずかな光で読む。


陽介は待つ。


雨樋から雫が落ちる音がする。

遠くで、工場の夜間作業の音が鳴っている。


先生の息が、紙の上で止まる。


何て書いてありますか。


陽介が聞く。


先生は、文字を指でなぞった。


契約期間満了。


陽介は、その音を繰り返せなかった。


先生は、紙の余白に鉛筆を当てる。


暗くて見えにくいのか、何度も窓へ近づけながら、大きく二文字を書く。


契約。


陽介は黒い形を見る。


何ですか、それ。


働く約束。


前に少し話したやつ。


先生は続けて書く。


満了。


約束が終わる、という意味。


陽介は、昨日覚えた終の字を探した。

同じ形はない。


終わりなのに、終という形がない。


終わりって、書かれてないんですか。


先生は笑った。


終わりにも、いろんな書き方があるんだよ。


陽介は封筒の紙を見る。


終わることを、違う形で書く。

分からない人間には、何も起きていないように見える形で。


俺、何か悪いことしたんですか。


先生の顔から、わずかな笑いが消えた。


してない。


じゃあ、何で終わるんですか。


先生は紙を机へ置いた。


向こうが、終わらせたいから。


向こう。


会社。


陽介は、その言葉だけは知っていた。

工場のことだと思っていた。

門。

機械。

班長。

油の臭い。


けれど、会社というものは、陽介にとって建物より大きなものではなかった。


会社って、人なんですか。


先生は少し黙った。


人が作ったものだよ。


じゃあ、人が俺を終わらせたんですか。


先生は答えなかった。


答えないことが、答えに思えた。


陽介は紙の上の文字を見た。


自分には読めない文字で、自分の明日が決められている。

その紙は、工場の誰かが作り、自分へ渡し、自分が先生の部屋まで運んだ。


読めなければ、ただの薄い紙だった。


読んでもらうと、それは急に、部屋の空気より重くなった。


先生が咳をした。


今度は、すぐに止まらなかった。


肩を丸め、口を押さえたまま、何度も息を詰まらせる。

暗い部屋の中で、その音だけが大きく響く。


陽介は立ち上がる。


病院、行きましょう。


先生は手を振った。


大丈夫。


大丈夫じゃないです。


声が大きくなった。


陽介自身が驚くほどだった。


先生は咳の合間に、かすかに笑う。


読めるようになると、言うことも変わるね。


陽介は黙った。


先生の口元を押さえていた布に、黒っぽい染みが広がっている。

暗いせいで、それが何色なのかは分からない。

分からない方がいいものだと、陽介の身体のどこかが知っていた。


けれど、目を逸らせなかった。


先生は息を整えながら言う。


病院へ行くにも、紙が要るんだ。


紙。


金の紙。

名前の紙。

どこで働いているかの紙。

何を払ってきたかの紙。


先生は苦しそうに笑う。


読めても、揃わないものは揃わない。


陽介は、机の上の封筒を見る。


自分の終わりが書かれた紙。

先生の周りに積まれた、読めるけれど役に立たない紙。


文字は、知ればすぐに人を助けるものではない。


それでも、知らなければ、自分が何を失ったのかすら分からない。


陽介は鉛筆を取る。


先生が書いた契約という文字の下に、見よう見まねで線を引く。


形は歪んだ。

一つ目の字は途中で潰れ、二つ目は別の何かに見えた。


先生が、息を切らしながら聞く。


書くの。


覚えます。


何のために。


陽介は手を止めた。


何のためかは、まだ分からない。


仕事が戻るわけではない。

腹が満たされるわけでもない。

先生の咳が止まるわけでもない。


それでも答えた。


消されたくないんで。


先生は何も言わなかった。


部屋の外から、小さな足音が聞こえる。


扉が軽く叩かれた。


陽介が開けると、少女が立っていた。


手には、細い蝋燭が一本あった。


電気ついてないから。


少女は言う。


下のおばさんに一本だけもらった。


陽介は道を開ける。


少女は部屋へ入り、机の上に蝋燭を立てた。

火をつけるものは持っていなかった。


先生が布団の脇から小さなライターを出す。


何度か擦り、ようやく火がつく。


蝋燭の明かりが、三人の顔を照らした。


本の背表紙が見える。

机の紙が見える。

先生の口元を押さえていた布の赤さも見える。


少女はそれを見た。


先生、赤い。


先生は布を裏返した。


大丈夫。


少女は、納得しない顔のまま、机の紙を見る。


これ、何。


陽介は答える。


契約。


少女が聞き返す。


けいやく。


仕事の約束。


先生に教わったばかりの言葉を、陽介は自分の口で説明した。


少女は蝋燭の火の向こうから、封筒を見ている。


それ、いいやつ。


陽介は首を振った。


終わりのやつ。


少女は少し黙った。


それから、陽介が書き損じた文字を指でなぞる。


これも覚える。


先生が、布団の上で目を閉じた。


蝋燭の炎が小さく揺れる。


外では、濁った雪解け水が川へ向かって流れている。

誰かの捨てた紙も、踏み潰された食べ物も、道路の油も、同じ流れの中へ混ざっていく。


陽介は、自分の終わりが書かれた紙を折った。


その隣に、覚えかけの文字を書いた紙を重ねる。


自分一人なら、いつか忘れるかもしれない。

けれど少女が覚えると言ったことで、文字は少しだけ消えにくくなった気がした。


その夜、三人は蝋燭が短くなるまで、暗い部屋に座っていた。


先生はもう教えなかった。

陽介も質問をしなかった。

少女だけが時折、紙の上の形を指で追っていた。


赤い封筒は、机の端に置かれていた。


春が近いはずの夜だった。


けれど部屋の中には、雪の頃より深い寒さが残っていた。

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