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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第九話 消された名前の向こうで海が濁る

翌朝、陽介は鉛筆を持って部屋を出た。


先生の部屋から持ち帰った、短い鉛筆だった。

貸してほしいと言ったわけではない。

帰り際、机の上に置かれたままのそれを、先生が紙ごと陽介の手へ押しやった。


忘れるから、持っていな。


先生はそう言った。


何を忘れるのか、陽介には分からなかった。

文字なのか。

自分の名前なのか。

終わるということなのか。


鉛筆は、作業着の胸ポケットに入れてある。

給与の紙と、先生に書いてもらった紙の間に挟んだ。


歩くたび、芯が折れないか気になった。


朝の街は、昨日より明るかった。


雲の切れ間から薄い光が落ち、濡れた道路を白く光らせている。

雪が消えた場所からは、黒い土と、潰れた空き缶と、古い靴下が現れていた。


冬の間、白いものの下に隠れていたものが、少しずつ顔を出している。


陽介はコンビニの前を通る。


ガラスの向こうに、店長が見えた。

レジの奥に立ち、新聞を広げている。


年老いた店員はいない。


少女もいない。


入口の脇には、新しい紙が貼られていた。

赤い文字が大きく、その下に黒い形が並んでいる。


陽介は足を止める。


昨日までなら、ただの赤い紙だった。


今日は違う。


先生に教わった形を探す。


仕事。


金。


終。


どれも見つからなかった。

あるのかもしれないが、形が違って見える。

文字は、一つ覚えれば急に全部が分かるものではなかった。


ガラス越しに、店長が顔を上げる。


陽介と目が合った。


店長は新聞を畳み、入口の方へ歩いてくる。


自動ドアが開いた。


何。


陽介は紙を指差した。


これ、何て書いてあるんですか。


店長は一瞬、陽介の顔を見た。


それから、笑った。


お前、読めねぇの。


陽介は黙っていた。


店長は紙を見上げる。


人募集してんの。

夜入れるやつ。


前にいたおじいさんは。


ああ。


店長は面倒そうに首の後ろを掻いた。


辞めたよ。


昨日、倒れてたのに。


だからだべ。

仕事できねぇやつ置いてても仕方ねぇし。


声には、怒りも迷いもなかった。

床に落ちたゴミを拾う話でもしているようだった。


陽介は紙の赤い文字を見る。


新しい人を入れる紙。

倒れた老人がいなくなった場所を埋める紙。


昨日、老人は段ボールの上で息をしていた。

赤い紙を見ながら、いいことが書いてある気がすると笑っていた。


あの人、金は。


店長の眉が少し動く。


何。


働いた分、もらったんですか。


自分の口から出た言葉に、陽介自身が驚いた。


昨日まで、そんなことを聞こうと思ったことはなかった。

もらえているのか。

もらえていないのか。

それを確かめることが、何の役に立つのかも知らなかった。


店長の顔から笑いが消える。


お前、何様なの。


陽介は答えられない。


店長は自動ドアの内側へ戻りながら言った。


世話してやってたんだよ、こっちは。

働けねぇのに置いてやって、余りもんまで食わせて。

最後に具合悪くなったからって、こっちが悪いみたいに言うな。


陽介は立ったまま、動けなかった。


店長は善い人として話している。


本当に、自分は善いことをしてきたと思っている顔だった。


コンビニの中では、暖房の風で天井から吊られた広告が揺れている。

色のついた飲み物。

柔らかそうなパン。

白い湯気の立つ弁当。


その下で、老人の立っていたレジだけが空いていた。


陽介は工場へ向かった。


工場の門の前には、すでに何人かが集まっていた。

煙草を吸う者。

地面を見ている者。

靴の中へ入った水を気にして足を振る者。


掲示板の前には誰もいない。


陽介は真っ先にそこへ向かった。


白い紙は、昨日と同じ場所にある。


名前の列。

その中に、自分の名前。


昨日覚えた形を指で追う。


陽。

介。


間違いない。


名前の横には、まだ読めない文字が並んでいる。

たぶん、終わりに関係するものなのだろう。


陽介はその下へ目を移した。


名前が並んでいる途中に、黒い線で塗り潰された場所があった。


一行だけではない。


二行。

三行。


上から太い線を引かれ、元の形がほとんど見えなくなっている。


先生が言っていた。


名前が消された跡には、前にいた人がいる。


陽介はポケットから紙と鉛筆を出した。


先生が書いてくれた自分の名前の裏側を使う。


掲示板にある黒い線を、そのまま写そうとした。


けれど、消されたものを写すことは難しかった。


線の下に、何があったのか分からない。

名前だったのか。

誰の名前だったのか。

いつ消されたのか。


陽介は、紙に三本の線を引いた。


一人。

二人。

三人。


名前は分からなくても、消された場所が三つあったことだけは残せると思った。


何やってんだ。


後ろから声を掛けられた。


昨日、手を怪我していた男だった。


今日も布を巻いている。

昨日より赤い染みは薄いが、手はひどく腫れていた。


陽介は紙を隠さなかった。


消されてるところ、見てました。


男は掲示板を見る。


ああ。


知ってるんですか。


知ってるやつもいる。


誰なんですか。


男は少し考える顔をした。


一人は、去年ここで倒れたやつ。

一人は、急に来なくなった女。

もう一人は知らねぇ。


倒れた人は。


運ばれた。


戻ってきたんですか。


戻ってくるわけねぇべ。


男は怪我をしていない方の手で煙草を取り出す。

火をつける指が、寒さでうまく動かない。


陽介は紙の三本線を見る。


戻ってこない人の名前が、ここにあった。

そして今は、線で消されている。


消す必要って、あるんですか。


男は煙を吐きながら、陽介を見た。


残ってたら、気持ち悪いべ。


何が。


もういねぇ人が。


陽介は掲示板を見る。


消された線の上には、別の名前が並んでいる。

自分の名前もある。


いなくなる前から、もう消される準備をされているように見えた。


始業のベルが鳴った。


男は煙草を足元で消す。


行くぞ。

今日働かねぇと、今日食えねぇから。


陽介も紙を畳む。


その言葉は、昨日までなら何も疑わず受け入れられた。


今日は、少し違った。


今日働いても、今日食えない者がいる。

倒れるまで働いても、次の日にはいないことにされる者がいる。

それでも、働けるだけありがたいと言わなければ、悪い人間にされる。


工場の中は、いつものように冷えていた。


機械が回り始める。

鉄が擦れる。

人の声が飲み込まれる。


陽介は台車を押しながら、文字の形を思い出していた。


仕事。

金。

終わり。


そして、まだ知らない形。


消すという字。

いないという字。

悪いという字。


昼前、班長が紙束を抱えて作業場へ入ってきた。


何人かを呼びつけ、紙を渡している。


受け取った人間は、封筒をそのまま作業着の中へ突っ込む。

中を見ようとする者はいない。


班長が陽介の前に来た。


お前も。


差し出されたのは、白い封筒だった。


昨日までの薄茶色のものとは違う。

端に赤い文字がある。


陽介は受け取る。


班長は次の人間へ向かおうとする。


陽介は呼び止めた。


これ、何ですか。


班長は足を止める。


昨日言ったべ。

終わりの紙だ。


陽介は封筒を見た。


開けても、読めない。


けれど、もうポケットへ入れて忘れることはできなかった。


先生に読んでもらう。


陽介がそう言うと、班長の目が細くなった。


好きにすればいいけどよ。


班長は声を落とす。


あいつみたいになんなよ。


陽介は顔を上げる。


あいつみたいに。


読めるから何だってんだ。

仕事もねぇ。金もねぇ。橋の下のやつらと火ぃ囲んで。

余計なもん分かって、勝手に腐ってんだべ。


班長は笑った。


知らねぇで働いてる方が、ずっと立派だ。


その言葉を聞いた瞬間、陽介は、昨夜先生が咳をしていた姿を思い出した。


痩せた身体。

冷えた部屋。

パンの小さな欠片。

紙を濡らさないように抱えていた指。


先生が立派なのかは分からない。

自分が立派になりたいのかも分からない。


ただ、知らないまま働くことを褒める班長の声が、ひどく遠く聞こえた。


陽介は封筒を内ポケットに入れた。


給与の紙。

名前を書いた紙。

短い鉛筆。

終わりの封筒。


胸のあたりだけが、妙に重かった。


夕方、工場を出た時には、海の方から濃い霧が上がっていた。


川の水は雪解けで増え、茶色く濁っている。

橋の下の青いシートは、その向こうにぼんやり見えるだけだった。


陽介は階段を下りる。


火のそばには、歯の少ない老人と、中年の女がいた。


先生はいない。


先生、今日は。


陽介が聞くと、女は火へ紙をくべながら言った。


部屋じゃねぇの。


老人が缶を両手で包む。


昨日から咳、ひどかったからな。


陽介は胸の封筒を押さえた。


コンビニのおじいさん、いなくなったみたいです。


女は火を見たまま言う。


ああ、あの人か。


知ってるんですか。


ここにいたことあるからな。


陽介は老人を見る。


店で働く前。


女が答える。


夜、寒いって言って、あそこに入った。

寝るとこあるって喜んでたよ。


陽介は、コンビニの明るい窓を思い浮かべた。


段ボールの横。

暖房の届かない床。

それでも橋の下よりは良かったのだろうか。


老人が言う。


いい店長さんだって言ってたな。


陽介は口を開きかけた。


けれど、何も言えなかった。


老人にとっては、本当にそうだったのかもしれない。

床で寝かせ、倒れれば切り捨てる人間でも、橋の下から拾った時点で善い人になる。


その善さを否定したら、老人が一度だけ喜んだことまで消してしまう気がした。


火の中で、紙が一枚丸まっていく。


陽介は内ポケットから封筒を出した。


赤い文字が、火の色に照らされる。


燃やすのか。


老人が聞く。


陽介は首を振る。


読んでもらいます。


誰に。


先生に。


老人は少し黙り、それから笑った。


お前も、苦しい方行くのか。


陽介は答えなかった。


橋の上を車が通る。

濁った川の音が、暗がりで大きくなっていた。


陽介は封筒を抱えたまま、先生の部屋がある方角を見た。


街の灯りの中に、読めない看板がいくつも浮かんでいる。


そのどれかに、善いことが書いてあるのかもしれない。

そのどれかに、誰かが消される理由が書いてあるのかもしれない。


知らないままなら、寒さに耐えるだけで済んだ。


けれど陽介は、もう寒さだけを苦しいと思うことができなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


このたび、第一話から第九話までを思い切って書き直しました。


書き始めた頃は、描きたい世界の重さに対して、場面の積み重ねや人物の息遣いがまだ足りていないと感じていました。

ヨウスケが何を見て、何を知らず、どの瞬間から違和感を抱き始めるのか。

その流れをもう一度見直し、物語の入口から丁寧に組み直しています。


展開や描写が変わった部分もありますが、この作品で書きたいものは変わりません。


見えないまま消されていく人のこと。

名前や時間を持つことさえ難しい暮らしのこと。

そして、知らなかったことに気づいてしまった人間が、それでも目を逸らさずに進んでいくこと。


第九話以降は、ヨウスケが少しずつ文字と人の名前に触れ、この町の異常さを自分の目で見始めていきます。


すでに読んでくださっていた方には、お手数をおかけしてしまい申し訳ありません。

それでも、今の形で改めてこの物語を届けたいと思いました。


引き続き、見届けていただければ嬉しいです。

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