第八話 終わりという字を覚えた夜
先生の部屋へ向かう途中、陽介は一度だけ立ち止まった。
駅裏の細い道に、水溜まりが続いている。
雨は止んでいるのに、屋根の先からはまだ雫が落ちていた。
街灯の明かりが水面に揺れ、何かの文字みたいに崩れていく。
内ポケットの紙が、歩くたび胸に当たる。
自分の名前。
掲示板。
今月で終わり。
班長の声が、機械の音よりも長く頭に残っていた。
別に、お前だけじゃねぇから。
その通りなのだろう。
自分だけではない。
片手を潰した男も。
名前を呼ばれないまま作業を続ける誰かも。
同じ紙に並べられ、同じように終わる。
だから苦しくないということにはならなかった。
先生の住む建物の前まで来ると、入口の庇の下に少女がいた。
コンビニでパンをくれた少女だった。
膝の上にビニール袋を載せ、壁にもたれて座っている。
袋の中には、潰れた菓子パンが二つ入っていた。
何してんの。
陽介が聞くと、少女は顔を上げる。
待ってる。
誰を。
上の人。
先生のことらしかった。
少女は袋の中を覗く。
今日、店のおじいちゃん来なかったから。
これ、余った。
昨日倒れた老人のことだと分かった。
来なかったって。
知らない。
店長は、休みだって言ってた。
少女はそれ以上気にしている様子を見せなかった。
気にしていないのではなく、確かめる方法がないのだろう。
陽介は階段を見上げる。
行くか。
少女はすぐ立ち上がった。
二人で湿った階段を上る。
少女の靴は底が剥がれかけていて、歩くたびに小さな音を立てた。
二階の奥。
先生の部屋の扉には、昨夜はなかった紙が挟まっていた。
白い封筒だった。
陽介は足を止める。
少女が封筒を見て言う。
これも赤い。
封筒の端に、赤い形がいくつか並んでいる。
陽介には読めない。
だが、赤いものが良い知らせではないことだけは、少しずつ分かり始めていた。
扉を叩く。
返事がない。
もう一度叩く。
しばらくして、内側で何かが倒れる音がした。
それから、遅れて足音が近づいてくる。
扉が少し開いた。
先生の顔は昨日より白かった。
二人を見て、目を細める。
今日は多いね。
少女が袋を差し出す。
パン。
先生は受け取らず、少女を見た。
君が食べなよ。
あるから。
少女は一つ取り出し、見せる。
二個ある。
先生は少し迷ってから、一つだけ受け取った。
ありがとう。
少女は満足したように頷き、陽介の横を抜けて部屋へ入る。
昨日と同じように、本と紙が積まれている。
少女は驚きもせず、机の横に座った。
前にも来たことがあるらしい。
陽介は扉に挟まっていた封筒を抜き取り、先生へ渡した。
これ、ありました。
先生は赤い文字を見た瞬間、息を吐いた。
開けないんですか。
陽介が聞く。
中身はだいたい分かるから。
でも。
先生は封筒を机の隅へ置いた。
分かるものを、わざわざ確かめたくない日もある。
その言い方が、陽介には少し分かった。
朝、掲示板を見る前までなら、仕事はまだ続いていた。
読めなければ、少なくとも今日の作業だけは昨日と同じだった。
陽介は内ポケットから紙切れを出した。
先生。
声が思ったより乾いていた。
先生は毛布を掛けたまま、陽介を見る。
掲示板、俺の名前でした。
そう。
先生は驚かなかった。
知ってたんですか。
昨日、君の話を聞いて、たぶんとは思った。
陽介は紙切れを机に置く。
これに、書いてほしいです。
何を。
終わりっていう字。
先生はしばらく陽介を見ていた。
少女が机の横から顔を上げる。
終わり。
陽介は頷く。
俺、今月で仕事終わるらしいんで。
少女は、菓子パンの袋を開ける手を止めた。
先生は何も言わず、短い鉛筆を取った。
陽介の名前の下に、ゆっくりと一文字を書く。
終。
昨日教わった海よりも、複雑な形だった。
細い線が寄り集まり、どこかへ結ばれている。
これが、終。
先生はその横へ、もう一文字書く。
了。
二つで、終わり。
陽介は紙を見つめる。
こんな形をしたものが、今日の朝から自分の名前の横にあったのだろうか。
掲示板の前で見た、読めない並びを思い出す。
自分の目は、そこに自分の名前しか見つけられなかった。
その横に、終わりがあった。
読めなかっただけで。
少女が、先生の手元を覗き込む。
これ、なくなるってこと。
先生は少し考えてから答える。
何かが済むってことでもある。
済む。
うん。
良いことにも使うし、悪いことにも使う。
陽介は言う。
俺のは、悪いやつです。
先生は否定しなかった。
部屋の外で風が鳴った。
窓枠が小さく震える。
少女は袋からパンを取り出し、半分に割ろうとした。
柔らかいはずのパンは冷えていて、中央が潰れただけでうまくちぎれない。
先生が言う。
仕事を失くすと、困る。
陽介は頷く。
けれど、続いていても困っていただろ。
陽介は顔を上げる。
先生は机の給与明細に触れる。
あの金で、足りてた。
陽介は答えられない。
足りるということが、どのくらいの暮らしを指すのか考えたことがなかった。
食べるものがなくても、次の日まで生きていれば足りている。
布団が湿っていても、凍えきらなければ足りている。
工場で倒れても、起き上がれれば足りている。
そう思うようにしていた。
でも、掲示板に名前を見つけてから、その考え方のどこかに穴が開いた。
足りていなかったから、ずっと腹が減っていたのではないか。
足りていなかったから、皆、倒れていたのではないか。
陽介は口を開く。
俺ら、何でこんなに金ないんですか。
先生の手が止まった。
少女がパンを持ったまま、二人を見ている。
先生はすぐには答えなかった。
外で、遠くを走る車の音がした。
水溜まりを踏む音が、ひどく大きく聞こえる。
やっと先生が言う。
取られてるからだよ。
誰に。
先生は笑わなかった。
いろんな人に。
陽介はその言葉を待った。
けれど、続きはなかった。
いろんな人。
それだけでは何も分からない。
班長なのか。
店長なのか。
掲示板の紙を貼った誰かなのか。
赤い文字を書いた誰かなのか。
分からないまま、腹だけが減っていく。
少女が小さな声で言う。
取るの、悪い人。
陽介は少女を見る。
先生は、少しだけ目を伏せた。
この街では、そう言うと悪いのは取られた方になる。
少女は分からない顔をした。
陽介にも、分からない。
けれど、工場で先生が笑われていたことを思い出した。
怪我をした男が病院へ行けなかったことを思い出した。
倒れた老人を、店長が邪魔そうに見ていたことを思い出した。
分からないことの形だけが、少しずつ繋がっていく。
先生は、新しい紙へ文字を書いた。
仕。
事。
これで、仕事。
陽介はその二つを目で追う。
次に先生は、別の文字を書く。
金。
これは、昨日少し見た字だった。
紙の上に並ぶ三つの言葉。
仕事。
金。
終わり。
どれも、自分の暮らしにあったものだった。
なのに今日まで、形を知らなかった。
先生が鉛筆を陽介へ差し出す。
書く。
陽介は受け取った。
まず、自分の名前を書こうとした。
陽の一画目が曲がる。
介は途中で線が重なった。
それでも、昨日よりは文字らしく見えた。
その下に、先生の字を真似て、終を書こうとする。
難しかった。
何度も紙を見て、線を置く。
少女が隣から覗き込む。
それ、終わり。
陽介は手を止めた。
読めるのか。
今、覚えた。
少女は何でもないことのように言った。
陽介は、自分が書いた歪な字を見る。
初めて、自分の書いたものを誰かが読んだ。
そのことが嬉しいのか、怖いのか、分からなかった。
先生が咳き込む。
今までより深い咳だった。
口元を押さえた手の隙間に、赤いものが見えた気がした。
陽介が立ち上がる。
先生。
大丈夫。
先生はすぐに手を毛布の中へ隠した。
少女は気づいていない。
パンを小さくちぎり、机の上に三つ並べている。
一つを先生へ。
一つを陽介へ。
一つを自分へ。
食べよ。
先生はしばらく動かなかったが、やがて一番小さい欠片を取った。
三人は、冷えたパンを黙って食べた。
窓の外では、どこかの看板が赤く光っている。
先生なら読めるのだろう。
少女も、いつか読めるようになるのだろう。
陽介は、机の上の紙を折った。
自分の名前。
仕事。
金。
終わり。
文字を覚えたところで、明日の飯が増えるわけではない。
掲示板から名前が消えるわけでもない。
それでも、その紙を置いて帰ることはできなかった。
部屋を出る前、先生が言った。
陽介。
呼ばれて振り返る。
掲示板に、名前が消された跡があったら、教えて。
消された跡。
先生は頷く。
そこに、前にいた人がいるから。
陽介は返事をしなかった。
湿った階段を下りる。
少女も後ろからついてくる。
外へ出ると、風が冷たかった。
建物の前の水溜まりに、赤い看板の光が映っている。
文字は波打ち、読めない形へ戻っていた。
少女が陽介の横で言う。
終わり、覚えた。
陽介は紙の入ったポケットを押さえる。
俺も。
二人はしばらく同じ道を歩いた。
遠くで、工場の夜間作業の音が鳴っている。
もう終わると紙に書かれた人間たちが、今もそこで働いている。
陽介は初めて、その音を聞かないふりができなかった。




