第七話 雨上がりの紙に消される名前
雨は朝までに止んでいた。
空はまだ濡れたままだった。
雲が低く垂れ、工場の煙突の先を隠している。
陽介は、いつもより早く目を覚ました。
港の方から鉄の音が聞こえる前だった。
暗い天井を見たまま、胸の内ポケットに入れた紙のことを思う。
昨夜、先生の部屋で書いた自分の名前。
給与の紙。
本の中で見た、海という字。
眠っている間に消えてしまう気がして、陽介は布団の中から作業着へ手を伸ばした。
紙はまだあった。
二つに折った紙切れを開く。
先生が書いた文字は、暗い部屋の中でも輪郭が分かった。
陽。
介。
その下に、自分で書いた歪んだ線がある。
一文字目の途中で破れた紙。
二文字目になれなかった黒い傷。
陽介は指先で、その傷をなぞった。
形はまだ覚えている。
窓みたいな一文字目。
何かを分けるような二文字目。
自分の名前なのに、覚えていないと失くしてしまうものに思えた。
台所へ行く。
水を一杯飲む。
腹の中に冷たさだけが落ちていく。
食べるものはなかった。
外へ出ると、共同廊下の壁に水滴が浮いていた。
階段の踊り場には、昨日まで置かれていた濡れた布団がなくなっている。
捨てられたのか。
誰かが持っていったのか。
陽介は少しだけ立ち止まった。
以前なら、気にも留めなかったことだった。
道路は雨で黒く光っている。
除雪で寄せられた雪の塊は、泥と煙草の吸い殻を抱えたまま縮んでいた。
その脇を、作業着の男たちが無言で歩いていく。
皆、同じ方向へ向かう。
陽介もその流れの中へ入る。
コンビニの前を通った。
入口の横に、昨夜の少女はいなかった。
ガラスの向こうでは、年老いた店員ではなく、店長がレジに立っている。
老人の姿は見えなかった。
バックヤードで眠っているのか。
今日も働くのか。
もう来ないのか。
陽介は歩調を緩めたが、店へ入ることはできなかった。
工場の門が見える。
掲示板の前には、誰もいない。
昨日の白い紙は、同じ場所に貼られていた。
透明なカバーの中で、雨に濡れることなく、きれいなままだった。
陽介は門をくぐる前に、その前へ立った。
作業着の内ポケットから、先生が名前を書いた紙を取り出す。
一文字ずつ、見比べる。
掲示板には、縦にいくつも形が並んでいる。
その中の一つ。
最初の形が同じだった。
陽。
次の形も、先生の紙にあるものと似ている。
介。
胸の奥が、音もなく縮んだ。
昨日感じたことは間違いではなかった。
ここに、自分の名前がある。
文字は読めない。
けれど、自分だけは見つけられた。
見つけてしまった。
背後で足音が止まる。
何してんだ。
班長の声だった。
陽介は紙から目を離せないまま聞く。
ここに、俺の名前ありますよね。
班長は答えなかった。
煙草を咥える音がする。
ライターが一度鳴り、風に消され、二度目で火がついた。
だから何だ。
何の紙ですか。
陽介の声は、自分が思っていたより小さかった。
班長は煙を吐く。
読めねぇのに、気にすんな。
先生が見れば分かります。
口にしたあと、周りの空気が少し変わった気がした。
班長はゆっくり陽介の横へ立つ。
先生。
その呼び方には、昨日までの笑いがなかった。
あいつに余計なこと吹き込まれたのか。
陽介は首を振ろうとした。
けれど、何も吹き込まれていないとも言えなかった。
名前を教えてもらった。
海を教えてもらった。
紙には意味があると知った。
それだけで、もう昨日と同じようには立っていられない。
班長は掲示板の紙を指で叩く。
今月で終わりのやつらだよ。
陽介は班長を見る。
終わり。
契約終わり。
人減らすんだと。
言葉は分かる。
けれど、自分の中にうまく入ってこなかった。
陽介はもう一度、紙を見る。
自分の名前がある。
俺も。
班長は吸いかけの煙草を地面へ落とし、濡れた靴底で踏んだ。
そう書いてあんべ。
陽介は何も言えなかった。
書いてある。
それは、誰かに告げられるより冷たいことだった。
昨日から、ここに貼られていた。
皆の目の前にあった。
誰も読まず、誰も説明せず、自分はいつも通り荷物を運んでいた。
今日もそのつもりで来た。
班長が言う。
別に、お前だけじゃねぇから。
みんな同じだ。
働けるうち働いて、切られたら別んとこ行くだけだべ。
陽介は掲示板の名前を数える。
数えることはできる。
一つ。
二つ。
三つ。
途中で分からなくなるほど、多くはない。
それなのに、その中の誰が今日も工場へ入っていったのかは分からなかった。
すでに作業場から機械の音が聞こえている。
あの音の中で、自分と同じように名前を貼られた人間が働いている。
知らずにいるのか。
知っていて黙っているのか。
それとも、知ることに意味がないと思っているのか。
班長が顎をしゃくる。
始まるぞ。
陽介は紙を畳み、内ポケットへ入れた。
工場の中へ入る。
いつもと同じ臭いだった。
油。
鉄。
濡れた靴。
昨日の血を拭いた布の生臭さ。
片手を怪我した若い男が、すでに台車を押していた。
手には新しい布が巻かれている。
昨日より厚く膨らみ、指先は見えなかった。
陽介はその横を通り過ぎる。
声を掛けようとして、止めた。
あの男の名前も、掲示板にあったのかもしれない。
けれど、確かめる方法がない。
午前中の作業は、廃材の積み替えだった。
濡れた木材を運び、鉄枠の中へ詰めていく。
木は水を吸って重い。
持ち上げるたび、腕の筋が震えた。
いつもなら、疲れだけで頭が空になる時間だった。
今日は違った。
廃材を持つ。
歩く。
下ろす。
そのたび、門の横にある紙が頭へ浮かぶ。
自分の名前。
今月で終わり。
月が終われば、自分はここへ来なくなる。
来なくなったら、封筒ももらえない。
封筒がなければ、食べ物も買えない。
家賃というものも、おそらく払えない。
そこまで考えて、陽介は足を止めた。
抱えていた木材の端が床へ落ちる。
班長の怒鳴り声が飛んだ。
何ぼさっとしてんだ。
すみません。
陽介は木材を拾う。
近くで作業していた中年の男が、低い声で言った。
気にすんな。
陽介は男を見る。
男は手を動かしたまま続ける。
貼られたんだべ。
お前も。
知ってたんですか。
知ってるよ。
男は笑わなかった。
俺もあるからな。
それでも、働くんですか。
今やめたら、今日の分も出ねぇべ。
陽介は、返す言葉を失った。
男の声には怒りがなかった。
諦めさえ薄かった。
雨が降れば傘を差すみたいに、名前を貼られたら最後の日まで働く。
その先は、その時になってから考える。
それが、この街の暮らしなのだろうか。
昼休み。
陽介は飯を持っていなかった。
壁際に座り、空の手を膝に置く。
誰かが啜る麺の匂いがする。
湯気はすぐに工場の冷気へ溶けた。
片手を怪我した男が、隣に腰を下ろす。
今日は食わねぇの。
ないんで。
男は少し黙り、自分のカップ麺を傾けた。
底に残った汁が見える。
飲む。
陽介は首を振った。
男はそれ以上勧めなかった。
残った汁を一口で飲み干し、空の容器を潰す。
陽介は聞いた。
掲示板、見ましたか。
男は潰した容器を足元に置く。
見たよ。
読めるんですか。
俺の兄貴が読める。
昨日、見て言った。
男は怪我をした手を見下ろす。
ここで手ぇ潰して、来月から来なくていいってさ。
笑えるべ。
陽介は笑えなかった。
男も笑っていなかった。
休憩の終わりを知らせるベルが鳴る。
人々は立ち上がる。
腹を満たした者も、満たせなかった者も。
名前を貼られた者も、まだ貼られていない者も。
同じ音に動かされ、同じ作業場へ戻っていく。
夕方、陽介は工場を出ると、掲示板の前に立った。
朝より、文字の形がはっきり見える気がした。
読めるわけではない。
ただ、自分の名前の横に並ぶ形が、もう他人事には見えなかった。
陽介は内ポケットから紙切れを出す。
先生が書いた自分の名前の下に、空いた場所がある。
短い鉛筆は持っていない。
陽介は濡れた指で、そこをなぞるだけにした。
先生に聞かなければならない。
終わりという字を。
仕事という字を。
金という字を。
自分の暮らしを壊すものが、どんな形で紙に載っているのかを。
工場の向こうで、空が少しだけ明るくなっていた。
雨雲の切れ間ではなかった。
遠くの施設の照明が、低い雲に反射しているだけだった。
陽介はそれを朝焼けのように見上げてから、先生の部屋へ向かって歩き出した。




