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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第六話 雨の夜、本の積もる部屋で

扉を開けた瞬間、陽介は足を止めた。


部屋の中は、紙で埋まっていた。


壁際に積まれた本。

床に重ねられた新聞。

紐で縛られた紙束。

小さな机の上にも、開いたままの冊子が何冊も置かれている。


足を踏み入れる場所だけが、細い道のように残っていた。


紙の匂いがした。


湿った畳の臭いとも、油にまみれた工場の臭いとも違う。

古くて、乾いていて、それでもどこか水を含んだような匂いだった。


陽介は、こんなにたくさんの文字を一度に見たことがなかった。


黒い形が、部屋中に詰まっている。


見ていると、自分だけが知らない場所へ迷い込んだような気がした。


そこ、閉めて。


奥から先生の声がする。


陽介は慌てて扉を閉めた。


風の音が少し遠くなる。

代わりに、天井のどこかから落ちる水滴の音が聞こえた。


先生は窓際の布団に座っていた。


工場で見るより、ずっと小さく見えた。


頬が痩せ、唇の色が薄い。

肩から古い毛布を掛けているが、部屋には暖房らしいものが見当たらなかった。


来るとは思わなかった。


先生は咳のあとに言った。


陽介は入口に立ったまま、手にしていた求人の紙を見せる。


下に落ちてたんで。


ああ。


先生は紙を見ると、少しだけ口元を緩めた。


持ってきてくれたんだ。


濡れると読めなくなるから。


その言い方が、陽介には不思議だった。


紙は、火にくべれば少し暖かくなる。

丸めれば、机の脚の高さも揃えられる。

荷物の下に敷けば、床の油も吸う。


けれど、先生は紙を紙のまま大事にしている。


陽介は、靴を脱ぐべきか迷った。


畳の上にも本が積まれ、足の置き場がない。


先生が顎で机の前を示す。


そこ、座れるよ。


座布団の代わりに、潰れた段ボールが置かれていた。

陽介は濡れた作業着のまま、そこへ腰を下ろした。


机の上に、湯気のない湯呑みが一つある。


先生はそれを手に取るが、飲まずに戻した。


仕事は。


先生が聞く。


いつも通りです。


いつも通りが一番よくないんだけどね。


陽介には意味が分からなかった。


いつも通りであることは、まだ悪いことではない気がしていた。

仕事へ行ける。

怒鳴られる。

腹が減る。

帰る場所がある。


それが続くなら、まだ下へは落ちていない。


そう思っていた。


陽介は内ポケットへ手を入れる。


給与の紙が指に触れる。


それから、掲示板のことを思い出した。


今日、工場に紙が貼られてました。


先生は顔を上げる。


どんな紙。


名前みたいなのが、いっぱい並んでて。


陽介は自分の紙を取り出した。


これの、俺の名前と同じのがあった気がして。


先生の目が、陽介の手の中の紙へ移る。


それ、見せて。


陽介は一瞬ためらった。


自分の名前があると聞いてから、その紙は急に身体の一部みたいになっていた。

渡してしまうと、何かまで持っていかれる気がした。


それでも、机の上へ置く。


先生は紙を両手で広げた。


折り目を丁寧に伸ばし、窓際の弱い明かりに寄せる。


部屋が静かになる。


外で雨が排水管を叩いている。

遠くで電車らしい音がした。

この街にも、どこかへ向かうものが走っているらしい。


先生は紙を読み終えると、黙ったまま机へ戻した。


何だったんですか。


陽介が聞く。


先生は答えず、咳をした。


咳は長く続いた。

毛布の下で背中が震える。


陽介は待った。


やがて先生は、窓の外を見たまま言う。


掲示板、明日もう一回見に行ける。


行けますけど。


覚えてる範囲でいい。

どんな並びだったか見たい。


何て書いてあるんですか。


陽介は重ねて聞いた。


先生は、今度は紙を指で押さえた。


ここが、君の名前。


昨日、橋の下で教えた場所だった。


陽介は目を凝らす。


けれど、先生の指が離れると、また他の形に紛れてしまいそうだった。


先生は机の脇を探り、短くなった鉛筆を取り出した。


紙の余白に、ゆっくり文字を書く。


一文字ずつ。

大きく。

陽介でも形を追えるくらいに。


陽。


その下に、少し間を空けて、


介。


これが、君の名前。


陽介はその二つを見つめた。


最初の形は、窓のようにも見えた。

真ん中に細い線がある。


次の形は、何かを二つに割るような形をしていた。


自分の名前なのに、初めて見るものだった。


俺、こうなんですか。


そう。


先生は少し笑った。


誰かに付けてもらった名前だろ。


陽介は答えられなかった。


母親の顔は、もう輪郭しか思い出せない。

名前を呼ばれた声も、どこか遠くに沈んでいる。


先生は鉛筆を差し出した。


書いてみる。


陽介は手を引っ込めた。


無理です。


最初は誰でも無理だよ。


先生の声は弱かったが、工場で聞く時より穏やかだった。


陽介は鉛筆を受け取る。


指先に馴染まない。

軍手越しに箱を持つことには慣れている。

台車を押すことにも、濡れた段ボールを運ぶことにも。


けれど、細い木の棒を持つだけで、手が硬くなった。


先生が新聞の端を裏返し、白い場所を作る。


まず、これ。


陽介は、見よう見まねで線を引いた。


曲がった。


途中で鉛筆の芯が引っかかり、紙が少し破れた。


違う形になった。


陽介はすぐ手を止める。


やっぱり無理だ。


先生は紙を見た。


最初から書けたら、みんな隠す必要ないよ。


隠す。


陽介が顔を上げる。


先生は、自分の言葉に気づいたように少し黙った。


この街じゃ、読めることは役に立たないから。


それだけ言った。


けれど陽介は、引っかかった。


役に立たないなら、先生はなぜ、こんなに紙を持っているのだろう。


なぜ、濡れた求人の紙一枚を惜しむのだろう。


机の脇に、一冊の薄い本が置かれていた。


表紙には、青い色で何かが描かれている。

波のようにも、山のようにも見えた。


陽介が目を向けると、先生は本を手に取った。


子どもが読むやつ。


先生はページを開く。


中には、大きな文字と、色の薄れた絵があった。


紙の上に、青い水が描かれている。


先生は一つの文字を指差す。


これは、海。


陽介は窓の方を見る。


建物の隙間の向こうに、海は見えなかった。

けれど風の臭いで、そこにあることは分かる。


先生がもう一度言う。


海。


陽介は、その音を小さく口の中で繰り返した。


うみ。


先生の指の下にある形と、窓の外にあるはずのものが、ゆっくり結びつく。


それは妙な感覚だった。


ずっと知っていたものに、初めて輪郭がついたようだった。


陽介は自分の名前が書かれた紙を見る。


それから、本の中の海を見る。


掲示板の紙、見たいです。


先生は黙って陽介を見た。


何が書いてあるか、知りたい。


雨の音が、少し強くなった。


先生は笑わなかった。


ただ、机の上に置かれた給与の紙を、静かに折り直した。


帰る頃には、雨は細くなっていた。


陽介は自分の名前を書いた紙切れを、給与明細と一緒に内ポケットへ入れた。


扉を閉め、湿った階段を下りる。


街の明かりが、雨の中で滲んでいる。


看板。

貼り紙。

濡れた封筒。

店の入口の赤い文字。


どれも昨日までと同じ場所にあった。


けれど、もうただの模様には見えなかった。

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