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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第五話 雪解けの掲示板に名前が並ぶ

## 第五話 雪解けの掲示板に名前が並ぶ


次の朝、雪はほとんど残っていなかった。


夜のうちに雨へ変わったのだろう。

道路の端には、黒く汚れた雪の塊が寄せられている。

その隙間を、薄い水が流れていた。


陽介は部屋を出る前に、作業着の内ポケットへ手を入れた。


昨日、橋の下で折った紙がある。


指先に触れると、少し安心した。


何に安心しているのかは分からない。

紙があっても腹は膨れない。

雨を防げるわけでもない。


それでも、捨てる気にはなれなかった。


自分の名前がある紙だった。


共同廊下を歩く。

隣の部屋は、今日も静かだった。


少し前まで、夜になると咳が聞こえていた。

眠れないほど煩いと思った日もある。


けれど聞こえなくなると、それはそれで落ち着かなかった。


一階へ降りると、入口の脇に濡れた布団が置かれていた。

誰かが捨てたのか、干しているのか分からない。

雨水を吸った布団は、人が横たわっているみたいに重たく沈んでいた。


工場へ向かう途中、陽介は看板を見るようになった。


昨日までは、ただ色のついた板だった。


赤いもの。

青いもの。

大きいもの。


今日は、その中に形が並んでいるのが気になった。


コンビニの入口。

閉まった薬局のシャッター。

駅前の明るい看板。


どれにも黒い形がある。


全部、誰かが読めるものなのだろうか。


先生なら、何と書いてあるか分かるのだろうか。


工場の門をくぐると、班長が入口で煙草を吸っていた。


遅ぇぞ。


陽介は足を止める。


まだ音、鳴ってないです。


工場では、始業の合図に古いベルが鳴る。

陽介は、その音に合わせて来たつもりだった。


班長は眉を寄せる。


口答えすんな。

先に来て動くのが普通だべ。


陽介は黙って頭を下げた。


昨日までなら、何も考えずにそうしていた。


けれど今は、昨日先生が指差した文字を思い出す。


時間。


働いた身体の長さが、紙に載るもの。


早く来て動いた分は、どこに載るのだろう。


陽介は、そう考えた自分に少し驚いた。


作業場に入ると、床はいつも以上に濡れていた。

外から持ち込まれた雪解け水と油が混ざり、靴を滑らせる。


午前中の作業は、金属の箱を運ぶことだった。


中身は知らない。

聞いたこともない。


腰の高さまである箱を、二人で台車へ乗せる。

押す。

下ろす。

また戻る。


何度目かの往復で、向かい側にいた若い男が足を滑らせた。


箱の角が、男の手の甲へ落ちる。


鈍い音がした。


男は声を出さなかった。

しゃがみ込み、潰れた手をもう片方の手で押さえている。


指の間から血が落ちる。


陽介は台車を止めた。


大丈夫ですか。


男は頷こうとしたが、顔が歪んだ。


その時、班長が奥から歩いてきた。


止めんな。

遅れるべ。


でも、手が。


手ぇあるだろ。

片方で運べ。


男は下を向いたまま立ち上がった。


誰も笑わなかった。

誰も怒らなかった。


ただ作業が再開された。


陽介も台車を押した。


それが一番嫌だった。


昼休みになると、男の手には汚れた布が巻かれていた。

赤い染みが、少しずつ広がっている。


病院、行かないんすか。


陽介が聞く。


男は、うまく開かない指でカップ麺の蓋を押さえながら言った。


金取られるべ。


会社で何とかならないんすか。


男は陽介を見る。


不思議なことを言う人間を見る目だった。


会社が何とかしてくれるわけねぇべ。


それから、麺をすすった。


右手が使えないせいで、何度も汁をこぼしていた。


陽介は、自分の弁当を開く。


冷えた白飯だけが詰まっている。

昨日も同じだった。


食べながら、内ポケットの紙を取り出した。


湿った折り目が、うまく伸びない。


昨夜、先生が指差した場所を探す。


自分の名前。


どれだったか、もう曖昧になっている。


この辺だった気がする。

黒い形が四つ並んでいた気がする。


陽介は床の埃へ指を伸ばした。


紙にある形を真似て、油混じりの灰色の床へ線を引く。


一つ目は、角が多い。

二つ目は、細い線が重なっている。

三つ目と四つ目は、どこまでが一つなのか分からない。


うまく書けない。


指でなぞるたび、文字らしきものは潰れて汚れになる。


何してんの。


声を掛けられ、陽介は手を止めた。


昨日、先生を笑っていた若い作業員だった。


陽介は床の線を靴で消す。


別に。


若い作業員は、陽介の手元の紙を見る。


金、増えんの。


え。


そんな見ても、増えねぇべ。


男は冗談みたいに笑った。

けれど、声には疲れしかなかった。


陽介は紙を折り直す。


増えるとは思っていない。


ただ、自分の名前がどれなのか、もう一度知りたかった。


休憩が終わり、外へ出た時だった。


門の横の掲示板に、新しい紙が貼られていることに気づいた。


昨日まではなかった紙だった。


白い紙に、黒い文字が何行も並んでいる。


人が通るたび、濡れた風で端がめくれる。


誰も立ち止まらない。


陽介は近づいた。


数字はない。

赤い文字もない。


ただ、短い形の集まりが、縦にいくつも並んでいる。


その中に、どこかで見た形があった。


内ポケットから紙を出す。


掲示板の文字と、手元の紙を交互に見る。


似ている。


最初の形が同じように見える。

次の形も、たぶん。


胸のあたりが冷たくなる。


それが本当に自分の名前なのか、陽介には確かめられない。


けれど、ただの模様ではない気がした。


背後から班長の声が飛ぶ。


休憩終わってんぞ。


陽介は振り返らないまま聞いた。


これ、何ですか。


班長は煙草の煙を吐いた。


見て分かんねぇなら、お前には関係ねぇよ。


そう言って、工場の中へ戻っていく。


陽介は紙の前に残った。


雨が強くなっていた。

掲示板の透明なカバーに細かな水滴がつき、並んだ文字を歪ませる。


自分の名前かもしれないものが、水の向こうで揺れている。


読みたい。


初めて、はっきりそう思った。


仕事が終わった頃には、空がすっかり暗くなっていた。


陽介は工場を出ると、橋の方へは向かわず、駅裏の古い建物を目指した。


先生がどこに住んでいるのか、正確には知らない。


それでも、橋の下で老人が話していたことがある。


先生は、雨の日だけは部屋へ戻る。

本が濡れるのを嫌うから。


駅裏には、古い集合住宅がいくつも並んでいた。

どれも壁が黒ずみ、同じような窓をしている。


陽介は一棟ずつ見上げた。


どこかの部屋に灯りがついている。

どこかの部屋から咳が聞こえる。

どこかの廊下で、子どもが泣いている。


三棟目の階段の下に、見覚えのある紙が落ちていた。


求人の紙だった。

端が丁寧に折られている。


陽介はそれを拾い、階段を上がった。


二階の奥。

扉の隙間から、細い灯りが漏れている。


陽介は戸の前に立つ。


胸の内ポケットには、名前の載った紙。

頭の中には、掲示板に並んでいた形。


手を上げ、扉を叩く。


少しして、中から咳が聞こえた。


それから、先生の声がした。


開いてるよ。


陽介は濡れた手で、ゆっくり扉を開けた。

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