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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第四話 橋の下で燃える紙

少女と別れたあと、ヨウスケはすぐには帰らなかった。


手の中には、半分だけ食べたパンが残っている。

口の中に残った甘さが、なかなか消えなかった。


甘いものを食べたのは、いつ以来だっただろう。


考えてみたが、思い出せなかった。


雪はまだ降っている。


細く、絶え間なく、街の汚れを隠すみたいに降っていた。

けれど道路に落ちれば、車のタイヤに踏まれて、すぐに黒い水へ変わる。


ヨウスケは橋の方へ歩いた。


コンビニの白い明かりが背中から遠ざかる。

代わりに、川の匂いと、燃えかけた紙の臭いが近づいてきた。


橋の下には、いくつかの青いシートが並んでいた。


初めて見る場所ではない。


工場の帰り道、何度も上から見ていた。

動かない影がある場所。

雨や雪の日になると、少しだけ人が増える場所。


けれど、下へ降りたことはなかった。


階段には雪が積もっていた。

靴底が滑る。

手すりに触れると、指が貼りつきそうなほど冷たかった。


川沿いまで降りると、風の音が変わった。


橋の上では高く鳴っていた風が、下では低くこもって聞こえる。

車が通るたび、頭上で地面そのものが震えた。


青いシートの間に、小さな火があった。


缶の中で、段ボールや紙が燃えている。


その周りに三人が座っていた。


歯の少ない老人。

細い身体に何枚も服を重ねた女。

そして、工場で先生と呼ばれていた男。


ヨウスケは足を止めた。


先生は紙束を膝に置き、火に手をかざしていた。

昼間の作業着のままだった。

肩に雪が少し積もっている。


老人が先にヨウスケへ気づいた。


あれ、工場の若いのだべ。


ヨウスケは曖昧に頭を下げる。


先生も顔を上げた。


来ると思わなかった。


ヨウスケは何と答えていいか分からず、手の中のパンを見る。


家、寒いんで。


自分でも変な理由だと思った。

ここが暖かいわけではない。


老人は気にせず、火の近くに置かれた箱を叩いた。


座れ。


ヨウスケは箱に腰を下ろした。


湿っていた。

作業着の尻に冷たさが染み込んでくる。


それでも、火があるだけで少し違った。


中年の女が、小さな缶を火の端へ置いている。

中では透明に近い汁が揺れていた。


食う。


女が聞く。


ヨウスケは首を振る。


パン、食ったんで。


女はヨウスケの手に残っている欠片を見て、何も言わなかった。


老人が笑う。


今日はご馳走だな。


誰に向けた言葉なのかは分からなかった。


橋の上を大型車が通り過ぎる。

振動で、缶の火が少し揺れた。


先生は膝の紙束を一枚ずつめくっている。


ヨウスケは、その指先を見ていた。


昼間もそうだった。

先生だけは、封筒の中身を見ていた。


何見てるんですか。


ヨウスケが聞く。


先生は紙から目を離さずに答える。


求人。


仕事、探してるんすか。


探してるっていうより、見てるだけ。


何を。


同じだなって。


ヨウスケには意味が分からなかった。


先生は一枚の紙を火の明かりに寄せる。


赤い文字。

黒い文字。

数字。


コンビニの壁に貼られていた紙と似ている。


ヨウスケは身体を少し前へ傾けた。


そこにも、赤いのありますね。


先生が顔を上げる。


赤いの。


コンビニにも貼ってありました。

工場にも。

街の看板にも。


先生は一瞬だけ黙った。


女が缶を木の棒で混ぜながら言う。


赤いのは目立つからなぁ。


老人が頷く。


大事なやつは赤いんだべ。


先生は小さく笑った。


そう思うよね。


ヨウスケは紙を見た。


先生なら読める。


そう思った途端、聞いてみたい気持ちが湧いた。

けれど、口に出すのは少し怖かった。


読めないことを知られるのが嫌だったわけではない。

この街では、それは恥ずかしいことではなかった。


むしろ、読もうとする方が変なのだ。


それでもヨウスケは聞いた。


これ、何て書いてあるんですか。


先生は、手元の紙を見下ろした。


すぐには答えなかった。


火の中で段ボールが崩れ、赤い粉が舞った。


募集してるって書いてある。


何を。


人。


ヨウスケは紙を見る。


こんなにいっぱい書かないと、人って集められないんすか。


先生は、今度こそ少し笑った。


集めるためじゃないよ。


じゃあ。


集まった人に、後から何か言われないため。


その言葉は、ヨウスケの頭の中で形にならなかった。


何か言う。


働く人間が、働かせる人間へ。


そんな場面を見たことがない。


先生は紙を折り畳む。


角を合わせて、爪で折り目をつける。

几帳面な手つきだった。


老人が缶の汁を啜る。


読めるやつは面倒なこと考えるなぁ。


声には笑いが混じっていた。

責めているわけではなさそうだった。


先生も気を悪くした様子はない。


読めない方が、腹は減っても眠れますよ。


女がぼそりと言う。


読めたって腹は膨れねぇしな。


皆が少しだけ笑った。


ヨウスケは笑えなかった。


手に持っていたパンを口へ入れる。

固くなった生地が、歯に張りついた。


その時、橋の上から何かが落ちてきた。


風に煽られ、白い紙が一枚、火の近くへ降りる。


女が拾おうとしたが、先生の方が早かった。


先生は紙を取り上げ、火に近づける。


湿った紙だった。

端が破れている。


ヨウスケにも見覚えがあった。


昨日、工場でもらったものと同じ形。

薄い紙。

数字が並んだ紙。


先生の表情が変わる。


どうしたんですか。


ヨウスケが聞く。


先生は答えず、紙の上を目で追った。


老人が火へ手を伸ばしながら言う。


金の紙か。


先生は頷いた。


たぶん、上で誰かが捨てた。


ヨウスケは橋を見上げる。


車の底が、時々雪の向こうを通り過ぎる。

誰が捨てたのかは見えない。


先生は紙をヨウスケへ向けた。


これ、君のと似てるでしょ。


ヨウスケは内ポケットへ手を当てる。


湿った封筒の感触があった。


似てます。


先生は紙の一箇所を指で押さえた。


ここ。


ヨウスケは目を細める。


数字の並びの横に、黒い形がある。


分かる。


ヨウスケは首を振った。


先生は指をずらさずに言う。


給料。


きゅうりょう。


働いた分の金。


ヨウスケは、その形を見つめた。


給料。


今まで何度も耳にしたことはあった。

けれど、それが紙の上に姿を持っていることを知らなかった。


先生が続ける。


こっちは、時間。


ヨウスケはもう一つの形を見る。


時間。


工場で使った身体の長さ。

朝から夜までの重さ。

軍手の中で切れた指。

空になった腹。


それが、この紙に載っているらしい。


ヨウスケは、自分の内ポケットから封筒を出した。


紙は湿気で少し柔らかくなっていた。


昨日、川へ落ちたと思っていた紙のほかに、もう一枚残っている。

ヨウスケはそれを初めて、捨てるものではなく見るものとして広げた。


先生は受け取らない。


ヨウスケの手の上で、紙を見る。


ここに名前がある。


先生が言う。


ヨウスケは指差された場所を見る。


いくつかの黒い形が並んでいる。


これが。


君の名前。


陽介(ヨウスケ)は黙った。


自分の名前は、呼ばれる音だと思っていた。


班長が怒鳴る時。

昔、母親が呼んだ時。

病院かどこかで聞かれた時。


それが、こんな小さな黒い形になって、紙の上に置かれていた。


先生は別の箇所へ指を移す。


それで、こっちが金額。


陽介は数字だけは少し分かった。

買い物をする時に見るからだ。


けれど、並んだ数字が何を意味するのか、すぐには掴めなかった。


先生の声が低くなる。


少ないね。


陽介は、昨日から胸の内にあったものが、急に形を持つのを感じた。


やっぱり、少ないんですか。


先生は返事をしなかった。


代わりに、老人が笑った。


働けるだけいいべ。

寝る場所もあるんだろ。


女も汁の缶を持ったまま、俯いている。


その言葉は、工場の班長と同じだった。


けれど老人の声には、誰かを従わせる強さはなかった。

自分自身に言い聞かせているように聞こえた。


先生は、拾った給与明細を火へ入れた。


紙の端に火が移る。


黒い文字が、赤く縁取られながら縮んでいく。


陽介は思わず言った。


燃やすんですか。


先生は火を見たまま答える。


持ってても、寒いからね。


紙はあっという間に灰になった。


陽介は、自分の紙を握ったまま動けなかった。


燃やせば、少しは暖かくなる。


けれど、火へ入れる気にはなれなかった。


今日初めて、自分の名前が書かれていると知った紙だった。


橋の向こうで、街の明かりがぼやけていた。


白い雪。

黒い川。

小さな火。


先生が陽介の手元を見る。


取っておくの。


陽介は少し考えた。


分かんないです。


それでも、紙を折った。


先生が折っていたのを真似るように、端と端を合わせる。

うまく揃わない。

折り目も曲がった。


陽介はその紙を、内ポケットへ戻した。


帰る頃には、雪が雨に変わりかけていた。


橋の階段を上がる途中、陽介は一度だけ振り返る。


火の周りにいる人間たちは、暗がりの中で小さく見えた。

燃やす紙がなくなれば、また寒さに戻るのだろう。


胸の内ポケットに、折った紙の角が当たっていた。


痛いほどではない。


けれど、歩くたびにそこにあることが分かった。

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