第三話 夜のコンビニと白い息
その夜、ヨウスケは工場からまっすぐ帰らなかった。
雪は夕方よりも細かくなっていた。
風に流され、顔に当たるとすぐ水になった。
作業着の袖は油と雪で重くなっている。
軍手を外した手には、鉄の臭いが残っていた。
何度擦っても取れない臭いだった。
橋の手前にあるコンビニの灯りが見えた。
暗い道路の中で、そこだけ白く浮いている。
暖かそうに見えるのに、入口のガラスには曇りひとつなかった。
ヨウスケは中へ入る。
自動ドアが開いた瞬間、暖房の乾いた空気と、揚げ物の古い油の臭いが身体にまとわりついた。
弁当の棚はほとんど空だった。
残っているのは、端が固くなったおにぎりと、半額のシールが貼られた菓子パンだけだった。
ヨウスケは財布を出す。
小銭が数枚。
今日受け取った封筒は、作業着の内ポケットに入っている。
橋の上で開けたあと、そのままだった。
いくら入っていたのか。
いくら残るのか。
計算する方法を、ヨウスケは知らない。
棚の前に、少女が立っていた。
年は十二、三くらいだろうか。
大きすぎるジャンパーの袖から、赤くなった指だけが出ている。
少女はパンを一つ持っていた。
何度も裏返して、袋に貼られたシールを見ている。
読もうとしているようにも、模様を確かめているようにも見えた。
ヨウスケは、先ほど工場の掲示板を見ていた自分を思い出した。
見ているだけでは、何も分からない。
それなのに、目を離せない。
レジの奥には、年老いた店員が立っていた。
背中が曲がり、制服の肩が余っている。
名札には文字が並んでいたが、ヨウスケには読めなかった。
老人はレジ台に片手をつき、もう片方の手で商品を受け取っている。
客は少ない。
作業着姿の男が缶酎ハイを一本買い、外へ出ていく。
濡れた靴跡だけが床に残った。
少女はまだ棚の前にいる。
そこへ、バックヤードから店長が出てきた。
腹の出た男だった。
薄いシャツの胸元が汗で濡れている。
店長は少女を見るなり、面倒そうに眉を寄せた。
まだ決まらないの。
少女は答えない。
買うなら早くして。
買わないなら戻してくれる。
少女はパンを握ったまま、俯く。
店長は小さく鼻を鳴らした。
最近、多いんだよ。
暖房だけ当たりに来るの。
ヨウスケはおにぎりを手に取ったまま、棚の陰に立っていた。
少女の指は赤かった。
爪の周りが黒く汚れている。
しばらくして、少女はパンを元の棚へ戻した。
半額の赤いシールが、蛍光灯の下でやけに鮮やかだった。
その時だった。
レジの方で、鈍い音がした。
老人が崩れるように倒れていた。
身体が商品棚にぶつかり、積まれていたカップ麺がいくつも床へ転がる。
誰もすぐには動かなかった。
ヨウスケも、最初はただ見ていた。
倒れる人間を見ることに、驚く時間が少しずつ短くなっていた。
店長が舌打ちをする。
何やってんだよ、こんな時に。
老人は床に頬をつけたまま、動かない。
細い呼吸だけが、喉の奥で引っかかるように鳴っている。
ヨウスケはおにぎりを棚へ戻し、レジへ向かった。
肩を起こそうとすると、老人の身体は拍子抜けするほど軽かった。
服の中に、人間の形をした骨だけが入っているみたいだった。
救急車、呼ばなくていいんですか。
ヨウスケが聞く。
店長は床のカップ麺を拾いながら、こちらを見もしない。
大げさだべ。
休めば戻るから。
でも、息が。
働いてれば、これくらいあるよ。
店長は、凹んだカップ麺を棚の奥へ戻した。
少女が入口の近くで立ち尽くしている。
さっき戻したパンの棚ではなく、老人の顔を見ていた。
ヨウスケは老人の身体を抱える。
店長に言われるまま、バックヤードへ運んだ。
そこには段ボールと、空の油缶と、廃棄予定の商品が積まれていた。
暖房は届かない。
老人を寝かせる場所は、床しかなかった。
ヨウスケは潰れた段ボールを一枚敷いた。
老人の目が、わずかに開く。
すまねぇな。
声が擦れていた。
飯、食ってますか。
老人はしばらく考える顔をした。
昨日、食ったよ。
それから、小さく笑った。
昨日という言葉が、本当に前の日を指しているのか、ヨウスケには分からなかった。
壁には一枚の紙が貼られていた。
赤い文字が大きく並び、その下に黒い文字が続いている。
工場の掲示板に似ていた。
何の紙ですか。
ヨウスケが聞くと、老人は壁へ目を向ける。
募集のやつだ。
読めるんですか。
読めねぇよ。
老人は苦しそうに息を吸い、また笑った。
でも、赤いから、いいこと書いてあんだべ。
ヨウスケは紙を見つめた。
赤い文字。
工場の掲示板にもあった。
街の看板にもあった。
電気の封筒にもあった。
大きくて、目立っていて、意味だけが分からない。
胸の内ポケットで、今日の封筒が湿っていた。
数字も、紙も、あの男が言った時間というものも。
どれもヨウスケの周りにはある。
けれど、自分の暮らしとどう繋がっているのかが見えない。
店長がバックヤードの入口から顔を出した。
もういいべ。
レジ、代わって。
ヨウスケは振り向く。
俺、店員じゃないです。
店長は一瞬、不思議そうな顔をした。
働けるなら同じだべ。
その言い方が、班長に似ていた。
ヨウスケは返事をしなかった。
店を出ると、雪がさっきより強くなっていた。
入口の横に、少女がいた。
買えなかったパンを抱えている。
ヨウスケは足を止める。
それ、どうした。
少女はコンビニの明るい窓を見たまま答えた。
さっき倒れた人が、くれた。
いつ。
昼。
少女はパンの袋を握り直す。
夜まで食べないで持ってたら、なくならない気がした。
ヨウスケは何も言えなかった。
少女はパンを半分に割ろうとした。
冷えて固くなった生地が、鈍い音を立ててちぎれる。
片方をヨウスケへ差し出した。
いらない。
ヨウスケが言う。
少女は首を傾げる。
お腹、鳴ってるよ。
その時初めて、ヨウスケは自分の腹の音に気づいた。
雪の音に紛れるほど小さい音だった。
ヨウスケはパンを受け取る。
口に入れると、乾いていた。
甘みが舌に残り、その甘さがかえって苦しかった。
道路の向こうには橋が見える。
橋の下で、小さな火が揺れていた。
青いシートの影が、何人分か寄り集まっている。
コンビニの明るさは、そこまでは届かない。
少女が言う。
あの赤い紙、何て書いてあるんだろうね。
ヨウスケは答えられなかった。
けれど、分からないままでいいとは、なぜか思えなくなっていた。
背後で自動ドアが開く。
店長の声が聞こえる。
また老人を起こしているのだろう。
雪は音もなく降り続けていた。
白いはずのそれは、道路に落ちるとすぐ、黒い水に変わった。




