第二話 読める人間
工場の朝は暗い。
外はもう明るい時間のはずなのに、建物の中へ入ると急に夜みたいになる。
窓が少ないせいだった。
鉄骨。
油。
濡れた埃。
湿った臭いが喉に貼りつく。
ヨウスケは黙ったまま軍手をはめる。
指先の感覚は、冬の間ずっと鈍いままだった。
作業場の奥では、誰かが怒鳴られている。
何をミスしたのかは聞こえない。
聞こえても、たぶん誰も気にしない。
怒鳴り声は、この工場では機械音の一部みたいなものだった。
午前中、若い男がフォークリフトの陰で吐いていた。
黄色い胃液だけが床に広がっている。
班長は近づきもしない。
掃除しとけよ。
それだけだった。
男はふらつきながら雑巾を探しに行く。
昼休みになる頃には、何事もなかったみたいに荷物を運んでいた。
ヨウスケは壁際へ座る。
冷えたおにぎりを開く。
具は入っていない。
塩だけだった。
その時、少し離れた場所で紙をめくる音がした。
一人の男が、給与明細を開いていた。
細い指で紙を押さえ、目を細めて数字を見ている。
工場では珍しい光景だった。
大抵の人間は、封筒を開けない。
失くす。
捨てる。
濡れる。
その程度のものだった。
男は眉を寄せたまま、小さく呟く。
これ、おかしいな。
誰も反応しない。
時間、合ってない。
向かいにいた若い作業員が笑う。
また始まった。
男は紙を持ち上げる。
だって、これ――
班長が近づいてきた。
缶コーヒーを片手に持っている。
先生いたの。
周囲が少し笑う。
先生。
それが男のあだ名だった。
字を読むから。
それだけの理由だった。
男は引き下がらない。
残業入ってないですよ、これ。
班長はコーヒーを飲みながら言う。
細けぇなぁ。
低い声だった。
空気が静まる。
働けるだけマシだべ。
誰も何も言わない。
正しいかどうかより、空気を止めない方が大事だった。
先生はしばらく紙を見ていたが、やがて静かに折り畳んだ。
昼休みが終わる。
皆、無言で立ち上がる。
午後になると雪が降り始めた。
工場の薄い窓の向こうで、白い粒が斜めに流れている。
機械音は止まらない。
鉄を削る音。
コンベアの振動。
誰かの咳。
その全部が混ざり合って、頭の奥で鈍く響く。
ヨウスケは荷物を運びながら、さっきの男を見る。
先生は黙々と作業していた。
痩せた背中だった。
夕方。
仕事が終わる頃には、床が黒く濡れていた。
雪が靴底で溶けたせいだった。
ヨウスケは工場を出る。
外気が冷たい。
肺の奥が少し痛む。
門の横には掲示板があった。
紙が何枚も貼られている。
注意書き。
予定表。
何かの通知。
誰も見ない。
ヨウスケも今までは見なかった。
けれど、その日は少しだけ立ち止まる。
細かい文字が並んでいる。
意味は分からない。
ただ、見ていると妙に落ち着かない。
後ろから声が飛ぶ。
何見てんの。
振り向くと、先生が立っていた。
ヨウスケは少し戸惑う。
いや、別に。
先生は掲示板を見る。
読めないでしょ。
そうですね。
先生は少し笑う。
読めると、もっと嫌になるよ。
風が吹く。
掲示板の紙が揺れる。
端の方が破れ、白い繊維が剥き出しになっていた。
遠くでサイレンが鳴る。
工場の煙が、灰色の空へゆっくり伸びていく。
その下を、人々は俯いたまま歩いていた。




