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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第三十一話 集まった名前のあいだに明日の紙を

病院へ戻る頃には、空が暗くなり始めていた。


雨は止んでいる。

けれど、道路も、靴も、陽介の作業着の裾も、まだ水を含んでいた。


白い建物の入口に入ると、乾いた暖気が濡れた身体へ触れる。


その瞬間、小野寺が足を止めた。


手には、制服の入った透明な袋。

もう片方の手には、自分で書いた紙。


徳田勝美、発見。

搬送。

自分、宮下佳織へ相談。


陽介には、その全部を一人で読むことはできない。

けれど、小野寺が何を書いたのかは知っている。


宮下が受付へ向かう。


徳田さんが搬送されたことを伝え、処置の状況を確認している。

佐伯は千紘の濡れた髪をタオルで拭いていた。


陽介は、小野寺の隣に立つ。


入らないんですか。


小野寺は入口の内側にいる。

それでも、まだ外へ戻れる位置に立っていた。


俺、店に何も言ってないんで。


小野寺は透明な袋を見る。


このまま相談したら、逃げたみたいになる気がして。


陽介は、工場の門で班長に言われた言葉を思い出す。


お前が休んだから。

現場に迷惑をかけたから。

余計なことを話したから。


自分も、工場から見れば逃げた人間にされているのかもしれない。


けれど、先生を病院へ運んだことも。

相原の名前を知ったことも。

自分の紙を読んでもらおうとしたことも。


逃げたとは思えなかった。


分かりません。


陽介は言った。


俺も、工場にはそう思われてるかもしれないです。

でも、俺が何で行かなかったのかは、紙に残しました。


小野寺は、手にした紙を見る。


残したら、逃げたことにならないんですか。


それも分かりません。


陽介は首を振った。


でも、何も残さなかったら、向こうが言ったことだけになるって。

佐伯さんが言ってました。


小野寺は、長い時間動かなかった。


やがて、透明な袋を足元へ置き、ポケットから携帯を出した。

陽介のものより新しいが、画面の端には細かな傷がある。


店長に、送ります。


陽介は頷いた。


小野寺は画面を開く。


文字を打つ手は、店で宮下の名前を書いていた時よりも震えていた。


今日、出勤できず申し訳ありません。

昨夜、店舗裏での宿泊と勤務について話し合った後、体調と生活について相談が必要だと判断しました。

現在、病院の相談担当者に話を聞いてもらうため来ています。

今後の勤務については、改めて確認させてください。


打ち終えても、小野寺は送らない。


画面の文章を、何度も読み直している。


怖いですか。


陽介が聞く。


怖いです。


小野寺はすぐに答えた。


送った瞬間、もう戻れなくなる気がして。


陽介は、黒い線で消された自分の名前を思い出した。


戻れないものはある。


工場で、何も知らずに台車を押していた自分には、たぶんもう戻れない。

相原が倒れた床を見なかったことにもできない。


けれど、戻れなくなることが、全部悪いことなのかはまだ分からない。


先生、言ってました。


陽介は言った。


分からないことは、分からないって聞いていいって。

嫌なことは、嫌って言っていいって。


小野寺は画面を見たまま、少し笑った。


高瀬さん、先生なんですね。


はい。


文字だけじゃなくて。


陽介は、先生の病室のある方を見る。


たぶん。


小野寺は、深く息を吸った。


それから、指を動かした。


小さな音が鳴る。


送信しました。


小野寺は、携帯を握ったまま動かなかった。


何も起きない。


病院の入口では、人が出入りしている。

受付では名前が呼ばれ、白い廊下の奥から台車の音が聞こえる。


けれど、小野寺にとっては、今送った短い文章が、これまで立っていた床を一枚剥がしたのだろう。


千紘が近づいてくる。


送った。


小野寺は頷く。


送った。


千紘は、自分の紙袋を開けた。


水仙の絵の裏側に書いた文字を見せる。


とくさん いた


小野寺は、その文字を見て、初めて小さく息を吐いた。


いたんですよね。


いました。


陽介が答える。


名前も持って、病院に来ました。


小野寺は、制服の袋を持ち上げた。


俺も、まだいるって言っていいんですかね。


千紘が言う。


いる。


あまりにすぐ答えたので、小野寺は少し驚いた顔をした。


千紘は続ける。


今、ここにいる。


小野寺の目が赤くなる。


佐伯が、少し離れた場所から言った。


そういうことは、子どもの方がよく見えてるのかもね。


その時、宮下が戻ってきた。


徳田さんは、今処置を受けています。

身体がかなり冷えていて、肺の状態も確認が必要ですが、意識はあります。

名前の紙も一緒に預かってもらえました。


千紘が安心したように袋を抱える。


とくさん、名前ある。


あります。


宮下は頷いた。


ご本人も、徳田勝美さんであることを確認できました。


陽介は胸の中で、その名前を繰り返す。


徳田勝美。


とくさんではなくなったわけではない。

とくさんの中に、徳田勝美という文字が戻った。


小野寺が言う。


俺、相談したいです。


宮下は小野寺へ向き直る。


はい。


店に連絡しました。

今日行けないことと、ここで相談することを送りました。


宮下は急かさずに聞いた。


返事は来ていますか。


まだです。


では、まずお話を聞かせてください。

店から返事が来たら、それも一緒に確認しましょう。


小野寺は頷いた。


宮下は、待合の奥にある小さな部屋へ小野寺を案内しようとした。


小野寺は足を止める。


陽介さん。


陽介は顔を上げる。


紙、持っててもらえますか。


小野寺が差し出したのは、昨夜自分で書いた紙だった。


小野寺直人。

宮下佳織。

徳田。


陽介は受け取らずに聞く。


自分で持たなくていいんですか。


自分でも持ちます。


小野寺は携帯を握る。


でも、もう一枚、陽介さんのところにもあったら、消えにくい気がするから。


陽介は紙を受け取った。


分かりました。


小野寺は、宮下と一緒に廊下の奥へ歩いていく。


制服の袋を持ったまま。

けれど、店の裏へ戻るためではなく、自分の話をするために。


姿が見えなくなると、千紘が言った。


小野寺、消えない。


陽介は頷く。


消えないように、紙持つ。


佐伯が待合の椅子へ腰を下ろした。


あんたたち、紙を持つだけで全部抱えたつもりにならないこと。


陽介は佐伯を見る。


紙を持ったら、次は誰かに渡す。

読んでもらう。

話してもらう。

一人で胸ポケットに詰め込んで倒れたら、高瀬さんと同じになる。


陽介は、自分の胸ポケットへ手を置いた。


たしかに、紙は増え続けていた。


相原信一。

高瀬宗一。

岡崎陽介。

長谷川千紘。

小野寺直人。

佐伯澄江。

宮下佳織。

三浦正志。

妙子。

正吾。

徳田勝美。


胸ポケットだけに入れていたら、いつか破れる。


分けるんですか。


陽介が聞く。


分けて、繋げる。


佐伯は言った。


それを覚えな。


待合の向こうから、名前を呼ぶ声が聞こえた。


高瀬宗一さんのご面会の方。


陽介と千紘が同時に立ち上がる。


佐伯も後から続いた。


病室へ入ると、高瀬は窓際の椅子に座っていた。


白い布団の上ではなく、病衣の上に千紘が持ってきた毛布を掛けている。

腕にはまだ管が繋がっているが、昨日より顔に血の気があった。


千紘が駆け寄る。


先生、座ってる。


座れるくらいにはなったよ。


高瀬は笑った。


陽介は、ベッドの脇に置かれている青い本を見る。


先生の手が届く場所に置かれている。


高瀬が陽介の袋へ目を向けた。


何かあった顔だね。


陽介は、どこから話すべきか迷った。


多すぎる。


先生の部屋が今日すぐ片付けられないようになったこと。

自分の部屋から、昔の冊子が出てきたこと。

工場で自分の名前が消されていたこと。

三浦正志が封筒を見せてくれたこと。

小野寺が佐伯の家へ来たこと。

徳田勝美を見つけたこと。


高瀬が言う。


一つずつでいい。


その言葉に、陽介は息を吐いた。


先生。

徳田勝美さん、見つかりました。


高瀬の表情が変わる。


徳田さん。


コンビニにいたおじいさんです。

橋の下では、とくさんって呼ばれてました。

小野寺さんが、徳田って字を知ってて。

今日、倉庫の裏にいて、病院に来ました。


高瀬は、長く黙った。


生きていたんだね。


はい。


名前の紙、自分で持って運ばれました。


高瀬は窓の外を見る。


よかった。


千紘が言う。


徳田勝美さん。


高瀬は千紘を見る。


勝美まで分かったの。


本人が言った。


千紘は少し誇らしそうだった。


高瀬は、小さく頷く。


名前は、本人から聞けるのが一番いい。


陽介は、その言葉を聞いて、自分の紙を取り出した。


先生。

三浦正志さんも、名前を書きました。


三浦。


工場の人です。

相原さんの名前を最初に音で教えてくれた人。

俺が工場へ行った時、給与の封筒を読んでほしいって。


高瀬の目が少し鋭くなる。


工場へ行ったの。


はい。

俺の名前、黒く消されてました。


高瀬は、すぐには言葉を返さなかった。


陽介は続ける。


でも、千紘が紙を持ってて。

こっちにあるから消えてないって言いました。


千紘は自分の袋を開き、名前の並んだ紙を見せた。


高瀬はその紙を見て、少し目を伏せた。


強いね、千紘は。


千紘は首を振る。


紙が強い。


高瀬は、一瞬驚いた顔をした。


それから、静かに笑った。


そうかもしれないね。

一人で持たせなければ。


陽介は、佐伯から言われた言葉を思い出す。


分けて、繋げる。


先生。

俺、紙いっぱい持ってます。

名前も、家賃も、工場の文字も。

小野寺さんのも預かりました。


高瀬は陽介を見る。


重いだろ。


はい。


初めて、陽介はそう答えた。


これまでは、持てるだけ持とうとしていた。

消されたくないから。

忘れたくないから。


けれど、紙は本当に重かった。


高瀬は、椅子の背へ身体を預ける。


俺もね、最初は全部自分で読もうとしてた。


先生も。


工場で働いてた人の紙。

橋の下にいた人の紙。

自分の赤い封筒。

読めば何とかできると思った。


高瀬は、毛布の端を指で握った。


でも、読むだけで、誰にも渡さなかった。

相談なんて言葉は知っていたのに、自分が使うものだとは思わなかった。


陽介は、先生の積まれた封筒を思い出す。


先生も、自分のことは後でいいと思ってたんですか。


高瀬は苦笑した。


そうだね。

人の紙を読む方が、自分の紙を開くより楽だった。


陽介は胸の奥が痛くなった。


自分も同じだった。


先生の部屋。

千紘の名前。

小野寺の寝場所。

徳田の倉庫。


その全部を追いながら、自分の部屋の紙は最後まで見に行かなかった。


佐伯が病室の入口近くで言う。


だから、今日は紙を分ける話をしようと思ってる。


高瀬が佐伯を見る。


分ける。


陽介が持ってる紙を、この子一人に背負わせない。

宮下さんに見せるもの。

高瀬さんの手元に戻すもの。

私のところで保管するもの。

本人が持つもの。


高瀬は、ゆっくり頷いた。


それがいい。


千紘が自分の紙袋を抱える。


私の名前は、私が持つ。


それでいい。

でも、なくした時に困らないように、もう一枚書いておくといい。


高瀬が言うと、千紘は少し考え、頷いた。


陽介は、小野寺から預かった紙を見る。


小野寺さんのは。


本人と、宮下さんと、陽介。

本人がそれでいいと言ったならね。


佐伯が答える。


陽介は、紙を持つ手の力を少し緩めた。


高瀬が聞く。


陽介の昔の紙は。


陽介は袋から、透明な袋に入れられた学習冊子を取り出した。


これです。


高瀬は、近くで見ようと身を乗り出す。


無理しないでください。


陽介は椅子のそばまで持っていく。


高瀬は、袋越しに表紙と開いているページを見る。


岡崎陽介。


先生が読む。


陽介は、胸が少し詰まる。


その文字を先生の声で聞くと、先生に教わった今の自分と、昔そこに書いた自分が同じ場所へ戻ってくるようだった。


海の絵を描くのが好きです。


高瀬は、冊子に残った大人の字も読んだ。


陽介は頷く。


絵のページ、くっついてて見られないです。


高瀬は冊子を見たまま言った。


見られなくても、描いていたことは分かった。


でも、見たいです。


うん。


高瀬は笑った。


いつか、開ける方法を探そう。


いつか。


陽介は、その言葉を聞いた。


この街で、いつかという言葉はあまり聞いたことがなかった。

今日働かなければ今日食えない。

明日までに部屋を空けろ。

今動けないなら使えない。


いつか開く。


すぐでなくていいこと。

壊さないように待っていいこと。


その言葉も、覚えておきたいと思った。


病室の扉が開く。


宮下が戻ってきた。

その後ろには、小野寺がいる。


小野寺は制服の袋を抱えたままだったが、入ってきた時の顔は少し違っていた。


不安が消えたわけではない。

けれど、立っている場所を自分で選んだ人間の顔に見えた。


高瀬が小野寺を見る。


君が、小野寺直人さん。


小野寺は驚いたように足を止めた。


はい。


陽介から聞きました。

助けてくれたそうで。


小野寺は慌てて首を振る。


俺は、携帯と金を少し貸しただけです。


高瀬は、陽介を見る。


陽介も最初、そう言われても困った顔をした。


陽介は少し恥ずかしくなり、目を伏せた。


高瀬は小野寺へ言う。


貸しただけで、人が辿り着ける場所もある。


小野寺は、返事をしなかった。


ただ、目を伏せ、静かに頭を下げた。


宮下が椅子を追加する。


小野寺さんのお話を伺いました。

今夜は、佐伯さんのお宅へ戻る前に、病院から繋げられる場所についても確認します。

勤務先とのことは、本人の意思を確認しながら進めます。


小野寺は、制服の袋を握った。


仕事、続けたい気持ちもあります。


高瀬は頷く。


それは、悪いことじゃない。


でも、戻るのが怖いです。


それも、悪いことじゃない。


小野寺の肩が少し下がった。


陽介は、高瀬の言葉を聞いていた。


悪くない。


この物語の中で、その言葉を聞くたび、何かが少しずつ戻る。


相原が倒れたこと。

救急車を呼んだこと。

千紘が名前を知りたいと思ったこと。

自分が紙を読んでほしいと思ったこと。

小野寺が仕事へ戻るのを怖いと思ったこと。


どれも、悪くない。


宮下がファイルから白い紙を数枚取り出した。


今日は、皆さんで確認したことを、それぞれの手元に残せるようにしましょう。


千紘が嬉しそうに鉛筆を持つ。


私も書く。


もちろん。

書けるところを書いて、難しいところは一緒に。


宮下は、最初の紙に書く。


高瀬宗一 入院中 生存確認

徳田勝美 搬送 意識あり

小野寺直人 生活相談

岡崎陽介 住居と就労について相談

長谷川千紘 生活相談


陽介は、最初の行を見る。


高瀬宗一。

生存。


生の字がある。


生きるの、生。


自分が佐伯の家で何度も書いた文字だった。


高瀬先生。


陽介は呼んだ。


何。


これ、生です。


高瀬は微笑む。


読めたね。


はい。


陽介は、自分の紙へ写した。


高瀬宗一。

生。


徳田勝美。

生。


小野寺直人。

生。


佐伯澄江。

生。


宮下佳織。

生。


長谷川千紘。

生。


岡崎陽介。

生。


全員の横に書く必要があるのかは分からなかった。

宮下の紙とは違う。

相談に使える紙でもないかもしれない。


けれど、今の陽介が書きたかったのは、それだった。


生きている人間の名前の横に、生きているという字を置く。


千紘が、陽介の紙を見る。


私も。


千紘は自分の紙へ、長谷川千紘と書いた。

その横へ、生を写す。


小野寺も、しばらく迷ったあと、白い紙を一枚受け取る。


小野寺直人。


その横に、生と書いた。


佐伯が、鼻を小さく鳴らした。


私は自分で書くの恥ずかしいね。


千紘が言う。


書く。


佐伯は仕方ないという顔で、佐伯澄江と書いた。


宮下も、求められる前に自分の名前を書いた。


宮下佳織。

生。


高瀬は、細い手でペンを持った。


少し震えながら、自分の名前を書く。


高瀬宗一。

生。


最後の線を引くと、高瀬は息を整えるために目を閉じた。


けれど、その表情は苦しそうではなかった。


病室の小さな机に、何枚もの紙が並ぶ。


消された名前の記録ではない。

赤い封筒でもない。

終わりを知らせる紙でもない。


まだここにいる人間たちが、自分で書いた紙。


陽介は、その光景を見ていた。


相原信一の名前だけが、ここにはない。


胸の中で、そのことが痛む。


相原はどこにいるのか。

生きているのか。

名前を自分で持てているのか。


陽介が黙っていると、高瀬が気づいた。


相原さんのことだね。


陽介は頷く。


分からないままです。


宮下が静かに言う。


個人のことなので、こちらから簡単に調べて伝えられるとは限りません。

でも、岡崎さんが見たことと、相原さんの名前を書き残したことは、なくなりません。


陽介は、すぐには納得できなかった。


名前を残すだけでは足りない。

生きているなら、生きていると知りたい。


けれど、誰かの暮らしへ勝手に踏み込まないことも、小野寺のことで知った。


陽介は胸ポケットから、相原信一の紙を出した。


自分の紙の一番上へ置く。


相原信一。


横に、生と書こうとして、手が止まる。


分からないことを、分かったように書いてはいけない。


陽介は、生の代わりに、別の文字を書こうとした。


けれど、まだ持っていない。


高瀬が言う。


探す、という字を覚えるか。


陽介は顔を上げる。


高瀬は紙へ書いた。


探。


す。


探す。


陽介は、その文字を見る。


生きていると決めつけない。

消えたとも決めつけない。

分からないまま、見て、聞いて、確かめるための文字。


陽介は、相原信一の横へ、ゆっくり写した。


探す。


千紘も、自分の紙へ写す。


小野寺も、黙ってその文字を見ていた。


高瀬は疲れたように目を閉じながら言った。


最後の一人まで全部分かる話には、ならないかもしれない。


陽介は黙って聞く。


でも、分からない人を、いなかったことにしなければいい。


窓の外では、夕方の光が白い壁を薄く染めていた。


病院の花壇には、水仙がまだ立っている。

海はここから見えない。

工場の音も聞こえない。


それでも陽介の紙には、今ここにいる人間の名前と、まだ探す名前が並んでいる。


戻る。

相談。

記録。

生。

探す。


文字は、苦しさの形だけではなくなっていた。


失わないために使うもの。

一人で抱えないために渡すもの。

分からないままでも、明日へ持っていくもの。


陽介は、紙の端に小さく海を描いた。


千紘がすぐに気づく。


海。


陽介は頷いた。


海。


高瀬は目を閉じたまま、聞こえていたのか、小さく笑った。


病室の机の上で、名前の紙は白いままだった。


黒い線は、どこにも引かれていなかった。

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