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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第三十二話 潮騒は文字を知らない

春の風が、窓の隙間から入ってきていた。


先生の部屋ではなく、佐伯の部屋の窓だった。


卓袱台の上には、紙が並んでいる。


最初は、置く場所も決まっていなかった。

陽介の胸ポケットに詰め込まれ、千紘の小さな袋に折り畳まれ、佐伯の手帳の間に挟まれていた紙。


今は、佐伯が古い菓子箱を三つ用意していた。


一つには、名前。

一つには、部屋や金の紙。

一つには、これから誰かへ見せる紙。


箱の側面には、佐伯が大きく文字を書いた。

陽介と千紘も、その下に真似て書いた。


名前。

暮らし。

相談。


小野寺は、相談の箱の字だけを見て、少し笑った。


何か、ずいぶんちゃんとしたものに見えますね。


佐伯が湯呑みを並べながら言う。


見えるだけだよ。

中はまだ、ぐちゃぐちゃ。


卓袱台の端には、小野寺の制服が入った袋が置かれていた。


昨日、店から返事が来た。


すぐに戻れ。

勝手に休むなら、もう置いてやれない。

貸したものを返せ。

余計なところへ話を持っていったなら、こちらも対応する。


小野寺は、その文章を一人では読まなかった。


宮下に見せた。

佐伯にも読んでもらった。

自分の記憶と違うところは、自分で書いた紙と見比べた。


そして、今日の朝、店へは戻らなかった。


辞めたのかどうかは、まだはっきりしていない。

最後の金が出るのかも分からない。

今夜以降、どこで眠るのかも決まっていない。


ただ、店の裏の段ボールへ黙って戻ることはしなかった。


小野寺は、湯呑みを両手で持っている。


温かいお茶は、佐伯が少し薄く淹れたものだった。

人数が増えた分、一人分ずつは少ない。


それでも、湯気が出ている。


千紘は、卓袱台の上に水仙の絵を広げていた。

その隣には、別の紙がある。


長谷川千紘。


以前より、ずっと迷わず書けるようになっている。


その下には、佐伯に教わりながら書いた文字。


母 探す


陽介は、その二文字を何度も見た。


千紘の母親は、まだ見つかっていない。


宮下が調べられる先へ繋いでくれている。

千紘がいた部屋についても、確認してくれている。


けれど、今日この場で分かることはなかった。


千紘は、泣かなくなったわけではない。

夜になると、突然目を覚ます。

紙袋を抱えたまま、佐伯の部屋の隅でじっとしていることもある。


それでも、自分の名前を言えるようになった。

母という字を覚えた。

探すという字を、相原の隣だけでなく、自分の紙にも書いた。


いない人を、いなかった人にしないために。


佐伯が言う。


病院、行くよ。

高瀬さん、今日は部屋の話を決める日だから。


陽介は、菓子箱の中から紙を選んだ。


高瀬宗一。

戻る。


自分が初めて書いたものは、ひどく歪んでいる。

戻の字は潰れ、知らない人が見れば読めないかもしれない。


それでも、持っていくことにした。


先生が戻る場所について話す時、その紙が要ると思った。


青い本も袋へ入れる。


海という字を初めて教わった本。


その隣には、透明な袋に入れた湿った冊子もある。

まだ貼りついた絵のページは開いていない。

宮下が、無理に剥がさず、乾かしながら見られる人へ相談すると言ってくれた。


陽介が昔描いた海は、まだ紙の中に閉じている。


けれど、急がなくていい。


今の陽介には、今描いた灰色の海がある。


四人で外へ出る。


佐伯の家の狭い玄関には、靴が増えていた。


陽介の古い靴。

千紘の底の剥がれた靴。

小野寺の濡れた運動靴。

佐伯のくたびれた靴。


誰の場所なのか分からないくらい、入口が埋まっている。


けれど、誰かの靴を外へ放り出す者はいなかった。


道には、春の光が落ちていた。


強くはない。

薄い雲越しの、頼りない明るさだった。


川の水はまだ濁っている。

冬の間に溜まっていた泥やごみを抱えたまま、海へ流れていく。


橋の下を通る時、陽介は足を止めた。


小さな火がある。


正吾が缶の前に座っていた。

妙子は、青いシートの端へ洗ったらしい布を掛けている。


千紘が階段の上から手を振った。


正吾。

妙子。


二人が顔を上げる。


正吾が目を細めた。


名前呼ばれると、逃げらんねぇな。


妙子が鼻で笑う。


逃げる足なんか、もうねぇくせに。


千紘は嬉しそうに紙袋を持ち上げる。


徳田勝美さん、病院。


正吾は、缶の火へ手をかざしたまま頷いた。


聞いた。

昨日、病院の人がここにも来たよ。


陽介は驚く。


宮下さん。


名前までは聞かなかったけど、女の人。

ここで寝るなら、困ってること聞かせろってさ。


妙子が、干した布を直しながら言う。


妙な話だよ。

困ってることなんか、ありすぎて言葉にならないのにね。


それでも話しましたか。


陽介が聞く。


妙子は少し黙った。


名前だけは言ったよ。

妙子って。


正吾も、火の中へ細い木を入れる。


俺も正吾って言った。

名字はまだ思い出せねぇがな。


陽介は胸の中で、その音を確かめた。


妙子。

正吾。


火のところにいるだけの人ではない。


佐伯が言う。


病院へ行くけど、一緒に来る。


正吾は笑った。


今日はいい。

紙を燃やさないで取っとく練習してる最中だ。


缶の脇に、一枚の紙が置かれていた。


濡れないように、透明な袋へ入れられている。


陽介には読めない文字が多い。

けれど、先頭の二つだけは分かった。


相談。


千紘も気づいた。


宮下さん。


妙子が答える。


そういう名前だったかね。

来たい時に、この紙を見せろって。


陽介は、何も言えずに頷いた。


橋の下の火は、今日も小さい。

食べ物が増えたわけでもない。

青いシートが部屋になったわけでもない。


それでも、燃やされずに置かれた紙が一枚ある。


陽介たちは、橋を離れた。


コンビニの前を通る。


入口の赤い求人の紙は、まだ貼られていた。


店内には、店長が一人で立っている。

レジの前には列ができていた。


小野寺の足が止まる。


ガラス越しに、店長が気づく。


二人の視線が合った。


店長の顔に、驚きと苛立ちが浮かぶ。

すぐに自動ドアが開いた。


小野寺。


店長が言った。


今日どういうつもりなの。

連絡だけ寄越して、制服持ったまま逃げて。


小野寺の手が、透明な袋を強く握る。


陽介は隣に立った。

けれど、口は出さなかった。


小野寺が自分で話すと決めたことだった。


小野寺は、声を震わせながら言った。


制服は返します。


店長は手を出す。


小野寺はすぐには渡さない。


その前に、昨日まで働いた時間と、もらえる金のことを、紙でください。


店長の顔が変わった。


誰にそんなこと言われた。


俺が知りたいです。


小野寺の声は小さい。

けれど、消えなかった。


それと、徳田勝美さんは、病院に運ばれました。


店長の目が動く。


誰。


前に、ここで寝て働いてた人です。

店では名前を知らないって言ってましたけど、徳田勝美さんです。


店長は一瞬だけ黙った。


それから、苛立った声を出す。


だから何だよ。

あの人が勝手に出ていって、勝手に具合悪くしたんだろ。

こっちを悪者にしたいの。


小野寺は袋を抱えたまま、俯きかけた。


陽介は、その横顔を見た。


小野寺が何かを受け取ったことも事実だった。

暖かい店内。

廃棄のパン。

床でも眠れる場所。


だから、小野寺は言葉を失いそうになる。


けれど、しばらくして顔を上げた。


助けてもらったことはあります。


店長は、ほら見ろという顔になる。


でも、働いたことも、寝る場所がなかったことも、徳田さんがここにいたことも、なかったことにはしたくないです。


店長は小野寺を睨んだ。


お前、もう来なくていいから。


小野寺は、小さく息を吸った。


それも、紙でください。


店長の口が開いたまま止まる。


佐伯が、陽介の後ろで静かに立っている。

千紘は、自分の紙袋を抱えて、小野寺を見ていた。


店長は、制服の袋を乱暴に奪い取る。


紙なんか出さない。

好きにしろ。


そう言って、店の中へ戻る。


自動ドアが閉じる。


小野寺は、その場に立ち尽くしていた。


大丈夫ですか。


陽介が聞く。


小野寺は首を振った。


大丈夫じゃないです。


その答えに、陽介は少し驚いた。


以前なら、小野寺は大丈夫だと言っただろう。

まだ働けるから。

床でも寝られるから。

パンをもらえるから。


今日は、大丈夫ではないと言えた。


佐伯が手帳を開く。


今のこと、書く。


小野寺は頷いた。


自分でも書きます。


千紘が店のガラスを見上げる。


赤い紙、まだある。


陽介も見る。


あれ、何て書いてあるんですか。


小野寺は、赤い求人の紙を見た。


初めて、その前で立ち止まって読む。


声に出した。


未経験歓迎。

住み込み応相談。

すぐ働けます。

親切に指導します。


陽介は、文字の音を聞いた。


老人が、いいことが書いてある気がすると言った紙。


確かに、いいことのように聞こえた。


寒い外にいる人間へ。

腹を空かせている人間へ。

文字が読めても選べる場所を持たない人間へ。


すぐ働ける。

住めるかもしれない。

親切にされる。


その先に、床で眠り、名前を知られずに消える日があるとは書かれていない。


千紘が聞く。


嘘。


小野寺は首を横へ振った。


全部が嘘じゃない。


陽介は、小野寺を見る。


働けました。

寝かせてもらえる話もありました。

教えてもらったこともあります。


小野寺は、赤い紙を見る。


でも、書いてないことが多すぎます。


佐伯が、その言葉を手帳へ書いた。


陽介も、紙へ写したかった。


書いてない。


ひらがななら、少しずつ書ける。


佐伯に見せてもらい、陽介は赤い紙の形を横に見ながら、別の紙へ書いた。


かいてないこと。


字は歪んでいる。

全部を説明できる言葉ではない。


けれど、求人の紙の隣で、陽介が初めて書いた反対側の言葉だった。


駅へ向かう道で、小野寺は何度も後ろを振り返った。


コンビニの明かりは、消えずに残っている。

客も入っていく。

店長は、またレジへ立っているのだろう。


店がなくなるわけではない。


小野寺がいなくなっても、別の誰かが赤い紙を見て入るかもしれない。


陽介は、胸が冷たくなるのを感じた。


一人が名前を取り戻しても、街は変わらない。


工場も、コンビニも、集合住宅も、橋の下も。

人を削りながら、明るい顔をして続いていく。


それでも、病院へ向かう電車には、小野寺が乗っている。


途中で降りて、店へ戻らなかった。


病院の白い廊下には、以前より人が多かった。


宮下が、待合の一角に椅子をいくつか寄せていた。


陽介たちを見ると、まず小野寺へ近づく。


話せましたか。


小野寺は頷く。


制服、返しました。

来なくていいって言われました。

紙では、もらえませんでした。


分かりました。

今のことも残しましょう。


小野寺は、携帯を取り出す。


自分で書きます。


宮下は頷いた。


その時、廊下の奥から車椅子が押されてきた。


毛布を膝に載せた、痩せた老人が座っている。


千紘が一番に気づいた。


とくさん。


徳田が、ゆっくり顔を上げた。


おお。


声はまだ弱い。

けれど、倉庫裏で聞いた時よりも、少しだけ響きがある。


胸元には、透明な袋に入った紙が載っていた。


徳田勝美。


本人が持って病院へ来た名前の紙。


小野寺が、一歩前へ出る。


徳田さん。


徳田は、小野寺を見る。


出てきたのか。


はい。


そうか。


徳田は、それ以上言わなかった。


ただ、車椅子の肘掛けに置いた手を少し動かす。


小野寺が、迷いながらその手に触れた。


冷たい手だった。

けれど、生きている手だった。


徳田が言う。


店長、悪いやつじゃなかったろ。


小野寺の指が止まる。


はい。


でも、戻れなかったか。


小野寺は、目を伏せる。


はい。


徳田は、窓の外へ視線を向ける。


俺もだ。


その一言だけで、小野寺の顔が崩れた。


店長を悪人と決めなくてもいい。

助けてもらったことを否定しなくてもいい。

それでも、戻れなかったと話していい。


徳田は、小野寺へ紙を見せる。


俺、勝美っていうんだと。


知ってました。


お前が見つけたんだってな。


荷物の袋に書いてあったのを、覚えてただけです。


覚えてたなら、見つけたのと同じだ。


徳田の声に、微かな笑いが混じった。


千紘が、自分の紙を見せる。


私は長谷川千紘。


知ってる。

さっき先生から聞いた。


千紘の顔が明るくなる。


先生。


高瀬も、少し後ろから看護の人に付き添われて歩いてきた。


まだ長く立っているのは難しいのか、途中で椅子へ座る。

けれど、自分の足で廊下へ出てきた。


千紘が走り寄る。


先生、徳田さんいた。


高瀬は徳田を見る。


久しぶりですね。


徳田は顔をしかめる。


病院で再会なんて、ろくなもんじゃねぇな。


生きて会えたなら、悪くないですよ。


高瀬は静かに答えた。


徳田は少し黙り、紙を胸元で押さえた。


お前、まだ字ぃ読んでんのか。


高瀬は陽介たちを見る。


今は、俺より読もうとしてる人がいる。


陽介は、急に名前を呼ばれたような気がして身体を正した。


高瀬が言う。


陽介。

紙、持ってる。


はい。


広げてみよう。


病院の待合の端に、宮下が小さな机を寄せた。


陽介は、袋から紙を出す。


名前の紙。

自分の灰色の海。

千紘の水仙。

小野寺が書いた記録。

徳田までの地図。

高瀬宗一、戻る。

かいてないこと。


全部を並べるには、机は小さかった。


紙の端が重なる。

一枚を置くと、別の一枚が少し隠れる。


佐伯が言う。


全部見えるようにするには、もっと大きい場所がいるね。


宮下が微笑む。


場所を考えましょう。


高瀬が、紙の一枚へ触れる。


これは。


陽介の海。


千紘が答えた。


高瀬は陽介を見る。


描いたんだ。


はい。


灰色ですね。


高瀬が言う。


俺の部屋から見える海、灰色なんで。


そうか。


高瀬は、その絵を長い時間見た。


それから、青い本の表紙へ手を置く。


本の海と違うね。


はい。


どちらも海だ。


陽介は頷いた。


病院の窓の向こうに、海は見えない。

けれど、陽介の紙の上には海がある。


千紘の紙には、水仙がある。

小野寺の紙には、戻れなかった店のことがある。

徳田の胸には、自分の名前がある。

佐伯の手帳には、日付と出来事が繋がっている。

宮下のファイルには、消されないために動いている暮らしがある。


高瀬が、陽介の紙の端を見た。


相原信一。

探す。


陽介は、息を吸った。


まだ、分かりません。


うん。


探したいです。


高瀬は頷いた。


探そう。


宮下が言う。


私にできる範囲で、確認できる道を考えます。

すぐ答えが出るとは言えません。

でも、岡崎さんが見たことについて、相談できる先はあります。


陽介は、相原の文字を見る。


いつか、生と書ける日が来るかもしれない。

来ないかもしれない。


それでも、探すという文字を消さない。


千紘が、陽介の紙の隣へ自分の紙を置いた。


母 探す


二つの探すが並ぶ。


陽介は、千紘を見る。


一緒だな。


千紘は頷く。


探す。


小野寺も、自分の紙へ何かを書いた。


陽介が覗く。


徳田勝美。

店。

時間。

金。

相談。


小野寺は言う。


俺、店で何時間働いたか、思い出せる分だけ書きます。

徳田さんがいた日も。


徳田は、小野寺を見る。


俺のは、いいぞ。


小野寺は首を振った。


俺が見たことなので。

書いていいですか。


徳田は、しばらく目を伏せた。


それから頷いた。


好きに書け。

俺も、読んでもらう。


高瀬が小さく笑う。


読めば、苦しいですよ。


徳田は高瀬を睨むように見る。


今さら、苦しくない日なんかあるか。


その言葉に、佐伯が少し笑った。

宮下も、困ったように笑った。


笑いは小さかった。

何かが解決した笑いではない。


けれど、誰かを踏んでいない笑いだった。


陽介は、紙を見回した。


あと一話で終わるような人生ではないと思った。


明日も、金が要る。

先生の部屋のことも決まらない。

自分の部屋も、いつまで残るか分からない。

小野寺の仕事はなくなった。

千紘の母親は見つかっていない。

相原の消息も分からない。

妙子と正吾は、今夜も橋の下で火を囲むのかもしれない。


街は変わっていない。


赤い求人の紙は、明日も貼られている。

工場では、誰かが台車を押している。

読めない封筒は、また誰かの部屋へ届く。


海は、文字を知らない。


陽介が読めなかった頃も、読もうとしている今も。

名前を消された人がいても、名前を取り戻した人がいても。

灰色の水は、ただ川を受け入れ、岸へ音を返している。


それでも、陽介は海と書ける。


海の音を聞いて、海の形を紙に置ける。


病院を出たあと、陽介たちは川沿いまで歩いた。


高瀬と徳田は外へ出られない。

宮下も病院に残った。

佐伯と、千紘と、小野寺と、陽介だけだった。


風はまだ冷たい。


川の濁った水は、海へ向かっている。


千紘が、水仙の紙を風に飛ばされないよう両手で持つ。


陽介、書く。


何を。


今日のこと。


陽介は、紙を取り出した。


何を書けばいいか考える。


相原信一。

探す。


長谷川千紘。

母 探す。


小野寺直人。

相談。


徳田勝美。

生。


高瀬宗一。

戻る。


佐伯澄江。

生。


宮下佳織。

相談。


妙子。

正吾。

橋の下。

相談。


岡崎陽介。


そこで、鉛筆が止まる。


自分の横には、何を書くのか。


生。

相談。

探す。

戻る。


どれも自分にある。


けれど、一つだけを選ぶ気にはならなかった。


小野寺が横から言う。


書く、でいいんじゃないですか。


陽介は小野寺を見る。


小野寺は、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。


ずっと書いてるから。


千紘が頷く。


陽介、書く人。


佐伯が息を吐く。


それでいいんじゃない。


陽介は、紙へ目を戻した。


書く。


その字を、まだ知らない。


佐伯に教わろうとして、手を止めた。


先生に聞きたいと思った。


次に病院へ行った時、高瀬に教えてもらう。

書くという字を。

今度は、生きている先生の口から。


陽介は、文字の代わりに、自分の名前の横へ鉛筆で一本の線を引いた。


川から海へ向かう、曲がった線。


千紘が言う。


それ、海に行く線。


陽介は頷いた。


うん。


紙を折らずに持った。


風が紙の端を揺らす。


遠くから、波の音が聞こえる。

街の音も混じっている。

車の音。

誰かの足音。

まだ動いている工場の音。


海は、そのどれにも答えない。


名前を読まない。

給料の紙も読まない。

赤い求人も、黒く消された行も知らない。


ただ、岸へ何度も音を返している。


陽介は、その音を聞きながら、白い紙に自分の知っている文字を書いた。


海。


その下に、もう一度。


岡崎陽介。


文字は、まだ不格好だった。


けれど、消されていなかった。

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