最終話 書くという字を教わる日
高瀬が病院を出たのは、水仙の花が少し俯き始めた頃だった。
元の部屋へは戻らなかった。
戻りたいと書いた紙は、無駄になったわけではない。
本と、机の引き出しにあった紙と、青い表紙の本と、毛布だけは、捨てられずに済んだ。
けれど、電気の止まった部屋で、また一人で咳をする暮らしへ戻ることは、高瀬自身が選ばなかった。
宮下が探してくれた部屋は、病院から電車で少し行った場所にあった。
二階建ての古い建物の一階。
窓は小さく、外を見ても海は見えない。
台所も狭く、置ける本の数も限られている。
それでも、電気がついた。
水も出た。
湯を沸かすと、部屋の中に白い湯気が立った。
陽介は、天井の灯りを何度も見た。
明るい部屋に本がある。
紙が読める程度の光が、誰かの許しを待たずに夜まで残る。
それが、ひどく贅沢なものに思えた。
高瀬は、窓際の小さな机へ青い本を置いた。
これだけは、返してもらえてよかった。
陽介は頷く。
海の本。
千紘がすぐに言った。
私も読める。
高瀬は笑った。
海は読めるようになったね。
千紘は、以前より少しだけ綺麗な上着を着ていた。
宮下と佐伯が用意したものだった。
母親はまだ見つかっていない。
千紘が寝る場所は、佐伯の部屋ではなくなった。
宮下が繋いだ、子どもが夜を過ごせる場所へ移っていた。
そこでは食事が出る。
布団もある。
名前を聞かれた時、千紘は自分で答えたという。
長谷川千紘。
最初の日は、紙を握ったまま何度も言ったらしい。
けれど、高瀬の新しい部屋へ来る時には、もう紙を見なくても言えた。
高瀬が机の脇に置いた小さな箱を開ける。
中には、名前の紙が入っている。
相原信一。
徳田勝美。
小野寺直人。
佐伯澄江。
宮下佳織。
長谷川千紘。
岡崎陽介。
妙子。
正吾。
三〇二の人。
咳をしていた人。
名前が分からないままの紙も、捨てられてはいなかった。
陽介は、その箱の中へ新しい紙を一枚入れた。
高瀬宗一 退院
退院の字は、宮下に書いてもらい、何度も写した。
二文字目がまだ崩れる。
けれど、高瀬には読めた。
戻るじゃなくて、退院にしたんだ。
高瀬が言う。
陽介は頷く。
先生、前の部屋には戻らなかったから。
でも、病院からは帰ってきたので。
高瀬は、しばらく紙を見ていた。
そうだね。
戻るだけが、帰ることじゃないね。
陽介は、その言葉を心の中へ入れた。
以前の陽介は、戻る場所しか知らなかった。
湿った布団のある部屋。
工場の門。
橋の下の火。
コンビニの白い灯り。
戻れなくなれば、もう終わりだと思っていた。
けれど、先生は別の部屋へ帰った。
千紘も、母親のいない部屋ではない場所で眠っている。
小野寺も、店の裏の段ボールへは戻らなかった。
元の場所へ戻らなくても、生きている人はいる。
その代わり、何も簡単には決まらなかった。
高瀬の部屋の支払いについては、まだ紙が増えている。
千紘がこの先どこで暮らすのかも、決まっていない。
小野寺は、短い仕事をいくつか紹介されたが、どれも続くか分からないと言っていた。
陽介自身も、佐伯の部屋へいつまでも置いてもらうわけにはいかない。
自分の部屋には、まだ鍵がある。
電気はつかない。
布団は壁へ立てかけたまま。
窓を開けると、灰色の海だけが見える。
家賃の紙は、宮下へ見せた。
すぐ追い出されるわけではないらしい。
けれど、払えなければ、いずれそこも失う。
陽介は、そのことをもう知らないふりにはできなかった。
机の上に、宮下が持ってきた大きな封筒が置かれていた。
今日は、小野寺も来ていた。
高瀬の新しい部屋に入る時、まだ靴を揃える癖が抜けていないらしく、自分の靴を端へ寄せ、さらに陽介と千紘の靴まで揃えようとした。
佐伯が言った。
そんなに端に寄せたら、帰る時に履きにくいよ。
小野寺は、少し困ったように笑う。
邪魔にならないようにするの、癖になってるみたいです。
千紘が言う。
邪魔じゃない。
小野寺は、何も言わずに頷いた。
今日、小野寺が持ってきた紙には、店で働いた時間が書かれていた。
読める人間である小野寺は、自分で書いた。
朝に店へ入った日。
夜までレジに立った日。
品出しをした時間。
裏で眠る代わりに作業を求められた夜。
徳田が店の裏にいた頃、見かけた日。
ところどころ、分からないと書かれている。
時計を見ていなかった日。
終わる時間を教えられなかった日。
寝ていたのか働いていたのか、境目が曖昧な夜。
それでも、小野寺は書いた。
宮下が、その紙を見ながら言った。
これだけでも、大事です。
正確に全部分からないからといって、なかったことにはなりません。
小野寺は紙の端を押さえる。
払ってもらえるんですか。
可能性はあります。
ただ、すぐに認められるとは言えません。
相手が違うと言うこともあります。
確認や手続きに時間がかかることもあります。
小野寺は、少し顔を伏せた。
時間かかるなら、その間、どうすればいいんでしょう。
宮下は答える。
その間に暮らせる方法も、一緒に探します。
払われなかったものを求めることと、今日食べることは、別々に考えないといけません。
陽介は、その言葉を聞いていた。
紙を出せば、すぐ金が戻ってくる。
そういう話ではない。
失った時間を記録しても、今日の腹はすぐには満たされない。
それでも、小野寺は紙を引っ込めなかった。
お願いします。
小野寺は言った。
店長を、ひどい人にしたいわけじゃないです。
でも、俺が働いてたことと、徳田さんがいたことは、なかったことにしたくないです。
高瀬は、小野寺の言葉を聞きながら、静かに頷いた。
陽介は、自分の膝の上に置いた袋を見た。
中には、工場から持ち帰った紙がある。
薄茶色の給与の封筒。
赤い文字の終わりの紙。
携帯の画面を写してもらった紙。
掲示板で自分の名前が黒く消されていた写真。
相原の名前を書き残した紙。
三浦正志の名前と、封筒を見せてもらった日の記録。
それから、自分の部屋の湿った布団の下から出てきた、昔の学習冊子。
宮下が、陽介の方へ向き直る。
岡崎さんも、確認してみましょうか。
陽介は頷く。
袋から、紙を一枚ずつ出した。
以前なら、紙は重ねたまま渡した。
自分には読めないから、どれがどれでも同じだった。
今日は違う。
これは、俺の金の紙です。
給与明細。
宮下が言う。
これは、終わるって教わった紙です。
契約が終わることを知らせる紙ですね。
これは、工場から来なくていいって来た文字です。
佐伯さんに、写してもらいました。
それから。
陽介は、写真の紙を出した。
俺の名前が、黒く消されてた紙です。
宮下は、一つずつ受け取った。
最後に、相原信一の名前を書いた紙を置く。
これは。
相原さんです。
工場で倒れた人です。
俺が見てました。
宮下は、紙の上の文字を見る。
その日付は分かりますか。
佐伯さんが書いてくれた紙にあります。
佐伯は、持ってきた手帳を開いた。
高瀬が搬送された日。
陽介が工場へ行かなかった日。
工場から来なくていいという連絡が来た日。
その前の頁に、相原が倒れ、救急車で運ばれた日が書かれている。
陽介には、まだ全部は読めない。
けれど、その紙の中に、自分がいた日が並んでいることを知っている。
宮下は、手帳と給与の紙と写真を見比べていた。
陽介は、指先を握った。
怖かった。
紙を持っているだけの時は、まだ自分の中に隠しておけた。
誰かに渡せば、話が始まる。
工場の人間へ何かが伝わるかもしれない。
班長が、また陽介を面倒な人間だと言うかもしれない。
三浦が、そこで働けなくなるかもしれない。
何より、紙を出したところで何も返ってこないかもしれない。
宮下が顔を上げた。
岡崎さん。
記録を見る限り、働いた分の支払いについて、確認を求めることは考えられます。
最後の支払いから引くと言われたことについても、理由を確認する必要があります。
陽介は、言葉を聞き取ろうとする。
俺が、もらってなかった金があるんですか。
可能性があります。
いくらですか。
今ここで、正確な金額は言えません。
働いた時間がどれくらいだったのか、受け取った金額がいくらなのか、紙と記憶を照らし合わせる必要があります。
働いた時間。
宮下は、白い紙を陽介の前へ置いた。
覚えている日からでいいです。
朝、どの音で起きたか。
何時頃に車へ乗ったか。
いつ工場に着いたか。
休めたか。
暗くなってから帰ったか。
誰かが倒れた日、何があったか。
陽介は、その白い紙を見る。
自分の一日は、今まで同じものだった。
起きる。
歩く。
働く。
腹が減る。
眠る。
そこに時間があるとは思っていなかった。
工場へ渡した時間。
箱を運んだ時間。
怒鳴られていた時間。
相原の手が腫れていた時間。
救急車を呼べと言った時間。
自分の名前が黒く消された時間。
全部、自分がそこにいた時間だった。
陽介は聞いた。
その時間に、金がついてたんですか。
宮下はゆっくり頷いた。
働いた時間には、本来、支払われるべきものがあります。
陽介は紙を見たまま動かなかった。
金。
最初に先生の部屋で覚えた文字。
仕事。
金。
終わり。
あの時は、並んでいるだけだった。
今、金という字が、自分の時間の横に置かれる。
陽介は、手を膝の上で握った。
それだけあったら。
声が途中で止まる。
高瀬が、陽介を見る。
陽介は続けた。
相原さん、病院行けたんですか。
手があんなになる前に。
先生、電気止まらなかったんですか。
徳田さん、店の裏で寝なくてよかったんですか。
俺も、文字忘れないで済んだんですか。
誰も、すぐには答えなかった。
宮下は、答えられないものを無理に答えなかった。
全部が金だけで決まったとは言えません。
でも、受け取るべきものを受け取れなかったことが、暮らしを狭くした可能性はあります。
可能性。
陽介は、紙の上へ視線を戻した。
失ったものが、全部取り返せるわけではない。
相原の手が元へ戻るかは分からない。
徳田が海の見える部屋へ戻れるかも分からない。
先生が痩せた身体を元通りにできるかも分からない。
自分が忘れていた文字を、何一つ欠けずに思い出せるわけでもない。
それでも、自分の時間が最初から価値のないものだったと思わされるのは嫌だった。
高瀬が小さな声で言った。
陽介。
出すかどうかは、君が決めていい。
宮下も頷く。
確認を求めることはできます。
ただ、負担もあります。
相手とやり取りすることになるかもしれません。
時間もかかります。
その間の生活についても、一緒に考える必要があります。
陽介は、白い紙を見ていた。
書く場所が広く空いている。
そこへ、今までの時間を置く。
自分がどれだけ働いたのか。
どれだけ払われなかったのか。
どの日に何を見たのか。
その紙を出すということは、工場へ戻れなくなることよりも大きなことに思えた。
けれど、自分の名前は、もう掲示板の上で消されている。
戻れる場所ではなかった。
陽介は、鉛筆を持った。
出します。
声は小さかった。
高瀬が静かに聞く。
どうして。
陽介は、すぐに答えられなかった。
金が欲しくないわけではない。
飯を食べたい。
電気もつけたい。
湿った布団ではなく、乾いた場所で眠りたい。
けれど、それだけではなかった。
金のためだけじゃなくて。
陽介は言った。
俺が、そこにいた時間なんで。
なかったことにされたくないです。
部屋の中が静かになった。
窓の外で、風が建物の壁を撫でる音がする。
千紘が、陽介の紙へ近づいた。
私も書く。
何を。
陽介、いた。
陽介は、千紘を見る。
千紘は、当たり前のように言った。
工場にいた。
相原さんいた。
先生もいた。
とくさんもいた。
高瀬の目元が少し緩む。
証人みたいだね。
千紘は意味が分からない顔をした。
高瀬は説明しなかった。
宮下は、白い紙の上へ日付の欄を作った。
佐伯は手帳を開いた。
小野寺は、自分の紙を脇へ置き、陽介の方を見ている。
陽介は、最初の日を思い出そうとした。
いつから工場へ行ったのかは、まだ分からない。
けれど、覚えている日がある。
相原の手に布が巻かれていた日。
相原が倒れた日。
救急車が来た日。
掲示板の名前が黒く塗られた日。
先生を病院へ運ぶため、工場へ行かなかった日。
来なくていいという文字が届いた日。
陽介は、一日ずつ話した。
佐伯が書く。
宮下が確かめる。
小野寺が聞いている。
千紘が、分かる名前のところだけ指で追う。
高瀬は、途中で疲れて目を閉じた。
けれど眠っているだけだと分かる呼吸だった。
紙の上に、陽介の時間が並んでいく。
全部ではない。
記憶の抜けた日も多い。
何時から何時までか分からない日ばかりだ。
それでも、何もなかった紙ではなくなった。
宮下が言う。
相原さんについては、岡崎さんが見た出来事として記録します。
どこまで確認できるかは約束できません。
それでも、搬送された人がいたことを、工場の話だけで終わらせないために。
陽介は頷いた。
相原信一の横に、まだ生とは書けない。
けれど、探すという字は残っている。
夕方になり、陽介たちは高瀬の部屋を出た。
小野寺は、宮下ともう一度会うため病院へ向かった。
千紘は、今夜戻る場所へ送ってもらう時間まで、佐伯と一緒にいた。
陽介は、一人で自分の部屋へ向かった。
一人で歩くのは久しぶりだった。
以前はいつも一人だったはずなのに、今は街の中に名前が増えすぎて、一人という感じが少し違う。
橋の下には、火が灯っていた。
正吾が缶の前へ座り、妙子が青いシートの端を直している。
陽介が上から声を掛ける。
徳田勝美さん、生きてます。
正吾が顔を上げる。
そうか。
妙子が言う。
名前まで長くなったねぇ。
陽介は頷く。
俺も、今日、紙出すって決めました。
何の紙だい。
働いた時間の紙です。
正吾は、缶の火を見る。
時間なんか、取っといたら山ほどあったろうにな。
陽介は、その言葉を聞いた。
本当にそうだった。
この街では、誰もが時間を持っていた。
寒さを耐える時間。
腹を空かせる時間。
怒鳴られて手を動かす時間。
倒れても運ばれない時間。
戻れない部屋を思い出す時間。
けれど、それが誰のものなのかは、ずっと曖昧にされていた。
陽介は、紙を一枚取り出す。
妙子。
正吾。
そこに、生と書こうとして、やめた。
二人は目の前にいる。
わざわざ自分が決めるように書く必要はない気がした。
代わりに、火の絵の横へ、小さく文字を書く。
いる。
ひらがなは、まだ綺麗ではない。
けれど、千紘が書いた、とくさん いたを見て覚えた。
妙子が、紙を覗き込む。
私ら、いるのかい。
はい。
陽介は答えた。
今日、います。
正吾は火に手をかざしながら笑った。
明日のことまでは書くなよ。
嘘になるかもしれん。
陽介は頷いた。
今日だけ、書きます。
それでいい。
正吾は言った。
陽介は橋を離れた。
集合住宅へ戻る。
入口の脇にあった三〇二の黒い袋は、なくなっていた。
床には、袋が置かれていた四角い跡だけが残っている。
濡れた埃が、その場所だけ薄くなっていた。
陽介は立ち止まる。
咳をしていた人。
名前の分からなかった人。
袋さえ、もうない。
胸の中が空になるようだった。
けれど、陽介の紙には残っている。
三〇二。
咳をしていた人。
名前ではない。
足りない。
見つけられる手掛かりにもならないかもしれない。
それでも、最初から誰もいなかったことにはならない。
陽介は階段を上がり、自分の部屋の鍵を開けた。
窓は、少し開けたままだった。
湿った空気の中へ、海からの風が入っている。
立てかけた布団は、まだ黒い染みを残しているが、以前ほど重たい臭いはしなかった。
陽介は窓の前へ座った。
灰色の海が見える。
日が落ちかけ、空との境目はまた曖昧になっている。
水は濁り、遠くで波だけが白く崩れていた。
陽介は、袋から二冊を出した。
先生に海を教わった青い本。
湿った布団の下から出てきた、自分の昔の冊子。
冊子の貼りついたページは、まだ開かない。
昔描いた海は、見えないままだ。
その隣に、今の自分が描いた灰色の海を置く。
下には、岡崎陽介と書いてある。
昔の自分の名前。
今の自分の名前。
同じ音。
同じ形。
その間に、長い空白がある。
陽介は、机の上へ白い紙を置いた。
先生に、まだ教わっていない字がある。
書く。
次に会った時に教えてもらうつもりだった。
けれど、今、どうしても置きたくなった。
陽介は携帯を取り出した。
文字の形を探すことはできない。
青い本にも、書という字はない。
それでも、陽介は鉛筆を握った。
知らない字を書くことはできない。
だから、書ける字から書く。
海。
先生に最初に教わった字。
その下に、
生。
佐伯の部屋で覚えた字。
その下に、
探す。
相原の横へ置いた字。
そして、
岡崎陽介。
自分の名前。
紙の下の方に、まだ白い場所が残っている。
書くという字は、そこへいつか入れる。
高瀬が生きているうちに聞く。
千紘と一緒に写す。
小野寺が、自分の時間を書いた紙の横にも置く。
徳田が、自分の名前を持って退院できる日が来たら見せる。
相原を探す紙にも、いつか書く。
陽介は鉛筆を置いた。
窓の向こうで、海が鳴っている。
海は、陽介の名前を知らない。
相原信一も。
高瀬宗一も。
長谷川千紘も。
小野寺直人も。
徳田勝美も。
紙へ書かれた時間の値段も。
返してもらえるかもしれない金も。
戻れなかった部屋も。
明日から始まるやり取りも。
何一つ知らず、ただ岸へ音を返している。
それでいいのだと、陽介は思った。
海が読まなくても、自分たちが読む。
海が書かなくても、自分たちが書く。
濁った水の向こうで、夜がゆっくり深くなっていく。
陽介は、紙の端へ小さく、覚えたばかりのひらがなを置いた。
いた。
自分が、そこにいた時間のために。
相原が、そこにいた時間のために。
まだ戻らない名前と、まだ消えていない名前のために。
波の音は、何も答えなかった。
けれど、白い紙の上には、もう黒い線を引く者はいなかった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
第一話から第三話までは、以降の話と比べて字数が少なくなっています。
物語の始まりでは、陽介自身がまだ、自分の置かれている状況を異常なものとして認識していません。
空腹も、寒さも、働いても何も残らないことも、ただ繰り返される日常として受け入れている。
そのため序盤は、あえて言葉を詰め込みすぎず、狭く、息苦しく、何も説明されないまま一日が過ぎていく感覚を残す形にしました。
物語が進み、陽介が文字を知り、名前を知り、目の前にあったものの意味へ気づいていくにつれて、彼の世界には人の声や紙に残る記録が増えていきます。
それに合わせるように、物語の描写も少しずつ広がっていきました。
途中、第一話から第九話までは思い切って書き直しています。
陽介が何を知らず、どこで違和感を持ち、どの瞬間から消された名前を見過ごせなくなったのか。
この物語の始まりを、改めて丁寧に組み直したいと思ったためです。
すでに読んでくださっていた方には、お手数をおかけしました。
それでも、今の形で最後まで届けられたことを嬉しく思います。
この物語は、決して明るいだけの話ではありませんでした。
働いても食べられないこと。
支払われるはずのお金を失い、住む場所まで失っていくこと。
文字や端末を扱えないために、自分の被害を記録することも、助けを求めることもできない人がいること。
訴えれば取り戻せるものがあったとしても、解決を待つ前に、今日の食事も住所も失われてしまうこと。
そうした暮らしは、困窮していない側からは、なかなか見えません。
私自身も、働いていたにもかかわらず、受け取るべきお金が支払われず、住む場所を失い、ホームレスとして過ごした時期があります。
そして、公的機関を頼ることなく、どうにかその状態から抜け出しました。
それを特別な強さとして語りたいわけではありません。
むしろ、誰もが同じように抜け出せるわけではないことを、私は知っています。
読み書きが難しい。
スマートフォンやインターネットを使えない。
相談先を調べられない。
生活保護などの制度があっても、その入口へ辿り着くための交通費も、住所も、説明する言葉も、待ち続ける余力もない。
発信できない人の困窮は、表面化しません。
証拠が残っていないから被害がなかったのではなく、証拠を残すところまで辿り着けなかったほど、追い詰められていたのかもしれない。
この物語は、現実をそのまま書き写したものではありません。
登場人物も、出来事も、物語として組み直しています。
それでも、陽介が名前を読めなかったこと。
相原が倒れても、助けようとした側が責められたこと。
徳田が助けてもらった記憶のために、自分の苦しさを悪いこととして語れなかったこと。
小野寺が働く場所と眠る場所を同時に失うことを恐れたこと。
陽介が、自分の働いた時間をなかったことにされたくないと紙を差し出したこと。
その根には、私が実際に見てきた困窮の輪郭があります。
文字を知れば、すべてが救われるわけではありません。
記録を残せば、すぐにお金が戻るわけでもありません。
制度があれば、誰もが救われる場所まで辿り着けるわけでもありません。
それでも、自分の名前を読めること。
自分がそこにいた時間を書けること。
奪われたものを、仕方のないことではなく、奪われたものとして知ること。
消されかけている誰かを、最初からいなかった人にしないこと。
そこからしか始まらないものがあるのだと思います。
潮騒は文字を知りません。
海は、誰が働いていたのかも、誰がお金を支払われなかったのかも、誰が飢えていたのかも、誰が制度の入口にさえ辿り着けなかったのかも、何も語りません。
けれど、その海のそばで生きていた人間のことを、誰かが書き残すことはできます。
最後まで、陽介たちの名前と時間を見届けてくださり、本当にありがとうございました。
門隈




