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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第三十話 雨を吸った地図の先で呼び返す名を

朝、佐伯の家の卓袱台には、四人分の器が並んだ。


昨日まで三つだった器が、一つ増えている。


小野寺は、器の前に座っても、なかなか箸を取らなかった。

眠れなかったのだろう。

目の下には薄い影があり、髪は寝癖というより、何度も手で押さえたように潰れていた。


制服は、透明な袋の中に畳まれている。

店へ戻るのか。

もう戻らないのか。


本人にも、まだ分からない。


佐伯が鍋から薄い粥をよそう。


食べな。

今日は歩くんだから。


小野寺は、手元の器を見る。


俺、本当に一緒に行っていいんですか。


陽介は卓袱台の上の地図を見た。


昨夜描いた、橋と川と倉庫の線。

その横に、佐伯の字で書かれた、とくさん。

小野寺の字で書かれた、徳田。


小野寺さんが知ってる名前があるから、行けます。


名前だけです。


名前がないよりいいです。


陽介は言った。


小野寺は、少し黙ってから箸を取った。


千紘はすでに粥を食べ始めている。

湯気に顔を近づけ、熱そうに息を吹きかけながら、それでも手は止めない。


途中で、千紘は自分の紙袋から一枚の紙を出した。


水仙の絵の下に、昨夜新しく書き加えた文字がある。


徳田。


陽介が見る。


書いたのか。


千紘は頷く。


探す人。


小野寺の箸が止まる。


千紘は、紙を小野寺へ向けた。


この人、知ってる人。


小野寺は、歪んだ徳田の二文字を見た。


知ってるって言っても、ほとんど話したことないです。

店の裏で横になってるところを何度か見て。

一回だけ、レジの後ろに置いてあった袋に、徳田って書いてあっただけで。


でも、見た。


陽介が言う。


はい。


小野寺は粥を一口飲み込む。


冷めかけていたのか、湯気はもう少ない。

それでも、小野寺の頬に少しだけ色が戻ったように見えた。


佐伯が電話の前へ座る。


食べ終えたら、まず病院へ電話するよ。

宮下さんが一緒に来られるか聞く。

来られないなら、どうすればいいか教えてもらう。


千紘が言う。


宮下さん、来る。


決めるのは向こうだよ。


佐伯はそう言いながらも、受話器へ手を伸ばした。


陽介は粥を食べながら、卓袱台の上の紙を見る。


とくさんを探しに行く。


昨日までなら、思いついた時点で走っていたかもしれない。

先生の部屋からコンビニへ走った時のように。

工場で相原が倒れた時のように。


あの時は、走らなければ間に合わなかった。


けれど、今日は違う。


見つけたあとに何をするのか。

雨の倉庫裏から連れ出せるのか。

病院へ行きたくないと言われたらどうするのか。

小野寺が店へ戻れなくなったら、今夜どこへ行くのか。


走るだけでは、どれも残ったままだ。


佐伯が病院へ電話を掛ける。


宮下の名前を伝え、少し待つ。


小野寺は、器を置き、膝の上で手を握った。

指先には、小さなひび割れがいくつもある。

レジに立っていただけではつかない汚れが、爪の間に残っていた。


陽介は聞いた。


今日、店の仕事は。


小野寺は、目を伏せる。


朝から入ることになってました。


連絡は。


してないです。


陽介の胸が少し痛んだ。


自分と同じだった。


行かなかった。

連絡しなかった。

その間に、来なくていいという文字が届いた。


小野寺は、制服の袋を見る。


連絡したら、戻れって言われるか、もう来るなって言われるかだと思って。

どっちも怖くて、まだ。


陽介は、自分の携帯を取り出した。


画面の中には、工場からの連絡が残っている。

佐伯と宮下に読んでもらった言葉。


来なくていい。

最後の金から引く。


俺は、先に来ました。


陽介は言った。


でも、何も言わないでいると、向こうが好きなように書くかもしれないって、佐伯さんが言ってました。


小野寺は、携帯を見た。


俺も、残した方がいいですか。


佐伯が電話を耳に当てたまま、振り返った。


うん。

店へ戻るかどうかを決める前に、昨日言われたことと、今日行けていないことは残した方がいい。


小野寺は、手元に紙を引き寄せた。


ボールペンを握る。


何を書けばいいですか。


陽介は、自分にはまだ教えられないと思った。

書ける文字は増えた。

けれど、誰かの出来事を正しく残す言葉は、まだ持っていない。


佐伯が電話を終えるまで、小野寺は白い紙の前で待った。


やがて、佐伯が受話器を置く。


宮下さん、来られるって。

病院を出るまで少しかかるから、橋の近くで待ち合わせる。

それから、小野寺君の話も、会って聞いてくれるそうだよ。


小野寺は、息を吐いた。


来るんですか。


来る。


佐伯は、小野寺の前へ座る。


それで、今書くのは、難しい言葉じゃなくていい。

昨日、何を言われたか。

今日、店へ行っていないこと。

自分が今、ここにいること。


小野寺は紙へ書き始めた。


陽介より速かった。

線は真っ直ぐで、字の形も整っている。


けれど、途中で何度も手が止まる。


昨日、店の裏で寝る代わりに、朝まで作業を手伝うよう言われた。

時間を聞いたところ、嫌なら出ていけと言われた。

本日、勤務予定であったが、店へ戻っていない。

現在、佐伯澄江宅にいる。


小野寺は、書き終えた紙を見つめた。


これ、店長が見たら、俺が悪く書いてるって思うかもしれないです。


佐伯は答えた。


悪く書くんじゃなくて、あんたが覚えていることを書くんだよ。

店長には店長の言い分があるかもしれない。

でも、あんたの言葉が最初からなかったことになったら、比べることもできない。


小野寺は、紙を畳まなかった。


陽介は、その字を見た。


自分より読める小野寺が、自分のことを書く時には手を震わせている。


文字を知っているだけでは、怖さはなくならない。


それでも、白い紙の上には、小野寺が昨日何を言われ、今どこにいるのかが残った。


千紘が言う。


小野寺、いる。


小野寺は、少しだけ笑った。


います。


佐伯は、三人分の上着を確認し、台所から小さな水筒を出した。

中へ熱い湯を入れる。


徳田さんが飲めるか分からない。

でも、持っていく。


千紘は、自分の水仙の紙と徳田の紙を袋へ入れる。


陽介は地図を持った。


袋の中には、青い本も灰色の海の絵も入れていない。

今日は佐伯の家の卓袱台に置いてきた。


濡らしたくなかったからだ。


その代わり、胸ポケットには名前の紙を入れた。


倉庫へ行く途中、橋の下を通る。


昨日の火は消えていた。


缶の中には灰だけが残り、湿った紙の端が黒く張りついている。

青いシートはあるが、妙子と正吾の姿は見えなかった。


千紘が立ち止まる。


いない。


陽介は辺りを見る。


昨日、名前を書いた二人。

まだいる人として残した二人。


姿が見えないだけで、胸がざわつく。


佐伯が言う。


今は徳田さん。

戻りに火のところも確認しよう。


陽介は頷いた。


名前が増えると、気になる場所も増える。

どこかで見えなくなっただけで、探したくなる。


それは苦しさでもあった。


けれど、知らなかった頃へ戻りたいとは思わなかった。


橋の上へ上がると、宮下が待っていた。


病院で見た淡い色の服の上に、濃い上着を羽織っている。

片手には大きな鞄を持ち、もう片方には折り畳みの傘がある。


千紘が先に駆け寄る。


宮下さん。


宮下は千紘の顔を見ると、少し安心したように笑った。


今日は千紘さんも一緒なんですね。


とくさん、探す。


はい。

話は聞きました。


宮下は陽介を見る。


地図、持っていますか。


陽介は紙を広げた。


昨日、老人が言った場所。

自分で描いた線。

佐伯が書いた、とくさん。

小野寺が書き加えた、徳田。


宮下は、地図を見て頷く。


この辺りですね。

見つけた時に具合が悪ければ、すぐに連絡します。

嫌がる場合でも、まず話をします。

無理に連れていくのではなく、今夜どうするかを一緒に考えましょう。


小野寺が小さく聞いた。


病院へ行かないって言われたら。


宮下は、小野寺を見る。


行かない理由を聞きます。

お金の不安なのか、過去に嫌なことがあったのか、名前を聞かれるのが怖いのか。

その上で、必要なことを一緒に考えます。


陽介は、先生が病院へ行こうとしなかった夜を思い出した。


病院へ行くにも紙が要る。

金の紙。

名前の紙。

何を払ってきたかの紙。


先生はそう言った。


徳田も、同じものを怖がるかもしれない。


宮下が、地図を指差す。


案内してもらえますか。


陽介は頷いた。


自分の描いた線を見ながら歩く。


川沿いの道を進む。

風が強くなる。

倉庫が並ぶ場所へ近づくと、海の匂いに、古い木と濡れた鉄の臭いが混ざった。


昨日、正吾が指差したのは、この先だった。


低い倉庫がいくつか並んでいる。

扉の閉まったもの。

壁の一部が剥がれたもの。

使われているのか分からない、錆びた建物。


倉庫の裏へ回る道は、泥でぬかるんでいた。


千紘の靴が沈む。

陽介が手を伸ばすと、千紘は一瞬ためらってから掴んだ。


小野寺は、先を見ていた。


こっち、店の廃棄を捨てに来る道です。


知ってるんですか。


たまに運ばされました。

でも、裏まで見たことはなくて。


小野寺の声が途切れた。


倉庫の壁際に、段ボールが積まれている。


その上に、濡れた毛布が掛かっていた。


毛布の下に、人の形がある。


千紘が陽介の手を強く握った。


陽介は足を速める。


徳田さん。


音が風へ持っていかれる。


もう一度、近くで呼ぶ。


徳田さん。


毛布が少し動いた。


そこにいた。


陽介は、膝から力が抜けそうになるのを堪えた。


消えていなかった。


小野寺が先にしゃがみ込む。


とくさん。

俺、店の小野寺です。


毛布の下から、枯れた声が出た。


ああ。


目が少し開く。


レジの、若いのか。


小野寺の顔が歪んだ。


はい。


徳田は、ゆっくり笑おうとした。


入ったのか。

俺の代わり。


小野寺は答えられなかった。


陽介は、徳田の顔を見る。


コンビニのバックヤードで、段ボールの上に寝かされていた老人。

赤い紙を見て、いいことが書いてある気がすると笑った人。


顔は、あの夜よりさらに痩せていた。

唇は乾き、毛布の端まで湿っている。


宮下が近くへ膝をつく。


徳田さん。

体調を見せてもらってもいいですか。


徳田の目が、宮下へ向く。


誰だ。


病院で、暮らしの相談をしている宮下と申します。

高瀬宗一さんのお知り合いの方から、ここにいるかもしれないと聞きました。


先生。


徳田の声が少しだけ変わる。


生きてるのか。


陽介が答える。


生きてます。

病院で、話せます。


徳田は、目を閉じた。


そうか。


その声には、安心なのか、悔しさなのか、陽介には分からないものが混ざっていた。


千紘が、袋から紙を出した。


とくさん。


徳田の目が少し開く。


私、名前分かった。

長谷川千紘。


徳田は、紙を見ることができているのか分からない。

けれど、千紘の声を聞いている。


それで、陽介と佐伯さんと小野寺が、とくさん書いた。


千紘は、徳田の字を見せる。


徳田は、しばらく動かなかった。


やがて、掠れた声で言った。


俺の、字か。


小野寺が頷く。


店で、荷物に書いてあるのを見ました。

徳田さん、ですよね。


徳田は、乾いた唇を動かした。


徳田、勝美。


かつみ。


陽介は繰り返した。


徳田勝美。


徳田は、小さく笑う。


まだあったか。

その名前。


陽介の胸が痛くなる。


自分の名前を、まだあったかと言う人がいる。


高瀬は、紙を読めても、自分の封筒を開けられなかった。

小野寺は、自分で名前を書けても、店の裏へ戻るか迷った。

徳田は、自分の名前がまだどこかに残っていることを、確かめるように聞いた。


宮下が水筒の蓋へ湯を注ぐ。


少し飲めますか。


徳田は首を横に振る。


病院なら、行かねぇぞ。


宮下は湯を差し出す手を止めなかった。


すぐ病院へ行く話だけをしに来たのではありません。

今夜、ここで過ごすのが危ない状態かもしれないので、まず話を聞かせてください。


徳田は笑う。


危ないも何も。

ずっとこんなだ。


コンビニでは、働いていたんですか。


宮下が聞く。


徳田の顔から笑いが薄れる。


置いてもらってた。


小野寺が俯く。


店長に。


あの人は悪くねぇ。


徳田は、思ったより強い声で言った。


凍えるところを入れてくれた。

食いもんもくれた。

俺が動けなくなっただけだ。


陽介は、やはりそうなのだと思った。


徳田も、店長を悪いとは言わない。

助けられた日の記憶がある。

その記憶が、自分が倒れたあとのことまで黙らせる。


宮下は否定しなかった。


助かったことがあったんですね。


徳田の息が少し落ち着く。


あった。


でも、倒れたあと、ここに戻ったんですか。


徳田は黙る。


小野寺が、震える声で言った。


店長は、辞めてもらったって言ってました。


徳田は、濡れた毛布の端を握る。


俺が、出たんだ。

迷惑かけるから。


誰に言われたんですか。


宮下の声は変わらない。


徳田はすぐには答えなかった。


言われたかどうかなんて、同じだべ。

動けねぇやつが、店の裏で寝てたら邪魔だ。


陽介は、工場で相原が倒れた床を思い出す。


そういうの見せながら働かれると、こっちが悪いみたいになる。


班長はそう言った。


怪我をした人間が、自分で手を隠した。

徳田も、自分で店から出たと言う。


誰かに直接追い出されなくても、いられないと分かるようにされることがある。


陽介は、紙を取り出した。


徳田さん。


老人の目が陽介へ向く。


俺、岡崎陽介です。


何だ。


陽介は、自分の名前を見せる。


俺、工場で働いてました。

相原信一さんって人が倒れて、救急車を呼んだら、俺も仕事なくなりました。


徳田は、陽介の紙を見る。


陽介は続ける。


でも、先生は病院で生きてます。

俺も、今、相談してます。

小野寺さんも、これから話すって決めました。


小野寺は顔を上げる。


決めたとは、まだ言ってない。


陽介は慌てて言い直す。


話してました。

宮下さんと。


徳田は、少しだけ息を漏らした。


真面目だな。


分からないんです。


陽介は言った。


何が正しいか、まだ。

でも、徳田さんがここでいなくなって、店では名前も知らないって言われるのは嫌です。


徳田の目が閉じる。


風が倉庫の裏を抜ける。

湿った段ボールが小さく震えた。


千紘が、徳田と書いた紙を握っている。


徳田は、長く黙ったあとに言った。


病院は、金取るべ。


宮下が答える。


その心配も含めて、相談できます。

今すぐ払えるかどうかだけで、何もしないと決めなくていいです。


名前、書かされる。


書くことはあります。

でも、何のための紙か、分からないままにはしません。

読んで説明します。

嫌なことは嫌だと言ってください。


徳田は、陽介を見る。


先生みてぇなこと言うな。


宮下は、少し笑った。


高瀬さんにも、同じような話をしました。


徳田の口元が、わずかに動く。


あいつが行ったなら。


その続きは、咳に変わった。


咳は深く、身体が段ボールの上で丸くなる。

小野寺が慌てて背中へ手を伸ばす。


徳田は振り払わなかった。


宮下は鞄から携帯を出す。


徳田さん。

救急の人に来てもらいます。

ここで無理に我慢する状態ではないです。


徳田は、息の間に言う。


帰って、こられるか。


陽介は、その問いを聞いた。


高瀬も、戻る場所を気にしていた。

徳田にも、帰る場所があるのか。


どこへですか。


小野寺が聞く。


徳田は、濡れた倉庫の壁を見る。


ここじゃねぇよ。


声が細くなる。


橋の下でもねぇ。

昔、部屋あったんだ。

海の見える。


陽介は息を呑む。


海。


徳田は目を閉じたまま続ける。


どこだったか、もう分からん。

紙もない。

でも、窓から水が見えた。


陽介は、自分の部屋の窓を思い出す。


灰色の海が見える部屋。

湿った布団の下から、昔の字が出てきた部屋。


徳田にも、海が見える部屋があった。


宮下が静かに言う。


病院で、探せることがあるか確認しましょう。

戻れるかどうかは分かりません。

でも、徳田さんがそういう場所を持っていたことは、今ここで聞きました。


徳田は返事をしなかった。


ただ、咳の合間に小さく頷いたように見えた。


宮下が連絡をする。


陽介は、その横で紙を広げた。


徳田。

勝美。


まだ書き方が分からない。


小野寺が、しゃがんだまま紙へ書く。


徳田勝美。


陽介は見ながら写す。


徳は相変わらず難しい。

勝も線が多い。

美は、千紘が横から形を追いながら、きれい、と小さく言った。


徳田は、咳が落ち着いた時にその紙を見た。


何だ。

上手いな。


小野寺が答える。


俺じゃなくて、陽介さんが写してます。


徳田は陽介を見る。


お前、字書けるのか。


少しだけです。


陽介は答えた。


前は書いてたみたいで。

忘れてました。


徳田は、薄く笑った。


忘れたもん、戻ることもあるんだな。


陽介は、書きかけの名前を見る。


戻る。


先生の部屋の扉の内側へ貼った文字。

自分の昔の冊子。

徳田が思い出した海の見える部屋。


戻れるものばかりではない。

同じ形で戻るものは、たぶん少ない。


それでも、戻ろうとするためには、覚えていることを誰かへ渡さなければならない。


遠くから、車の音が近づいてきた。


赤い光が、倉庫の濡れた壁へ反射する。


徳田の身体が少し強張る。


陽介は、徳田勝美と書いた紙を胸へ入れず、本人の見える場所に置いた。


徳田さん。


老人は目を開ける。


この紙、持っていきますか。


徳田は、紙を見る。


俺が。


自分の名前です。


徳田は、濡れた指を少し持ち上げた。

紙へ触れようとして、指が震える。


千紘が紙の端を持ち、徳田の手の下へそっと差し込んだ。


徳田の指が、紙の上に載る。


しばらくして、徳田は言った。


持つ。


千紘は、紙を徳田の毛布の上に置いた。


救急の人たちが倉庫の裏へ入ってくる。


宮下が状態を説明し、徳田の名前を伝える。


徳田勝美さん。


その名前が、風の中で声になった。


徳田は、目を閉じたまま聞いている。


担架へ移される時も、名前の紙は毛布の上に置かれていた。

隊員が落ちないように、透明な袋へ入れて胸元に載せてくれた。


陽介は、それを見た。


相原の時は、泥に濡れた紙だけが自分の胸に残った。

今日は、徳田本人が、自分の名前を持って運ばれていく。


同じ救急車でも、少し違う。


小野寺は、車の扉が閉まる直前まで、徳田のそばにいた。


徳田が、かすかな声で言った。


店、戻るのか。


小野寺は、答えに詰まる。


徳田は続ける。


戻っても、戻らなくても。

寝るとこだけは、床じゃねぇ方がいいな。


小野寺の目が赤くなる。


はい。


救急車の扉が閉じる。


今度のサイレンも、陽介は見送った。


相原の時のように、怒鳴り声の中で遠ざかる音ではなかった。

高瀬の時のように、間に合うか分からないまま追いかける音でもなかった。


名前を持って、生きている人間が運ばれていく音だった。


車が見えなくなったあと、倉庫の裏には濡れた段ボールだけが残った。


千紘が言う。


とくさん、病院。


陽介は頷く。


徳田勝美さん、病院。


小野寺が、その音を聞いて顔を伏せた。


宮下が小野寺へ声を掛ける。


小野寺さん。

ここから病院へ一緒に来られますか。

徳田さんのことだけではなく、あなたのことも話せます。


小野寺は、しばらく何も言わなかった。


制服の入った透明な袋を見下ろす。


その袋には、店へ戻るための服が入っている。

戻らなければ、働ける場所を失うかもしれない。

戻れば、また裏の段ボールへ眠ることになるかもしれない。


陽介は口を挟まなかった。


選ぶのは小野寺だった。


やがて、小野寺は袋を強く握った。


行きます。


宮下は頷いた。


分かりました。


店には。


小野寺の声が震える。


店には、自分で連絡します。

今日行けないこと。

病院で相談すること。

紙に残したいです。


陽介は、小野寺を見る。


小野寺は怖がっている。

顔が白く、指も震えている。


それでも、店の裏へではなく、宮下のいる方へ一歩動いた。


佐伯が小さく息を吐いた。


じゃあ、病院へ行こう。

私も行く。


千紘が言う。


私も。


宮下は少し困ったように笑った。


皆で行くと、待つ場所が狭くなりますね。


千紘は真剣に答える。


狭くても、いる。


陽介は、倉庫の裏に残った濡れた段ボールを見る。


誰もいない場所。

けれど、そこに徳田がいたことは、もう紙に残っている。


陽介は地図の紙を開いた。


倉庫の印の横に、佐伯へ教えてもらいながら書き足す。


徳田勝美。

病院。


少し離れた場所に、小野寺が自分の紙へ書いている。


徳田勝美、発見。

搬送。

自分、宮下佳織へ相談。


陽介にはすべて読めない。

けれど、小野寺が自分で書いていることは分かる。


千紘は、自分の水仙の紙の裏へ、ひらがなで書いた。


とくさん いた


佐伯が教えたのだろう。


陽介は、その短い文字を見る。


とくさんは、いた。


それが何より大事だった。


空はまだ灰色だった。


海の方から風が吹き、倉庫の壁に残った雨粒を落としていく。


陽介たちは、病院へ向かって歩き出す。


名前を書いた紙を一枚、本人が持って。

一枚を小野寺が持って。

一枚を千紘が持って。

一枚を陽介が持って。


同じ人の名前が、今度は一つの場所だけに置かれていなかった。

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