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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第二十九話 火の消えないうちに辿る線を

橋の下を離れる前に、陽介はもう一度、紙の上の線を確かめた。


川。

橋。

火を囲んでいた場所。

老人が指差した、倉庫の方角。


文字ではない。

地図と呼ばれたばかりの、曲がった線の集まりだった。


その端に、佐伯が書いた文字がある。


とくさん。


音だけが残っていた人の名だった。


陽介は紙を胸ポケットへしまおうとして、手を止める。

汗で湿った作業着の中へ入れれば、線が滲むかもしれない。


袋の中には青い本と、先生の部屋から持ち出した封筒がある。

そこへ地図の紙を重ね、折れないように本の表紙に沿わせた。


千紘が火の前から立ち上がる。


行かないの。


今からは行かない。


どうして。


陽介は、倉庫の方角を見る。


行きたい。

とくさんがそこにいるなら、名前を呼びたい。

コンビニで倒れたあと、誰にも尋ねられず、また外へ戻された人を見つけたい。


けれど、佐伯の言ったことも分かる。


自分だけで走ればいいわけではない。

小野寺が来るかもしれない。

先生の部屋のことも、宮下へ伝える紙もある。

そして、とくさんを見つけたとして、自分に何ができるのか分からない。


明るいうちに、大人と一緒に探す。


陽介は言った。


千紘は不満そうに橋の向こうを見る。


でも、寒い。


うん。


お腹も減ってるかもしれない。


うん。


今の陽介は、千紘へ大丈夫とは言えなかった。


大丈夫ではない人間を、何度も見てきた。

大丈夫だと言われて、段ボールの横へ寝かされた人もいた。

まだいいと言って、暗い部屋で息ができなくなっていた先生もいた。


だから、代わりに言った。


忘れない。

明日、探す。


千紘は紙の入った袋を見る。


とくさん、書いたから。


そう。

書いたから、探せる。


橋の下の老人が、火の向こうから言った。


倉庫の裏、風避けにはなるけど、雨は入るぞ。

行くなら、何か温いもん持ってけ。


佐伯は頷いた。


教えてくれてありがとう。

明日、見に行くよ。


中年の女は、燃えかけた紙を細い棒で寄せながら言った。


行くなら、役所だの病院だのの人間も連れてきな。

見つけても、ここへ戻すしかないなら同じだ。


その声に、責める調子はなかった。


長く、誰かを見つけてもどうにもできなかった人の声だった。


陽介は、袋を抱え直す。


宮下さんに話します。


女は陽介を見る。


名前は。


陽介は、一瞬分からなかった。


女は続けた。


あんた、名前ばっかり書いて歩いてるんだろ。

なら、私らのも書くのかい。


陽介は驚いて、佐伯を見る。


佐伯は何も言わなかった。

陽介が答えるのを待っている。


書いていいなら。


陽介は言った。


女は、火の中へ小さな紙片を落とした。


妙子。


みょうこ。


名字は、もう要らない。


陽介は返事に迷った。


名前を知ることは、その人が教えたいところまででいい。

小野寺の名前を勝手に動かしてはいけないと知ったばかりだった。


佐伯が紙へ書く。


妙子。


漢字。


陽介が聞くと、女は鼻で笑った。


忘れたよ。

子だけは、その子どもの子だった気がするけどね。


千紘が紙を覗き込む。


みょうこ。


女は頷く。


そう。

火のところにいる妙子。


老人が言う。


俺は、正吾。


しょうご。


こっちも名字はいらん。


佐伯は、別の行に書いた。


正吾。


陽介は、佐伯の文字の下へ写そうとした。


妙子。

正吾。


妙の字は難しく、最初の形から崩れた。

正吾の正は、三浦正志で見た形だった。


これ、知ってる。


陽介が声を漏らすと、老人が火の向こうで笑った。


俺の字、誰かにも入ってたか。


三浦正志さん。


工場の人か。


はい。


まだいるのか。


います。


陽介は答えた。


今日、初めて話しました。


正吾は、缶の火を見つめながら言った。


いるやつの名前も、書くようになったんだな。


陽介は鉛筆を止めた。


その言葉は、小さく胸へ入った。


最初は、消された人の名前を残したかった。


相原信一。

掲示板の黒い線の下にいた人。


けれど、今は違う。


小野寺直人。

佐伯澄江。

宮下佳織。

三浦正志。

長谷川千紘。

妙子。

正吾。


まだここにいる人間の名前が、増えている。


陽介は、歪んだ妙子と正吾の下に、小さく火の絵を描いた。


何それ。


千紘が聞く。


ここ。


橋の下。


字が分からなくても、火の場所で会ったことを残せるように。


妙子はその紙を見て、少しだけ笑った。


下手だねぇ。


すみません。


謝らなくていいよ。

火には見える。


その言い方が、千紘が陽介の海を海だと言った時に似ていた。


陽介は紙を袋へ入れた。


火から離れると、風の冷たさがすぐ身体へ戻ってきた。


春になりかけているはずなのに、川沿いの夜はまだ寒い。

雨は降っていない。

けれど空には重い雲が残り、街の明かりを低く押し返していた。


佐伯の家へ向かう道で、千紘は何度も後ろを振り返った。


火は、橋の柱に隠れるまで見えていた。


陽介。


何。


とくさん、明日いるかな。


いると言うことはできなかった。


それでも、紙の袋を抱えて答えた。


いるかどうか、見に行く。


千紘は黙って頷いた。


佐伯の家の前まで来ると、玄関脇に人影があった。


細い身体。

大きすぎる上着。

足元に、透明な袋。


陽介は足を止める。


小野寺さん。


呼ばれた男が、ゆっくり顔を上げた。


コンビニの制服ではなかった。

薄いパーカーの上に、黒い上着を羽織っている。

髪は雨ではなく、汗で額に貼りついていた。


小野寺は、手の中に折り畳んだ紙を持っている。


佐伯が駆け寄る。


仕事、終わったの。


小野寺は、力のない笑い方をした。


終わったっていうか。

出てきました。


陽介は、声が出なかった。


店の裏で寝る前に、佐伯のところへ来たのだと思った。

けれど、小野寺の足元の袋には、制服らしい布が丸めて入っている。


店、どうしたんですか。


陽介が聞く。


小野寺は、袋を見る。


店長に、裏で寝るなら朝まで品出し手伝えって言われて。


佐伯の顔が硬くなる。


寝かせる代わりに働けと。


小野寺は首を横へ振った。


俺が、そこで寝るなら何かしますって最初に言ったんです。

ただ、今日は、何時間になるのか聞いたら。


言葉が途切れる。


千紘が、小野寺を見上げている。


何て言われたの。


小野寺は、千紘へ答えるのを少し躊躇った。


嫌なら出ていけって。

余計な人に何か吹き込まれたのかって。


陽介の喉が乾いた。


店長は、自分たちが小野寺に話したことに気づいていたのだろう。


小野寺は、手の中の紙を開く。


佐伯が渡した住所の紙。

その裏側に、自分で書いた宮下佳織の文字。


何回か、店の裏で見ました。

戻るか、ここへ来るか決められなくて。


陽介は、小野寺の指を見る。


レシートの紙は、何度も開いて閉じたせいで、折り目が白く裂けかけていた。


それでも、捨てなかった。


佐伯が玄関の鍵を開ける。


入って。


小野寺は動かない。


でも、俺まで入ったら。


一晩だけだよ。


佐伯の声には、以前より疲れが混じっていた。


ずっと何とかできるなんて言えない。

でも、今夜また店へ戻る前に、宮下さんへ電話しよう。

そのために来たんだろ。


小野寺は俯いた。


分かりません。


それでいい。


佐伯は言った。


分からないままでも、寒い外で決めなくていい。


陽介は、病院で宮下に言われた言葉を思い出した。


どちらか一つを、今すぐ選ばなくてもいい。


自分だけに向けられた言葉ではなかった。


千紘が、小野寺の袋を見る。


パンある。


小野寺は少し驚いた。


店を出る時、廃棄持ってけって。

店長が。


透明な袋の中には、潰れたパンが三つと、期限の切れた弁当が一つ入っていた。


小野寺は言う。


最後まで、悪い人じゃないんです。


陽介は頷いた。


分かります。


本当に分かる気がした。


陽介も、工場へ乗せてもらった日には助かった。

相原も、働けることでその日を越えようとしていた。

とくさんも、コンビニに置いてもらえたことを喜んでいた。


何かを与えられた記憶があるから、奪われたものを数えるのが難しくなる。


佐伯は、小野寺の袋を見た。


そのパンも持って入ろう。

食べられるかどうかは見てからにする。


千紘が言う。


私、お粥食べたい。


佐伯はため息をついた。


人数が増えても、出せるものは大して増えないからね。


小野寺が慌てて言う。


俺、食べなくていいです。

パンあるんで。


陽介は、小野寺を見る。


俺も、最初そう言いました。


小野寺は黙る。


食べていいって言われても、本当に食べていいのか分からなかったです。


千紘が続ける。


でも、なくなったらまた炊くって言う。


佐伯が玄関の中から言った。


米があるうちはね。


その声に、ほんの少しだけ笑いが混じった。


小野寺は、ようやく靴を脱いだ。


玄関には、陽介の乾ききらない靴と、千紘の底の剥がれた靴がある。

そこへ、小野寺の濡れた運動靴が並ぶ。


三人分の靴が、佐伯の家の入口を狭くした。


居間へ入ると、小野寺は落ち着かない様子で周囲を見た。


卓袱台。

乾いた畳。

壁のカレンダー。

干された靴下。


特別なものはない。

けれど、店の裏の段ボールとも、陽介の湿った部屋とも違う。


佐伯はまず、電話を卓袱台の近くへ持ってきた。


病院に、まだ宮下さんがいるか聞く。

小野寺君、話すのは私からでいい。


小野寺は紙を握ったまま、しばらく迷っていた。


自分で、言います。


佐伯は受話器を持つ手を止めた。


言える。


分からないです。

でも、俺の話なので。


陽介は、小野寺を見た。


紙に名前を書くこと。

自分の口で音にすること。


どちらも、誰かに代わってもらうだけでは残らないものがある。


佐伯は病院へ電話を掛け、宮下に繋いでもらえるか尋ねた。


待っている間、小野寺は座らなかった。

卓袱台の前で、制服の入った袋を両手に持ったまま立っている。


やがて、佐伯が受話器を差し出す。


宮下さん。


小野寺は、受話器を受け取った。


もしもし。


声がひどく小さい。


陽介と千紘は、少し離れた場所で黙っていた。


小野寺は、何度か言葉を止めた。


小野寺直人です。

コンビニで働いていて。

今日、寝る場所がなくて。

店の裏に置いてもらう話だったんですけど。


言葉の途中で、手が震える。


佐伯が椅子を小野寺の背後へ置く。


小野寺は、ようやく座った。


働くのを辞めたいわけではないです。

店長にひどいことされたって言いたいだけでもなくて。

でも、このまま裏で寝て、ずっと働くのが、いいのか分からなくなって。


電話の向こうで、宮下が話す。


小野寺は黙って聞く。


はい。

はい。


何度か頷く。


今夜は、知り合いの家にいます。

佐伯さんの。


陽介は、自分たちが小野寺の知り合いになったのだと、その時初めて知った。


高瀬の知り合い。

佐伯の家にいる人。

千紘と同じ卓袱台を囲もうとしている人。


名前を知ったあと、関係にも少しずつ形がついていく。


小野寺は受話器を置いた。


顔を伏せたまま、しばらく何も言わない。


佐伯が聞く。


どうだった。


明日、病院で話してくれるって。

仕事のことも、寝るところのことも。


よかった。


千紘が言う。


小野寺は、笑わなかった。


怖いです。


声が掠れていた。


明日、店に戻れなくなったら。

店長が、もう来るなって言ったら。

俺、何もなくなる。


陽介は、自分の携帯を思い出した。


工場から来た文字。

明日から来なくていい。

最後の金から引く。


怖くないとは言えない。


だから、陽介は胸ポケットから紙を出した。


自分の名前と、工場から消されたことを残すための紙。

その端に、小野寺直人と相談が書いてある。


俺も、なくなりました。


小野寺は紙を見る。


仕事。


はい。


でも、先生は生きてました。

俺の部屋の紙も、宮下さんに見てもらいました。

まだ何も決まってないけど、全部なくなったままじゃないです。


小野寺は、陽介の紙を長く見ていた。


陽介の字は、まだ整っていない。

小野寺なら、もっと上手に読めるのだろう。


けれど、小野寺は読まずに言った。


俺の名前、そこにあるんですね。


あります。


陽介は答えた。


まだいる人として。


小野寺は顔を伏せたまま、目元を腕で拭った。


千紘が、自分の水仙の紙を小野寺の前へ置く。


これ、今日分かった。


小野寺は紙を見る。


水仙。


うん。

外に咲いてた。


綺麗ですね。


千紘は少し考えてから言う。


名前分かったから、明日も見つけられる。


小野寺は、紙の黄色い花を見つめた。


陽介は、袋の中からもう一枚の紙を取り出した。


橋の下で書いた地図だった。


佐伯さん。

宮下さんに、もう一つ話さないと。


佐伯が振り向く。


とくさん。


小野寺の身体が動いた。


何ですか。


前にコンビニにいたおじいさん。

橋の下では、とくさんって呼ばれてたみたいです。


小野寺の顔が強張る。


生きてるんですか。


昨日、倉庫の裏で見た人がいるって。

明るいうちに、探しに行こうって話してました。


小野寺は、立ち上がりかけた。


今、行きます。


佐伯が止める。


暗い。

場所もはっきりしない。

あんたも一日働いて、今ここへ来たばかりだよ。


でも。


見つけても、あんた一人で何ができる。


佐伯の言葉は冷たくなかった。

だからこそ、小野寺はその場で動けなくなった。


陽介は地図を卓袱台へ広げる。


明日、宮下さんに伝えて。

一緒に行ける人を探します。


小野寺は、地図を見る。


曲がった橋の線。

火の印。

倉庫の位置。

その横に書かれた、とくさん。


小野寺は、自分の制服の袋からボールペンを取り出した。


その紙の端へ、文字を書く。


徳田。


陽介は息を止めた。


知ってるんですか。


一回だけ、店長が荷物の袋に書いてたのを見ました。

下の名前までは分からないです。

皆、店では爺さんって呼んでて。


小野寺は、徳田と書いた文字を見る。


とくだ。


とくさん。


音と文字が、初めて繋がった。


陽介は、小野寺の書いた字を見ながら、自分の紙へ写した。


徳。

田。


徳は難しかった。

何度写しても、途中で線が絡む。


田は、四角の中に線を入れる形だった。

岡の中の形と少し似ている気がした。


千紘が言う。


とくださん。


小野寺は小さく頷く。


たぶん。


たぶんでも、形が増えた。


火のところにいた、とくさん。

コンビニで倒れた老人。

徳田と書かれていた人。


明日、探すための手掛かりが一つ増えた。


佐伯は、もう一度電話の受話器へ手を伸ばす。


宮下さんに、伝言だけでも残す。

明日、とくさんを探すこと。

小野寺君も知っている名前があること。


陽介は頷いた。


台所では、鍋の水が沸き始めていた。

佐伯が火にかけたままだったものだ。


湯気が上がる。


千紘が言う。


燃やさなくていい火。


小野寺が、千紘を見る。


何。


ここ、紙を燃やさなくても温かくなる。


千紘は当然のように言った。


小野寺は、卓袱台の上の紙を見る。


自分の名前。

宮下佳織。

とくさん。

徳田。

水仙。


そして、陽介が描いた橋と倉庫までの線。


紙は一枚も燃やされていない。


佐伯が鍋の中へ米を入れた。


今日は量が少ないから、かなり薄いよ。


千紘が答える。


温かければいい。


陽介は、小野寺の前へ箸を置いた。


小野寺は、まだ信じきれない顔でそれを見る。


食べてください。


陽介が言う。


俺も、昨日ここで食べました。


小野寺は、短く頭を下げた。


ありがとうございます。


佐伯が台所から言う。


礼は食べてから。

食べない人の分まで炊いたら、それこそ勿体ない。


少しだけ、部屋の空気が緩んだ。


外では、雨が降り始めていた。


橋の下の火は、まだ消えていないだろうか。

倉庫の裏で、とくさんは雨を避けられているだろうか。

病院の白い布団で、高瀬は眠れているだろうか。


陽介は、紙の上の地図を見る。


明日、線の先へ行く。


今度は一人ではない。


小野寺が書いた徳田という字を持って。

佐伯が繋ぐ電話を持って。

千紘が覚えた名前を持って。


温かい湯気が、紙の上をわずかに曇らせる。


陽介は慌てて地図を少し離した。


濡らさないように。


そう言うと、小野寺が初めて、ほんの少し笑った。


その笑いは、店の明かりの下で浮かべていた困った笑いとは違っていた。


夜はまだ寒い。


けれど、佐伯の狭い部屋には、戻る場所を探している名前が四つあった。

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