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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第二十八話 灯りを消した店から名前を持って

病院を出ると、夕方の風が花壇の水仙を揺らしていた。


千紘は、病室で書いた紙を胸の前に持っている。

黄色い花の絵。

その下に、何度もなぞった水仙という文字。


陽介の袋の中には、灰色の海を描いた紙が入っていた。


まだ上手には描けない。

波にも、空にも見える線が何本か並んでいるだけだった。


それでも、千紘は海だと言った。

高瀬も、眠る前にその紙を見ていた。


昔の自分が描いた海は、湿った冊子の中でまだ開かない。

けれど、今日の自分が描いた海は、紙の上に乾いたまま残っている。


佐伯が病院の入口で立ち止まった。


今日は、このまま帰るよ。

暗くなる前に、何か食べるものを買わないと。


千紘がコンビニの方角を見る。


小野寺。


陽介も同じことを考えていた。


小野寺直人は、今日の夜、店の裏で眠ると言っていた。

老人が倒れ、いなくなったあとに残った段ボールの近くで。


病院で宮下の名前は伝えた。

小野寺が自分で相談したいと思った時、話を聞ける人がいることも確認した。


けれど、紙に書いただけで、小野寺の夜が暖かくなるわけではない。


佐伯が二人の顔を見る。


寄るの。


陽介は頷いた。


紙、渡しただけで終わりにしたくないです。


佐伯は少しだけ目を伏せた。


会って、どうする。


陽介は答えられなかった。


佐伯の部屋へ連れていけるのか。

宮下にすぐ繋げられるのか。

店長に何か言えるのか。


何も決まっていない。


それでも、小野寺が自分で書いた宮下佳織という名前を、制服のポケットに入れたまま、店の裏へ消えていくのを見ないふりはできなかった。


分かりません。


陽介は正直に言った。


でも、まだいるか確かめたいです。


佐伯は、しばらく陽介を見た。


それから、病院でもらった紙の束を鞄へ入れ直す。


じゃあ、寄ろう。

ただし、こっちで勝手に小野寺君のことを決めない。

話すなら、本人に聞く。


陽介は頷いた。


名前を知ることと、名前を使うことは違う。


さっき、公衆電話の前で気づいたことだった。


電車へ乗る。


陽介は、窓の外を眺めながら、自分の紙を開いた。


水。

海。

水仙。

岡崎陽介。


病院で増えた文字は、今までのものより柔らかく見えた。


けれど、紙の端には別の名前もある。


小野寺直人。

相談。


あの文字はまだ途中だった。

書かれただけで、誰かへ渡されたわけではない。

小野寺自身が、そこへ向かうかを決めなければならない。


千紘が窓へ額を近づける。


海、見える。


遠くに灰色の水があった。


陽介は、自分の描いた海を思い出す。


似てる。


千紘が言う。


何が。


陽介の海。


陽介は外を見る。


本物の海は、紙よりずっと広かった。

濁っていて、空と溶け合い、どこからどこまでが水なのかも分からない。


けれど、揺れている線だけは、自分の紙に似ていた。


駅を降りると、すでに空は暗くなり始めていた。


濡れた道路に、店の明かりが映っている。

コンビニの白い灯りは、遠くからでもすぐに見つけられた。


入口の横には、赤い文字の求人の紙がまだ貼られている。


陽介は、紙を見る。


少しずつ文字が増えているのに、この赤い紙の大きな文字はまだ読めない。


小野寺は読めると言っていた。


読んで、それでもこの店へ入ったのだろうか。

読めたからこそ、働ける場所だと思ったのだろうか。


自動ドアの向こうに、小野寺の姿があった。


レジには客が並んでいる。

小野寺は一人で商品を通し、袋へ詰め、頭を下げていた。


店長の姿は見えない。


陽介たちは店の外で待った。


客が途切れるまで、声を掛けなかった。


しばらくして、小野寺が窓越しに気づいた。


一瞬だけ目が合う。

すぐに視線を外し、レジの下へ何かを置いた。


昨日、自分で書いた宮下の名前の紙だろうか。

陽介には見えなかった。


自動ドアが開く。


小野寺が、商品補充用の空箱を抱えて外へ出てきた。


店長に見つからないようにしているのか、裏口の方へ運びながら、小さく声を掛ける。


高瀬さん。


陽介は歩み寄る。


今日も会えました。

先生、生きてます。

少し話せるようになってました。


小野寺の顔に、昨日と同じように、力が抜ける瞬間があった。


よかった。


陽介は袋から、灰色の海を描いた紙を少しだけ見せた。


先生に、また文字教わりました。


小野寺は紙を見る。


海。


読めるんですか。


小野寺は頷いた。


その字は。


陽介は、自分の描いた線の下に書いた海を見た。


俺も、読めます。


口にすると、胸の奥が少し熱くなった。


小野寺は、何かを言おうとして止めた。

代わりに、抱えていた空箱を裏口の脇へ置く。


その場所には、潰れた段ボールが重なっていた。


老人が眠っていた場所。

今夜、小野寺が眠ろうとしている場所。


佐伯が、小野寺の横へ立つ。


宮下さんに確認したよ。


小野寺の肩が少し固くなる。


本人が相談したいと思った時は、話を聞いてもらえる。

ただ、私たちから勝手に何かを進めることはしてない。


小野寺は、俯いた。


ありがとうございます。


制服のポケットへ手を入れる。


取り出したのは、小さなレシートの裏紙だった。

そこには、以前よりはっきりした字で、宮下佳織と書かれている。


何度か書き直したらしい。

裏面のあちこちに、薄く同じ形が残っている。


陽介は、その紙を見る。


小野寺さん、自分で書いたんですね。


一回だと、忘れそうで。


小野寺は、少し恥ずかしそうに言った。


陽介は胸ポケットへ手を当てた。


自分も同じだった。

名前を一度知っただけでは、また見失いそうになる。

だから書く。

何度も、紙に残す。


佐伯が聞く。


電話する。


小野寺は、すぐには頷かなかった。


裏口の段ボールを見る。

明るい店内を見る。

自動ドアの向こうには、客が一人、商品を持ってレジの前で待っている。


小野寺が言う。


俺、ここ辞めたら、本当にどこもないんです。


佐伯は頷いた。


分かってる。


相談したら、辞めろって言われるんですか。


言われるとは限らない。

働き続けながら、眠る場所や、受け取る金のことを話す方法もあるかもしれない。

そこは、私が決めることじゃない。


小野寺はレシートの紙を握った。


店長、悪い人ってわけでもないんです。


陽介は黙って聞いた。


店長が、廃棄のパンくれた日があって。

最初にここへ来た時、裏でいいなら寝てもいいって言ってくれて。

俺、あの時、本当に寒かったから。


小野寺の声は、言い訳ではなかった。


助けられた記憶を、無理に悪かったことへ変えたくないだけなのだろう。


陽介は、コンビニの老人のことを思い出す。


橋の下から店へ入り、寝る場所があると喜んでいたという老人。

店長を、いい人だと言っていた老人。


善いことと、悪いことは、同じ人間の中に一緒にあるのかもしれない。


だから余計に、この街では誰も声を上げられない。


少しでも助けてもらった人間は、その後どれほど削られても、悪いと言う資格がないように思わされる。


陽介は言った。


俺も、工場が全部悪いって思ってたわけじゃないです。


小野寺が顔を上げる。


仕事なかった時、乗せてもらって。

封筒も、一応もらって。

それで食べた日もあったんで。


陽介は、自分の黒く消された名前を思い出す。


でも、相原さんが倒れた時、助けなかったです。

俺が話したら、俺が悪いみたいになりました。

助かったことがあっても、それで全部黙らないといけないわけじゃないと思います。


言い終えると、自分の手が震えているのが分かった。


小野寺は、長い時間黙っていた。


自動ドアの向こうで、待っていた客がレジ台を指で叩いている。


店長の声が奥から飛んできた。


小野寺。

何やってんだ。


小野寺は店の中を見る。


今までなら、すぐに戻ったのだろう。


今日は、レシートの紙を制服のポケットへしまう前に、もう一度見た。


それから佐伯へ言う。


電話、店終わってからでもいいですか。


佐伯は頷いた。


いいよ。

何時に終わる。


小野寺は苦笑した。


分からないです。

終わるって言われるまで。


陽介の胸が痛んだ。


終わる時間すら、自分で分からない仕事。

それを仕事と呼んでいいのか、今の陽介には判断できない。

けれど、高瀬なら、その言葉を紙の上で確かめようとするだろう。


佐伯は手帳から紙を一枚破った。


自分の住所と、名前を書いた。


今夜、仕事が終わって、店の裏に寝る前に。

来られそうなら、ここへ来て。

遅くても、戸を叩いて。


小野寺は紙を受け取らなかった。


でも、そこには。


陽介と千紘もいる。

狭いから、ずっとは無理。

今夜全員が寝られるとも言えない。


佐伯は、はっきり言った。


でも、電話する間に立っていられる場所と、温かい水くらいはある。


小野寺は、佐伯の紙を見る。


差し出されたものが、寝床でも仕事でもなく、考えるまでの時間であることを確かめているようだった。


ようやく、小野寺は紙を受け取った。


ありがとうございます。


店長の声が、もう一度響く。


小野寺!


小野寺は、今度こそ店内へ戻る。


自動ドアが閉まる。


店長が何かを言っている。

小野寺は何度も頭を下げ、それからレジへ走った。


佐伯は、しばらくガラスの向こうを見ていた。


来ると思いますか。


陽介が聞く。


分からない。


佐伯は答えた。


来ないかもしれない。

店の裏の方が、まだ自分の場所だと思うかもしれない。

相談したら、今あるものまでなくなると思うかもしれない。


千紘が言う。


来てほしい。


佐伯は千紘の頭へ軽く手を置いた。


そうだね。


陽介は、店の入口に貼られた赤い紙を見る。


今度、小野寺に読んでもらいたいと思った。

そこに何が書いてあり、小野寺が何を見てこの店へ入ったのか。


けれど、それは今ではない。


今夜、小野寺がどこで眠るのかを、自分の意思で選べるかどうか。

まずはそれだけだった。


三人は佐伯の家へ向かった。


途中、橋の近くを通る。


川の音が聞こえる。

春の水はまだ濁っている。


橋の下に、小さな火が見えた。


陽介は足を止める。


青いシートの間に、歯の少ない老人と、中年の女が座っている。

以前と同じように、缶の中で紙が燃えていた。


千紘が言う。


あそこ、行く。


佐伯は陽介を見る。


陽介も、橋の下を見た。


小野寺のことを考えた直後だったからか、以前より火が小さく見えた。


階段を下りる。


老人が陽介に気づく。


おお。

先生の若いの。


陽介は火の前へ立つ。


先生、生きてます。


老人は目を細めた。


そうか。


病院にいます。

戻るって言ってます。


中年の女が、火へ細い紙をくべながら言う。


戻る場所、残ってりゃいいけどね。


残します。


陽介は言った。


声が、思っていたより強く出た。


女は陽介を見る。


そうかい。


それ以上は言わなかった。


千紘が火の近くへ座る。


女が気づく。


あんた、名前分かった顔してるね。


千紘は胸を張るように紙袋を抱えた。


長谷川千紘。


女は少し驚き、それから笑った。


立派だ。


千紘は紙袋から、水仙の絵を取り出す。


これも、名前分かった。

たぶん、水仙。


老人が覗き込む。


花か。


うん。


火の明かりに、千紘の黄色い花の絵が照らされた。


橋の下で燃えている紙のそばに、燃やさない紙が一枚置かれる。


陽介は、中年の女を見る。


前に、コンビニで働いてたおじいさん、ここにいたって言ってましたよね。


女の手が止まる。


ああ。


名前、知ってますか。


女は少し考えた。


名前ねぇ。


老人が缶を抱えたまま、低く言った。


とくさん。


陽介は老人を見る。


皆、そう呼んでた。


とくさん。


苗字か、名前かは知らん。


中年の女が続ける。


紙に書く名前かどうかも分からない。

けど、ここじゃ、とくさんだった。


陽介は胸ポケットから紙を出した。


とくさん。


文字で、どう書くの。


陽介は答えられない。


音だけです。


老人が笑う。


音だけでも、呼ばれたら振り向くべ。


陽介は、その言葉を聞いた。


相原の名前を知った時、音だけでも男ではなくなった。

そのあと先生に文字を教わり、形として残した。


とくさんには、まだ形がない。


けれど、音をなくさないことから始めればいい。


陽介は、ひらがなをまだ書けなかった。


佐伯を見る。


佐伯は紙へ書いた。


とくさん。


丸みのある、小さな文字だった。


陽介は、その形を見る。


以前、先生の部屋で見た表に並んでいた形に似ている。

漢字とは違う。

けれど、音をそのまま置ける文字らしい。


これなら、書けるかもしれない。


陽介は佐伯の字の下へ、ゆっくり写した。


と。

く。

さ。

ん。


一つずつ、曲がった線を置く。


漢字の名前より簡単なはずなのに、慣れない丸みで手が止まる。

千紘が隣から覗く。


とくさん。


読めるのか。


佐伯さんが言ったから。


相原の時と同じだった。


形だけでなく、誰のことを書いているのか知っているから読める。


陽介は、書いたばかりの文字を見る。


とくさん。


コンビニからいなくなった老人。

名前を知られず、手伝いだったことにされかけている人。


どこにいるか、分かりますか。


陽介が聞くと、老人は火を見たまま言った。


昨日、向こうの倉庫の裏で見たやつがいる。

動けるかは知らん。


倉庫。


陽介の胸が強く鳴った。


死んだとも、消えたとも決まっていない。


探しに行けますか。


千紘がすぐに言った。


佐伯は空を見た。


暗くなる。

雨もまた来るかもしれない。


陽介は、小野寺が来るかもしれない佐伯の家を思い出す。

先生の部屋。

自分の紙。

とくさん。


全部を今すぐ追うことはできない。


佐伯が言った。


今日は場所を聞いて、宮下さんにも伝える。

陽介、今あんたが一人で行って倒れたら、また探す人が増えるだけだよ。


陽介は拳を握った。


分かりました。


そう答えることができたのは、以前の自分とは違う気がした。


助けたいと思っても、一人で全部を抱えない。

動く前に、誰かと繋ぐ。


それも、病院で知ったことだった。


老人は、倉庫のある方角を指で示した。


陽介は紙の端へ、分かるように線を描く。

橋。

川。

火。

倉庫の位置。


文字ではない。


けれど、道を残すための絵だった。


千紘が隣で言う。


地図。


陽介は顔を上げる。


地図っていうのか。


佐伯が頷いた。


場所を忘れないための絵だね。


陽介は、地図という音を覚えた。


海を描くためだけではなく、誰かのいる場所を探すためにも絵は使える。


火の向こうで、老人が咳をした。


陽介は、紙を畳まなかった。

墨が乾くまで、両手で持っていた。


川の音が、橋の下に響いている。


名前が分かった人。

名前が音だけ残っている人。

まだ店の中で働いている人。

病院で生きている人。


今夜、誰も同じ場所にはいない。


けれど、陽介の紙の上では、少しずつ線が繋がり始めていた。

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