第二十六話 湿った布団の下に昔の字を
工場を離れてから、自分の部屋までの道がやけに長く感じた。
毎日歩いていた道だった。
朝は腹を空かせたまま通り、夜は身体の重さだけを引きずって戻った。
道の角に何があるのか、陽介はほとんど知らなかった。
今日は、看板が目に入る。
閉じた店のシャッターに貼られた紙。
電柱に巻かれた古い広告。
集合住宅の入口にある、濡れて端の剥がれた案内。
どれもまだ読めない。
けれど、そこに誰かの都合や、誰かの暮らしや、誰かが消えた理由が書かれているかもしれないと思うと、見ないまま通り過ぎることが難しくなった。
千紘は、佐伯の手を握ったまま歩いていた。
途中で何度も自分の紙袋を確かめる。
中には、長谷川千紘と書かれた紙が入っている。
陽介は胸ポケットを押さえた。
相原信一。
高瀬宗一。
小野寺直人。
佐伯澄江。
三浦正志。
岡崎陽介。
それぞれの名前が、折り重なるように入っている。
自分の部屋がある集合住宅へ着く。
建物は、出てきた時と何も変わっていないように見えた。
灰色の壁。
錆びた階段。
雨のあとに湿ったままの共同廊下。
入口の脇には、隣室から出された黒い袋がまだ積まれていた。
昨日、陽介が部屋番号だけを書き残した袋。
三。
〇。
二。
袋の口から見えていた赤い封筒は、もうなかった。
誰かが押し込んだのか、持っていったのか分からない。
千紘が黒い袋を見る。
これ、誰の。
隣にいた人のです。
佐伯が聞く。
知ってる人。
陽介は首を横へ振った。
名前、知らないです。
咳だけ聞こえてました。
言ってから、陽介は自分の言葉が変だと思った。
人のことを、咳でしか知らなかった。
毎晩壁越しに聞こえていたのに、名前を聞こうとしたことはない。
静かになった夜には、眠りやすいとさえ思った。
千紘が袋の近くへ寄る。
名前、ないの。
陽介は答えられなかった。
佐伯が、袋の上に置かれた小さな紙片を拾った。
何かの領収書らしかったが、雨で文字が大きく滲んでいる。
名前までは読めないね。
佐伯は元の場所へ紙を戻した。
陽介は、胸の中にまた何かが残るのを感じた。
名前を知れなかった人。
相原のように書き残すこともできない。
高瀬のように戻ると書くこともできない。
ただ、三〇二という数字だけがある。
陽介は、紙を取り出した。
佐伯が見ている。
書くの。
陽介は頷く。
名前、分からないから。
三〇二の人ってだけでも。
鉛筆で、紙の端に数字を書く。
三〇二。
咳をしていた人。
咳という字は書けなかった。
佐伯に聞くと、佐伯は少し迷ったあと、大きく書いてくれた。
咳。
難しい形だった。
陽介は完全には写せず、途中で線が崩れた。
けれど、三〇二の横に、何かを書こうとした跡は残った。
千紘が言う。
あとで先生に見てもらう。
陽介は頷いた。
自分の部屋は、三階の端にある。
階段を上る。
途中、二階の踊り場に水が溜まっていた。
天井から落ちる雫が、同じ場所を何度も打っている。
以前は、その音を気にしたことがなかった。
三階まで来ると、陽介は自分の扉を見る。
白い紙は貼られていなかった。
赤い文字もない。
高瀬の部屋の扉を見たあとだったので、何も貼られていないことが、かえって不自然に思えた。
まだ、何も決まっていないのか。
それとも、扉ではなく部屋の中に紙が届いているのか。
陽介は鍵を出した。
鍵穴へ入れる手が、少し震える。
扉を開ける。
湿った空気が流れてきた。
部屋は、朝出た時のままだった。
濡れた布団。
黄ばんだ天井。
小さな台所。
何も入っていない冷蔵庫。
窓は閉まっているのに、海の匂いが染みついている。
千紘が部屋へ入って、周囲を見る。
陽介の家。
家。
そう言われると、陽介は何となく居心地が悪かった。
家という音には、佐伯の部屋のようなものを思い浮かべる。
温かい粥の匂い。
乾いた畳。
名前を書ける紙のある卓袱台。
ここには、食べ物も灯りも、待っている人もいない。
あるのは、自分が倒れずに横になるための場所だけだった。
佐伯は玄関脇に積まれた封筒を見る。
これ、確認しよう。
陽介は頷く。
机の上にも、床にも、郵便受けから持ってきたままの紙が散らばっていた。
以前の陽介にとって、封筒は色でしか違わなかった。
赤いもの。
白いもの。
薄茶色のもの。
中に何が書かれているのか分からないので、開ける理由がなかった。
佐伯は、一枚ずつ拾い上げる。
電気の支払い。
これは、止まる前の通知。
陽介は天井の裸電球を見る。
紐を引く。
灯りはつかなかった。
いつから止まっていたのか、陽介は正確に覚えていない。
暗くなれば寝ればよかった。
携帯の画面が少し光るので、困るというほど困らなかった。
佐伯は次の封筒を見る。
水道。
まだ止まってはいないみたいだけど、支払いが残ってる。
陽介は台所を見る。
蛇口から水が出ることを、当たり前だと思っていた。
赤茶けた水でも、少し待てば透明になる。
それすら、もうすぐ出なくなるのかもしれない。
次の紙。
家賃の催促。
佐伯の声が少し低くなった。
陽介は、聞き慣れない音を繰り返す。
さいそく。
払ってくださいって、何度も知らせる紙。
俺も、部屋なくなりますか。
千紘が陽介を見る。
佐伯は、紙の束を見ながら答えた。
今すぐかどうかは分からない。
でも、何もしなければ、高瀬さんの部屋と同じようになる可能性はある。
陽介は部屋の真ん中に立った。
高瀬の部屋には、本があった。
文字があった。
机があった。
この部屋には、何があるのだろう。
濡れた布団。
空の冷蔵庫。
払えない紙。
捨てられて困るものが、あるのか分からなかった。
千紘が窓際へ行く。
海、見える。
陽介は振り向く。
窓の向こうには、建物の間から細く灰色の海が見えていた。
晴れていないので、空との境目は曖昧だった。
それでも、確かに海だった。
先生に教わった字。
海。
陽介は、青い本を袋から取り出した。
ページを開く。
大きく書かれた、海という字。
窓の外の灰色の水と、紙の上の黒い形を交互に見る。
ここにも、ある。
千紘が言った。
何が。
海。
陽介は頷いた。
この部屋から見えるものに、初めて名前がついた。
それだけで、空っぽだと思った部屋の中に、何か一つ残したいものができた気がした。
佐伯は、封筒の束を分けていた。
これは持っていく。
家賃と、水道と、電気。
それから、工場の紙があれば全部。
工場の紙。
陽介は、押し入れの下を見た。
何かをしまった記憶はない。
けれど、受け取った封筒を投げ入れたことはあった。
布団を動かす。
湿気で重くなった敷布団が、畳へ張りつくようにしていた。
持ち上げると、酸っぱい臭いが部屋へ広がる。
千紘が鼻を押さえた。
くさい。
陽介は恥ずかしくなった。
ごめん。
何で謝るの。
千紘は本当に分からない顔をしている。
佐伯が言った。
謝ることじゃない。
干せる日がなかっただけでしょ。
陽介は答えなかった。
干すということを考えたことがなかった。
朝は工場へ行き、夜は布団へ倒れる。
濡れていれば、そのまま身体の熱で温めた。
布団の下には、紙が何枚か貼りついていた。
湿気を吸い、端が波打っている。
陽介は一枚を剥がす。
薄茶色の封筒だった。
工場でもらったものに似ている。
佐伯へ渡す。
給与の紙だね。
何ヶ月分もありますか。
佐伯は、床に貼りついた紙を一枚ずつ剥がす。
ある。
でも、読めないところもある。
水で滲んでる。
陽介は、指先に残った紙の繊維を見る。
自分が捨てたつもりもなく、残したつもりもなかった紙。
ただ布団の下で湿り、読めなくなりかけていた紙。
ここにも、自分の時間があった。
朝から夜まで運んだ箱。
軽い封筒。
空腹。
帰れば眠るだけの日。
その一日ずつが、紙の上では滲んでいる。
陽介は、床の奥にもう一枚、違う紙があることに気づいた。
給与の封筒より厚い。
端に青い色が残っている。
引っ張ると、畳に貼りついていた部分が破れそうになった。
待って。
佐伯がしゃがみ込み、ゆっくり剥がす。
出てきたのは、小さな冊子だった。
表紙はふやけ、角が丸く崩れている。
青い線と、色の褪せた絵が描かれていた。
陽介はそれを見た。
知らないはずなのに、どこかで見たことがある気がした。
佐伯が表紙の汚れを指で払う。
これは、学校のものじゃないかな。
学校。
陽介は冊子を受け取った。
ページを開く。
最初の数枚はくっついている。
無理にめくれば破れる。
佐伯が布巾を持ってきて、紙の間を少しずつ離す。
開いたページには、大きな文字が並んでいた。
海の本に似ている。
子どもが形をなぞるための紙。
線の上に、濃い文字。
その下に、薄い鉛筆の跡。
陽介は息を止めた。
自分で書いたものかどうかは分からない。
けれど、子どもの手で何度もなぞられた文字がある。
あ。
い。
う。
丸く、震えた線。
次のページをめくる。
紙の上の方に、佐伯にもらった紙で見覚えのある形があった。
岡崎陽介。
陽介の指が止まる。
これ。
佐伯が覗き込む。
あんたの名前だね。
書いてある。
陽介の声が出にくくなった。
自分の名前が書かれている。
先生に教わるずっと前の紙に。
その下には、歪んだ鉛筆の文字が並んでいた。
最初の岡は、ほとんど四角の塊だった。
崎は途中で崩れている。
陽は、今の陽介が書くよりも線が少ない。
介だけは、かろうじて形が分かる。
陽介は、紙を両手で持った。
俺、書いてたんですか。
佐伯は答えなかった。
答えられないのだろう。
千紘が隣へ座る。
陽介、前から名前あった。
陽介は頷くこともできない。
名前があったことは知っている。
人に呼ばれる音として、自分には陽介があった。
けれど、文字としての自分の名前は、先生に教わるまで知らなかった。
知らなかったのではない。
忘れていた。
そのことに気づいた瞬間、部屋の中の湿った臭いが急に強くなった。
昔、自分は文字をなぞった。
名前を書こうとした。
学校という場所に行ったのかもしれない。
誰かがこの冊子を持たせたのかもしれない。
それが、いつからなくなったのか。
読めないことが普通になったのは、いつからなのか。
工場へ行き始めてからなのか。
それより前からなのか。
母親がいなくなった頃なのか。
思い出そうとしても、頭の中には灰色の水みたいなものしかない。
千紘が、冊子の次のページを指差す。
これ、何。
そこには、子どもの字ではない、少し整った文字が書かれていた。
佐伯が読む。
よく書けました。
陽介くんは、海の絵を描くのが好きです。
海。
陽介は窓の外を見る。
灰色の水。
先生に教わって、初めて形を知ったと思っていたもの。
けれど昔の自分は、海の絵を描くのが好きだったらしい。
陽介は、笑うことも泣くこともできなかった。
胸の中に、怒りとも悲しみとも違うものが広がっていく。
取られていたのは、金だけではなかった。
読めたはずのもの。
書けたはずの名前。
好きだったはずの海。
全部、腹を空かせ、眠り、怒鳴られ、明日も働くことだけを考えている間に、どこかへ沈んでいた。
佐伯が、静かに言った。
持っていこう。
陽介は冊子を抱える。
これも、先生に見せていいですか。
もちろん。
千紘が、自分の紙袋を開ける。
私のも、あるかな。
陽介は千紘を見る。
あるといいな、と言いかけて止めた。
紙があることだけが、嬉しいわけではない。
その紙を見れば、千紘にも忘れていた何かが出てくるかもしれない。
母親のこと。
帰る部屋のこと。
名前を知らずに過ごしていた時間のこと。
探す時は、一人にしない方がいい。
そう思った。
一緒に探そう。
陽介は言った。
千紘は頷いた。
佐伯が、持ち出すものを古い買い物袋へまとめる。
家賃の紙。
水道の紙。
電気の紙。
工場の給与の紙。
濡れた学習冊子。
陽介は、布団を元へ戻そうとして止めた。
この布団、どうしますか。
佐伯は湿った敷布団を見る。
今夜ここで寝るつもり。
陽介は首を振った。
分かりません。
正直な答えだった。
佐伯の部屋へ戻っていいのか。
自分の部屋を空けていいのか。
ここへ戻る意味があるのか。
何一つ決められない。
佐伯は少し考えた。
今日は布団を起こして、風を通すだけにしよう。
決めるのは、その後でいい。
決めるのを、後にしていい。
陽介にとっては、それも初めて聞く考え方だった。
工場では、言われた瞬間に動かなければ怒鳴られた。
紙は読めないまま渡され、仕事は知らないうちに終わった。
今は、紙を持って、誰かに見せて、考えてから決めることができるらしい。
陽介は布団を壁へ立てかけた。
裏側に、黒い染みが広がっている。
それを見て、千紘が言った。
海みたい。
陽介は、思わず布団を見る。
黒く湿った染み。
綺麗なものではない。
臭いもする。
けれど、形だけなら、灰色の海に似ていなくもなかった。
こんなの、海じゃない。
陽介が言うと、千紘は首を傾げた。
海、きれいじゃないよ。
灰色だし、黒い水流れてるし。
陽介は窓の外を見た。
千紘の言う通りだった。
自分の部屋から見える海は、青くない。
先生の本の表紙にあるような色でもない。
それでも、海だった。
陽介は、濡れた冊子を開き直す。
海の絵を描くのが好きです。
そこに何を描いていたのかは、もう残っていない。
絵のページは湿気で貼りつき、開けなかった。
いつか、破らずに開けられる日が来るのだろうか。
佐伯が玄関の方へ行き、郵便受けを確認した。
まだ、もう一枚ある。
手に持ってきたのは、白い封筒だった。
赤い文字はない。
けれど、名前が書かれている。
佐伯が読む。
岡崎陽介様。
陽介は封筒を受け取る。
自分の名前を見つける。
岡。
崎。
陽。
介。
もう分かる。
これは、俺です。
陽介が言うと、佐伯は頷いた。
開ける。
陽介は少し迷った。
以前なら、裏返して机に置いた。
見なければ、まだ何も起きていないように思えた。
今日は、濡れた冊子を膝に置き、封筒の端へ指を掛けた。
うまく破れない。
千紘が見ている。
佐伯も、急かさず待っている。
陽介は、ゆっくり封筒を開けた。
中には、一枚の紙が入っていた。
文字は読めない。
数字だけがいくつか見える。
佐伯へ渡す。
佐伯は紙を読んだ。
顔を上げる。
これは、部屋を出ろという紙じゃない。
陽介は息を吐いた。
何ですか。
家賃について、連絡をくださいって紙。
このままだと厳しいけど、まだ話す前の段階だと思う。
話す。
陽介は紙を見る。
自分の部屋には、まだ戻るかどうかを話す時間が残っている。
先生の部屋のように明日までではない。
けれど、何もしなければ、同じ場所へ向かう。
宮下さんに、これも見せます。
陽介は言った。
佐伯が頷く。
そうしよう。
俺のことも、相談していいんですよね。
自分で聞いてから、胸が少し苦しくなった。
助けを求めることは、相原のために救急車を呼ぶより難しかった。
先生の部屋を守りたいと言うよりも、小野寺の名前を残したいと言うよりも。
自分のことだけは、まだ後でいいと思ってしまう。
佐伯は、陽介の目を見て答えた。
いいよ。
あんたも、生きてる人なんだから。
陽介は、昨夜覚えた生という字を思い出した。
白い紙に、何度も書いた不器用な線。
陽介は机へ座る。
封筒の裏側に、鉛筆を置いた。
見本がなくても、生だけは書ける気がした。
一画目。
二画目。
長く伸びる線。
少し曲がった。
けれど、昨日よりは形になっていた。
その下に、自分の名前を書く。
岡崎陽介。
冊子に残っていた子どもの字を横へ置き、今の自分の手で写していく。
昔の字も歪んでいる。
今の字も歪んでいる。
二つは、どこか似ていた。
陽介は、書き終えた文字を長い時間見ていた。
読めなくなっていた自分が、消えたわけではない。
書いていた自分も、どこかに残っていた。
湿った布団の下で、紙が腐りかけながら待っていた。
陽介は、冊子と新しい紙を重ねる。
捨てません。
誰に言うでもなく、口にした。
佐伯は袋を持ち上げる。
じゃあ、病院へ持っていこう。
高瀬さんに見せるものが、また増えたね。
千紘が言う。
陽介の昔の名前。
陽介は首を振る。
昔も、今も、同じ名前だ。
それから、少し考えて続けた。
俺が、忘れてただけだ。
部屋を出る前、陽介は窓を少し開けた。
冷たい風が入る。
湿った布団の臭いが、わずかに外へ流れていく。
窓の向こうで、灰色の海が光っていた。
青い本の海とは違う。
子どもの頃に描いたかもしれない海とも違う。
それでも、陽介はもう、その形を知っている。
海。
扉を閉める。
白い紙は、まだ外側には貼られていない。
陽介は鍵を掛け、鍵を胸ポケットへ入れた。
戻るかどうかは、まだ決めていない。
けれど、戻れるうちに、自分の暮らしを他人の言葉だけで終わらせないための紙を持っていく。
階段を下りる。
入口の脇には、三〇二の黒い袋がまだ残っていた。
陽介は、紙の端に書いた数字をもう一度確かめる。
名前はまだ分からない。
けれど、咳をしていた人がいたことだけは、忘れない。
佐伯と千紘が外で待っている。
陽介は二人のもとへ歩いた。
袋の中で、濡れた冊子の角が、青い本に触れている。
先生に海を教わった本と、昔の自分が海を知っていた紙。
その二つの間に、陽介の今の名前が挟まれていた。




