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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第二十二話 片付けられる部屋から戻るための紙を

先生の部屋は、病院へ運ばれた夜のままだった。


机の脇には、飲みかけの水が置かれている。

蝋燭は短くなったまま、白い蝋を机へ垂らしていた。

布団の上には、先生の身体が抜けた窪みが残っている。


陽介は、扉の外に貼られていた紙を思い出した。


明日まで。


佐伯がそう読んだ。


明日になれば、この部屋は空けられる。

本も、紙も、先生が使っていた湯呑みも、誰かにとっては片付けるものになる。


陽介は靴を脱がずに部屋へ入った。


床には本が積まれている。

踏まないように歩くには、細い隙間を選ばなければならない。


佐伯が後ろから言う。


まず、扉の紙を持っていこう。


剥がしていいんですか。


持っていかないと、病院の人に見せられない。

代わりに、剥がしたことが分かるように写真を撮る。


写真。


陽介は携帯を取り出した。


画面には、昨日工場から届いた文字が残っている。

読めないまま、消さないようにしていたものだった。


佐伯は陽介の隣へ立ち、携帯を受け取った。


ここを押す。


画面の中に、先生の扉が映る。


白い紙。

赤い文字。

黒く続く文字。

その端に、古い扉の剥がれた塗装。


佐伯が指で一つ押すと、小さな音がした。


残ったよ。


陽介は画面を見る。


扉の紙が、小さな四角の中に入っている。


本当に残っているのかは、まだよく分からない。

紙そのものを持つ感触とは違う。

燃えそうにも、濡れそうにも見えない。


でも、扉から剥がしても、貼られていたことを見せられる。


陽介は携帯を受け取った。


これ、消えないですか。


自分で消さなければ、すぐには消えない。


すぐには。


その言葉が引っかかった。


紙も消える。

画面の中のものも消える。

人も、名前も、部屋も消される。


消えないものなど、最初からないのかもしれない。


だから、同じものをいくつも残すのだろうか。


佐伯は、扉の紙を端から丁寧に剥がした。


糊が強く、途中で紙が破れそうになる。

佐伯は急がなかった。


紙を持ち上げたまま、低い声で読む。


未納賃料の支払いが確認できないため、室内残置物を処分し、明渡しを求める。


陽介には、一つずつの言葉がすぐには分からない。


未納。


払ってないってこと。


賃料。


家賃。


残置物。


佐伯は部屋の中を見た。


この本とか、服とか、置いてあるものを、そう呼んでる。


陽介は机の上の紙を持ったまま、部屋を見回した。


高瀬宗一の本。

高瀬宗一の湯呑み。

高瀬宗一の布団。

高瀬宗一が読んだ紙。


名前を知る前なら、古い部屋に置かれた古い物だと思ったかもしれない。


今は違う。


残置物という音が、あまりにも軽く聞こえた。


先生、戻ってくるのに。


そうだね。


戻る人のものを、どうして捨てるんですか。


佐伯は、剥がした紙を折らずに持っていた。


家賃を払えていないからだろうね。

病院に行ったことを知らないのか、知っていても関係ないと思っているのか。


関係ないんですか。


関係あるようにするために、これを持っていくんだよ。


陽介は、扉の向こうの暗い廊下を見る。


誰に見せればいいんですか。


まず宮下さん。

それから、この紙を書いた人にも、高瀬さんが入院していて、戻るつもりだと伝える。


俺が言って、聞きますか。


佐伯は答えなかった。


その沈黙で、簡単ではないことが分かった。


部屋の隅に、開けられていない封筒が積まれていた。


赤いもの。

茶色いもの。

白いもの。


陽介はその前へしゃがみ込む。


これ、全部持っていきますか。


佐伯は封筒を一つずつ見た。


電気。

水道。

家賃。

病院からの古い案内。

役所からの封筒。


読み上げられるたび、先生の部屋が少しずつ違って見えた。


電気が止まった部屋。

水道も止まりかけていた部屋。

家賃を払えず、追い出されようとしていた部屋。

病院へ行く前から、何度も助けを求められる場所が書かれていたのかもしれない部屋。


先生は、それを読めた。


読めたまま、開けられなかった。


陽介は、胸の奥が苦しくなる。


読めるなら何とかできると思っていた。

文字を知れば、赤い紙の意味が分かり、騙されずに済み、どこかへ助けを求められるのだと思い始めていた。


けれど、先生の机には、意味を知ったまま開けられなかった封筒が積まれている。


佐伯が言った。


読めることと、動けることは違うからね。


陽介は顔を上げる。


先生、動けなかったんですか。


食べるものがなくて、息をするのも苦しくて、電気も止まって。

その状態で、何枚も紙が届いたら、読むだけで一日終わることもある。


佐伯は、赤い封筒を数枚選んで袋へ入れた。


あんたが読めるようになったら、何でも一人でできると思わない方がいい。

一人で抱えて、読めるまま倒れる人もいる。


陽介は、何も言えなかった。


先生は、相原の紙を読んだ。

自分の名前を書いた。

千紘の名前を見つけた。


誰かのためには読めたのに、自分へ届いた赤い封筒は机の隅に置いたままだった。


紙の山の下から、小さな缶が出てきた。


蓋が外れ、硬貨が数枚床へ転がる。


陽介は拾い上げた。


少ない。


病院へ行く切符にも足りないくらいだった。


佐伯は缶を見て、何も言わなかった。


その時、廊下で足音がした。


一人ではない。


階段を上がってくる重い足音と、何かを引きずる音。


佐伯が扉の方を見る。


陽介も立ち上がった。


部屋の前に、男が二人現れた。


片方は厚い上着を着た中年の男で、手に鍵束を持っている。

もう片方は若く、空の段ボール箱をいくつか抱えていた。


中年の男が、開いた扉の向こうにいる陽介たちを見た。


何してるの。


佐伯が前へ出る。


ここの方が入院したので、必要な紙を取りに来ています。


男は一瞬だけ眉を上げた。


入院。


はい。

戻る予定です。


男は部屋の中を覗く。


戻るったって、この状態でしょ。

ずっと払ってないし、電気も止まってる。

こっちも、慈善で貸してるわけじゃないから。


慈善。


陽介はその音を知っていた。


コンビニの店長も、老人を置いてやっていたと言った。

工場の班長も、働かせてもらえるだけありがたいと言った。


取る側は、いつも何かを与えている顔をする。


佐伯が言う。


本人が病院にいる間に物を処分するなら、病院の担当者にも確認します。


男の顔から、少しだけ余裕が消えた。


別に、今日捨てるって決めたわけじゃないよ。

注意しに来ただけで。


扉に、明日までと貼ってあります。


佐伯が剥がした紙を見せる。


男は紙を見て、舌を鳴らした。


あれは形式だから。

払わない人には、そう書くしかないでしょ。


形式。


陽介は繰り返した。


男が陽介を見る。


何。


先生、戻るって言いました。


だから。


戻る場所を、なくさないでください。


男は、初めて陽介をはっきり見た。


作業着。

汚れた靴。

紙を抱えた手。


どういう関係。


陽介は詰まった。


先生の家族ではない。

部屋の契約をした者でもない。

保証をできる金もない。


ただ、名前を知っている。


文字を教わっただけの人間だ。


けれど、それだけと言う気にはなれなかった。


先生に、字を教えてもらいました。


男は拍子抜けしたように笑った。


字。


はい。


字教わったからって、家賃が出るわけじゃないだろ。


その言葉に、廊下の空気が止まった。


陽介は、返す言葉をすぐには持てなかった。


確かにそうだった。


字を書いても、先生の家賃は払えない。

名前を残しても、部屋は守れない。

自分の胸ポケットにある紙は、硬貨一枚にもならない。


けれど佐伯が静かに言った。


払う方法を相談する前に物を捨てたら、戻って暮らす方法もなくなるでしょう。


男は佐伯を睨む。


じゃあ、あんたが払うの。


佐伯は黙った。


部屋の中で、本の背表紙が暗がりに並んでいる。


陽介は、工場で相原が倒れた時のことを思い出した。


救急車を呼べば、皆が困る。

工場が止まれば、食べられない者がいる。


それは嘘ではなかった。

だからこそ、何も言えなくなる言葉だった。


今も同じだ。


家賃を払えない。

貸す側にも事情がある。

だから、戻る人の部屋を空にしても仕方がない。


仕方がないという言葉の中で、人は簡単に消える。


陽介は携帯を取り出した。


画面を開く。


どれが写真なのか、まだ一人では分からない。


佐伯さん。


佐伯は陽介を見た。


この人のことも、残せますか。


男が顔をしかめる。


は。


今日、先生の部屋に来たこと。

明日までに片付ける紙を貼ったこと。

先生が入院して戻るって言っても、ここに来たこと。


男の声が強くなる。


何、脅す気。


脅す。


陽介はその言葉を知らなかった。

けれど、悪いこととして言われているのは分かった。


違います。


では何だ。


消されたくないんです。


男は黙った。


陽介は、自分でも何を言っているのか、半分しか分からないまま続けた。


相原さんも消されました。

先生の部屋も、明日には消される。

俺は、何があったか分からないままにしたくないです。


佐伯は携帯を受け取った。


男の顔は写さず、扉の紙と、部屋の様子と、鍵束を持った男の手だけを画面へ入れる。


小さな音が三度鳴った。


男は苛立ったように鍵束を握り直した。


勝手にすればいい。

ただ、払うもの払わないで権利だけ言うのは違うからね。


陽介は、その言葉を胸の中に残した。


権利。


初めて聞く音だった。


佐伯が低い声で言う。


宮下さんに電話します。

病院から連絡してもらうまで、室内のものには触れないでください。


男は答えない。


若い男が持っていた段ボールを床へ下ろしかけ、また抱え直す。

目は一度も陽介たちの方へ向かなかった。


中年の男が階段へ向かう。


今日のところは帰るけど、期限は期限だから。


足音が遠ざかる。


段ボールを抱えた若い男も後を追った。


部屋に静けさが戻る。


陽介は、その場に座り込んだ。


足に力が入らなかった。


佐伯が携帯を返す。


よく言ったね。


何もできてないです。


陽介は答えた。


止められたか分かんないです。

家賃も払えない。

先生が戻っても、ここに住めるか分からない。


それでも、黙って片付けられるのとは違う。


佐伯は、袋に入れた封筒を持ち直す。


今は、違うようにするしかない。


陽介は机の前へ座った。


先生が使っていた紙の端に、鉛筆を置く。


さっき聞いた言葉を思い出す。


形式。

慈善。

権利。


どれも書き方が分からない。


けれど、今日あったことだけは残したい。


佐伯が陽介の隣へ座る。


書こうか。


陽介は頷いた。


佐伯は一枚の紙へ、ゆっくり文字を書いた。


高瀬宗一、入院中。

退院後、この部屋へ戻る意思あり。

本日、明渡しと室内物品処分を求める紙を確認。

佐伯澄江、岡崎陽介が室内にて確認。

病院担当者へ相談予定。


陽介は、読める名前だけを追った。


高瀬宗一。

佐伯澄江。

岡崎陽介。


自分の名前が、先生の部屋を守ろうとした紙の中にある。


それが怖かった。


工場の掲示板に名前を見つけた時とは違う怖さだった。


あの時は、誰かに決められた終わりの中に自分の名前があった。

今は、自分が動いたことの中に、自分の名前がある。


陽介は紙の下へ、自分で書いた。


高瀬宗一。


少し歪む。

けれど読める。


その下に、


岡崎陽介。


崎の字で迷い、先生に書いてもらった紙を取り出して見比べる。

時間はかかったが、最後まで書いた。


佐伯は急かさなかった。


陽介は、さらに下へ書こうとして手を止める。


何を書くの。


佐伯が聞く。


戻る。


書けますか。


佐伯は別の紙へ、大きく二文字を書いた。


戻る。


陽介は真似た。


線は曲がった。

一文字目の中が潰れた。


それでも、先生の名前の下に置いた。


高瀬宗一。

戻る。


陽介はその二行を見つめた。


消された名前を書くこととは少し違った。


いなくなった人を残すのではなく、戻ってくる人の場所を残すための文字だった。


机の下に、青い表紙の本が落ちていた。


陽介が最初に海という字を教わった本だった。


拾い上げる。


表紙には、色の薄れた青い水が描かれている。


陽介はそれを胸へ抱えた。


これは持っていきます。


佐伯は頷いた。


高瀬さんに見せるの。


はい。


俺、海、読めるって言います。


佐伯は何も言わなかった。


けれど、少しだけ柔らかい顔になった。


持てる封筒と、名前の紙と、青い本を袋へ入れる。

他の本は残すしかない。


陽介は部屋の中を見回した。


すべてを守ることはできない。

それは、相原の時にも分かっていた。


それでも、何も選ばず消されるのとは違う。


部屋を出る前、陽介は扉の内側へ紙を貼った。


佐伯が書いたものを、自分でも写した紙だった。


高瀬宗一。

戻る。


字は歪んでいる。

知らない人が見れば、何と書いてあるか分からないかもしれない。


それでも貼った。


扉を閉める。


外側には、赤い紙が剥がされた跡が白く残っている。

内側には、陽介が書いた二行がある。


先生の部屋はまだある。


階段を下りる時、佐伯が宮下へ電話を掛けた。


陽介には会話の半分も分からなかった。


高瀬さん。

入院。

部屋。

明日。

処分。

連絡。


それでも、佐伯の声が一人だけに向けられたものではないことは分かった。


誰かに繋げている。


廊下の暗さの外へ、先生の部屋のことを持ち出している。


建物を出ると、夕方の風が吹いていた。


海の匂いが戻っている。

空は低く、また雨が降りそうだった。


陽介は、青い本の入った袋を抱える。


胸ポケットの中には、名前の紙。

手には、赤い紙と封筒。

携帯の中には、貼り紙の写真。


一人の人間が戻る場所を守るために、紙がこんなに要る。


そのことが、ひどく腹立たしく、同時に少しだけ心強かった。


佐伯が言う。


病院へ戻る前に、小野寺君のところへ寄ろう。


どうしてですか。


高瀬さんが生きているって、伝えるんだろ。


陽介は頷いた。


コンビニの明かりが、道の先に見えている。


白い蛍光灯の中で、小野寺直人が今日も働いている。


消された名前だけではなく、まだそこにいる名前へも、伝えなければならないことがある。


陽介は袋を濡らさないように、作業着の前を閉じた。


海という字の載った本が、胸の前でかすかに硬かった。

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