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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第二十一話 戻る部屋をなくさないために

生活と相談という文字を写したあと、陽介は鉛筆を置いた。


紙の上には、まだ白い場所が残っている。

けれど、何を書けばいいのかは分からなかった。


暮らすということは、工場へ行くことだと思っていた。

朝になれば音で起き、身体を運び、夜に戻る。

金が少なくても、食べられなくても、まだ働けているなら暮らしているのだと思っていた。


先生は、その暮らしから外れた。


病院の白い布団の上で、細い管に繋がれている。


自分も、昨日そこから外れた。


工場から来なくていいと言われた。

最後の金から何かを引くと書かれた。

明日の朝、鉄の音を聞いても、向かう場所はない。


淡い色の服を着た女は、膝の上にファイルを置いた。


高瀬さん。

まず、退院したあとに戻る場所について確認したいです。


高瀬は目を閉じたまま答えた。


部屋はあります。


家賃は払えていますか。


高瀬の返事が止まる。


陽介は病室の空気が少しだけ冷えたように感じた。


しばらくして、高瀬は言った。


何ヶ月か、遅れてます。


何ヶ月ですか。


分かりません。


女は責める様子もなく、紙に何かを書いた。


電気は。


止まりました。


水道は使えますか。


たぶん。


暖房は。


高瀬は答えなかった。


千紘が毛布を抱えたまま言う。


先生の部屋、寒い。


女は千紘へ目を向け、それからまた紙へ書いた。


陽介には、何を書かれているのか分からない。

質問されるたび、高瀬の暮らしが一つずつ紙へ移されていく。


家賃が遅れていること。

電気が止まったこと。

暖房がないこと。

食べていなかったこと。


それは、先生を助けるために必要なことなのかもしれない。


けれど、工場で班長が救急隊員へ話していた姿が頭に残っている。


紙へ書かれたことで、相原は最初から体調の悪かった人間にされかけた。

自分も、ただ仕事を休んで切られた人間にされるかもしれない。


陽介は、女の手元を見た。


これ、誰が見るんですか。


女はペンを止めた。


必要な支援を考える人たちです。


支援。


陽介は、さっき教わった文字の音を思い出す。


それで、先生の部屋、なくなりませんか。


女はすぐには答えなかった。


高瀬が薄く目を開ける。


陽介。


先生、戻るって言ったじゃないですか。


陽介は高瀬を見る。


戻る部屋がなくなったら、戻れないです。


千紘も毛布を抱え直す。


本もある。


陽介は頷く。


紙もあります。

先生の名前の紙も。

相原さんの名前の紙も。


女は、陽介の言葉を聞いたあと、ファイルを閉じた。


部屋の契約について確認が必要です。

家賃が滞っている場合、すぐに退去になるとは限りません。

ただ、通知が来ている可能性はあります。


通知。


赤い封筒を思い出した。


先生の部屋の机の隅に、開けていない封筒が積まれていた。

赤い文字のものもあった。


陽介の胸が詰まる。


先生の部屋に、紙いっぱいあります。


読める方がいれば、内容を確認したいです。


俺、持ってきます。


陽介はすぐに言った。


高瀬が目を動かす。


陽介は続ける。


先生の部屋の紙、持ってきます。

必要なのを、ここで読んでもらいます。


女は少し考えた。


全部持ってくるのは大変です。

まず、封筒の表に赤い文字があるものや、家のことが書かれていそうなものを。


陽介は唇を噛む。


それが分かりません。


読めないから。


病室が静かになった。


言ってしまうと、恥ずかしさより先に悔しさが来た。


今までなら、読めないことは何でもなかった。

周りも同じだった。

封筒は開けず、貼り紙は見ず、誰かに言われた通りに動けば日が終わった。


今は、読めないことで先生の戻る場所を失うかもしれない。


女は、机の上にあった白い紙を一枚取った。


封筒を無理に選ばなくて大丈夫です。

持てる分だけ持ってきてください。

写真を撮れるなら、封筒や貼り紙を撮って見せてもいい。


写真。


陽介は自分の携帯を取り出した。


工場からの文字を見るためにしか使っていなかった古い携帯。

画面の端は割れている。


これでもできますか。


女は携帯を見て頷いた。


写真を撮る機能があれば。


陽介は、携帯を手に持ったまま固まった。


写真を撮ったことがなかった。


画面の中には、小さな形がいくつもある。

電話の形。

封筒の形。

四角い何か。


どれを押せば、紙を残せるのか分からない。


佐伯が後ろから言った。


私が一緒に行くよ。


陽介は振り返る。


先生の部屋へ。


佐伯は頷いた。


文字も読める。

写真も撮れる。

あんた一人で、全部抱えることない。


陽介は答えられなかった。


誰かに助けてもらうことが、まだうまく分からない。

工場で手を貸すことは、遅れた人間の分まで運ばされることだった。

コンビニで寝場所を貸すことは、倒れるまで使われることだった。


けれど、佐伯の家では粥を食べた。

小野寺は金を貸し、道を書いた。

高瀬は文字を教えた。


助けるという言葉にも、違う形があるのかもしれない。


千紘が言う。


私も行く。


佐伯は首を振る。


千紘はここで、話がある。


千紘の顔が強張った。


何の。


お母さんのこと。

これから寝る場所のこと。


嫌。


千紘は、すぐに言った。


陽介の袖を掴む。


私、先生の部屋行く。

紙、持つ。


淡い色の服の女が、声を低くした。


千紘さん。


千紘は驚いたように女を見る。


自分の名前を、知らない大人に呼ばれたからだった。


女は続ける。


あなたをどこかへ勝手に連れていく話をしたいわけではありません。

お母さんが戻っていないなら、今夜安心して眠れる場所が必要です。

高瀬さんが入院している間、ここで一緒に考えたいです。


千紘は、診察の紙を胸へ押し当てた。


そこに名前を書かれてから、千紘は紙を放さない。


陽介は千紘の掴んだ手を見る。


大丈夫とは言えなかった。

自分も、何をされるのか分からない。


高瀬が、ベッドの上から声を出した。


千紘。


千紘は顔を上げる。


名前を持ったらね。

自分のことを話していいんだよ。


千紘は黙っていた。


高瀬は息を整えながら続ける。


嫌なことは嫌って言っていい。

分からないことは、分からないって聞いていい。

紙に書かれたら、読んでって言っていい。


千紘の目に、涙が浮かんだ。


先生も一緒。


俺は、ここにいるよ。


戻る。


戻る。


高瀬は、今度ははっきり言った。


千紘は、しばらく高瀬を見ていた。


やがて、陽介の袖から手を放す。


分かった。


声は小さかった。


けれど、その返事は、店長や班長に頭を下げていた人間たちの返事とは違って聞こえた。


淡い色の服の女は、千紘の診察の紙を見た。


お名前は、千紘さんで間違いないですか。


千紘は紙を見る。


それから、自分の口で言った。


千紘。


名字は分かりますか。


千紘は黙った。


紙に、まだ何か書いてあるんですよね。


陽介が聞く。


女は診察の紙を受け取り、目を落とした。


名字も書いてあります。


千紘の肩が動く。


何。


女は紙を千紘へ見せ、指で一つずつ示した。


長谷川。


その下に、千紘。


長谷川千紘さん。


千紘は、長い音を受け止めきれないように、何度も瞬きをした。


はせがわ。


陽介も口の中で繰り返す。


千紘の前にも、知らなかった音があった。


岡崎陽介と同じように。

小野寺直人と同じように。

高瀬宗一と同じように。


女は紙へ、大きく書いた。


長。

谷。

川。

千。

紘。


川。


陽介の目が、その一文字に止まる。


川、分かります。


女が顔を上げる。


陽介は窓の外を見た。


工場の近くを流れている、濁った水。

橋の下を通り、海へ向かうもの。


川。


千紘も文字を見る。


私の中に、川ある。


高瀬が小さく笑った。


いい名前だね。


千紘は紙を見たまま、涙を指で拭った。


陽介は、その涙が悲しいものなのか、嬉しいものなのか、分からなかった。

たぶん、どちらでもあるのだろう。


女は自分の名札を外し、机の上へ置いた。


私の名前も伝えておきます。

宮下佳織です。


陽介は名札を見る。


みやした。

かおり。


女は紙にも同じ文字を書いた。


宮下佳織。

病院で生活の相談をする人。


陽介は、その下に自分で写そうとした。


宮の形が難しい。

下の線が歪む。

佳織は、途中で何が何だか分からなくなった。


宮下は笑わなかった。


読めるようになるまで、紙を持っていてください。

私の名前を出せば、病院で聞けます。


千紘が聞く。


消さない人。


宮下は少しだけ考えた。


消されないように、一緒に考える人になりたいです。


なりたい。


陽介は、その言い方を覚えた。


できると言わない。

守ると言い切らない。

それでも、消されないようにしようとする。


この街で初めて聞く、無理に善く見せない言葉だった。


佐伯が立ち上がる。


じゃあ、私は陽介と高瀬さんの部屋へ行く。

必要な紙を探して、部屋の様子を見てくる。


宮下は頷いた。


入口や扉に貼られたものがあれば、それも持ってくるか、写真をお願いします。

荷物を勝手に処分されないよう、早めに確認した方がいいです。


処分。


陽介は、工場の掲示板の黒い線を思い出した。

集合住宅の隣室から出されていた黒い袋も。


人がいなくなると、部屋の中のものまで早く消される。


先生の本。

蝋燭。

机に置いてきた名前の紙。


守らなければならない。


高瀬が、布団の中から陽介を見た。


本は、全部じゃなくていい。


先生。


大事なのは、本じゃない。


高瀬は千紘と陽介を見る。


読んだ人がいれば、本はまた読める。


陽介は答えなかった。


その言葉は分かる。

けれど、海という字を初めて見た青い本を、誰かに捨てられるのは嫌だった。


あれは、陽介がただの模様から抜け出した場所にあったものだった。


持てるだけ、守ります。


陽介が言うと、高瀬は目を閉じた。


頑固だね。


初めて、先生に少し呆れられた気がした。


千紘がベッドの脇から手を伸ばす。


先生の毛布は、ここ置く。


高瀬は頷いた。


ありがとう。


千紘は毛布を、白い布団の上へそっと載せた。


病院の布団の上に、湿った部屋の匂いが少しだけ戻る。


陽介と佐伯は、病室を出た。


廊下は明るかった。


窓から入る春の光が、白い床へ伸びている。

昨日まで、明るい場所は人の困窮を隠すためにあるように見えていた。


コンビニの蛍光灯。

観光の看板。

工場の夜間照明。


けれど、この廊下の明るさは、紙を探すためには必要だった。


陽介は胸ポケットへ手を入れる。


宮下佳織の名前が書かれた紙。

長谷川千紘の名前が書かれた紙。

先生の病院の紙。


また紙が増えた。


駅へ戻る道で、佐伯が言った。


高瀬さんの部屋へ行ったら、まず扉を見るよ。


扉。


貼り紙があるかもしれない。

中の紙より、外に貼られた紙の方が急ぐものだったりする。


陽介は頷く。


読めないものが、どこにでもある。


でも今度は、佐伯がいる。


電車の中で、陽介は窓の外を見ていた。


川が見える。


雪解けの濁りはまだ残っているが、水の表面に光が当たっていた。


長谷川千紘。


川という文字を持つ少女が、病院に残っている。

自分の名前を知り、嫌だと言い、先生が戻るのを待っている。


陽介は紙へ指を滑らせた。


駅を降り、集合住宅へ向かう。


道の途中でコンビニの前を通ると、小野寺がレジに立っていた。


目が合う。


陽介は店の前で足を止める。


小野寺が、自動ドアの向こうからわずかに顔を上げた。


陽介は胸ポケットから、高瀬宗一と書かれた紙を出した。

ガラス越しに見せる。


読める距離ではないかもしれない。


それでも、小野寺には通じたらしい。


陽介は、自分の口で言った。


生きてます。


自動ドア越しで、声は届かなかった。


けれど、小野寺の肩から、少しだけ力が抜けるのが見えた。


店長が奥から出てくる。


小野寺はすぐに視線を戻した。


陽介も歩き出す。


まだ、名前を持つ人間たちは、同じ場所に集まれない。

働かなければならない者。

入院している者。

話を聞かれる者。

部屋を守りに行く者。


それでも、消えてはいない。


集合住宅の階段を上がる。


二階の奥に、先生の扉が見える。


陽介は足を止めた。


扉には、昨日までなかった紙が貼られていた。


白い紙。

大きな赤い文字。

その下に、黒い文字が何行も続いている。


胸の中が冷える。


佐伯が紙へ近づいた。


読む間、顔が少しずつ硬くなっていく。


何て書いてありますか。


陽介が聞く。


佐伯は、すぐには答えなかった。


やがて、低い声で言った。


部屋を空けろって。

払えないなら、中のものを片付けるって書いてある。


陽介は扉を見る。


昨日まで、先生が息をしていた部屋。

名前の紙を置いてきた部屋。

海の本が積まれている部屋。


そのすべてが、もう片付けるものにされかけている。


いつまでですか。


佐伯は紙の下にある数字を指で追った。


明日。


陽介は、扉に貼られた赤い文字を見る。


工場で相原の名前が消された時より、手が震えなかった。


震えるより先に、扉へ手をかけていた。


入ります。


佐伯が頷く。


守れるものから、守ろう。


陽介は鍵の掛かっていない扉を開けた。


暗い部屋の中に、本と紙が残っている。


机の上には、自分が置いていった一枚があった。


高瀬宗一 病院


誰にも捨てられず、まだそこにある。


陽介は最初に、その紙を手に取った。


先生が戻る部屋をなくさないために、今度は読むだけでは足りない。


誰かに見せる紙を。

消されないための紙を。

明日までに、探さなければならなかった。

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