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潮騒は文字を知らない  作者: 門 隈


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第二十四話 濡れた封筒を渡す先に

雨は、病院へ戻る道の途中で強くなった。


傘は佐伯の一本だけだった。

陽介は使わなかった。


袋の中にある青い本と封筒を濡らさないよう、作業着の前へ抱え込む。

布地はすぐに雨を吸い、肩から背中へ重たく張りついてきた。


佐伯は、何度か傘へ入るよう言った。

けれど陽介は首を振った。


袋が濡れる方が嫌だった。


先生の部屋の扉から剥がした赤い紙。

開けられないまま積まれていた封筒。

海という字を教わった青い本。


どれも、陽介が持っている間に駄目にしたくなかった。


駅前の公衆電話の前で、佐伯が足を止めた。


透明な囲いの中に、緑色の電話が置かれている。

陽介は、こんな場所に電話があったことを初めて知った。


佐伯は買い物袋から硬貨を出す。


病院に着いてからじゃ遅いかもしれない。

宮下さんに、先に伝える。


陽介は頷く。


小野寺さんのことも。


分かってる。


佐伯は受話器を取り、病院でもらった紙を見ながら数字を押す。


陽介には、数字の並びまでは追えなかった。

ただ、指で押された形が、どこかにいる宮下へ繋がっていくのだと分かる。


千紘は今、病院にいる。

先生の近くで、自分の名前を抱えている。


小野寺は、明るい店の中で働いている。

夜になれば、老人が眠っていた段ボールの横へ行くつもりでいる。


先生の部屋には、明日までに空けろと書かれた跡が扉に残っている。


誰も一つの場所にはいない。


それでも、佐伯の電話が、それぞれの名前を一つの話に繋げようとしている。


佐伯の声が聞こえる。


はい。

高瀬さんの部屋へ行きました。

扉に、明日までに室内の物を処分するという紙が貼られていました。


少し間が空く。


はい。

写真もあります。

紙そのものも剥がして持っています。


佐伯は陽介の袋へ目を向ける。


今、こちらにあります。

高瀬さんは、戻ると言っていました。

本人が入院中に物を出されるのは避けたいです。


電話の向こうで、宮下が長く話しているらしい。

佐伯は何度か頷いた。


陽介は、雨で濡れた電話箱の外を見ていた。


道路を人が歩いていく。

傘を持っている人。

濡れた頭のまま走る人。

袋を抱えた人。


皆、行く場所を知っているように見えた。


佐伯が続ける。


それと、もう一人、相談できるか聞きたい人がいて。


陽介は顔を上げる。


コンビニで働いている若い男の子です。

名前は、小野寺直人。

寝る場所がなくて、勤務先の店の裏で寝泊まりすることになりそうです。


雨が電話箱の屋根を強く叩いた。


小野寺の名前が、初めて店の外へ出た。


陽介の胸が苦しくなる。


小野寺は、自分の名前を出していいとは言わなかった。

ただ、宮下佳織という名前を書いてほしいと言った。


相談したいと思った時、自分から話せるように。


陽介は佐伯の袖へ触れた。


佐伯さん。


佐伯は電話を耳に当てたまま、陽介を見る。


小野寺さん、まだ相談するって決めてないです。


佐伯の表情が変わる。


少しだけ黙り、電話の向こうへ言った。


すみません。

本人が相談を希望した、ということではありません。

連絡先を渡したところです。

本人が来た場合、話を聞いてもらえるかだけ確認したくて。


陽介は手を下ろした。


小野寺の名前を残したいと思った。

けれど、残すことで小野寺の居場所を先に動かしてはいけない。


名前を知ることと、名前を使うことは違う。


先生なら、そう言ったかもしれない。


佐伯は電話を切った。


硬貨が落ちる音がした。


どうでしたか。


陽介が聞く。


高瀬さんの部屋のことは、宮下さんがすぐ確認してくれる。

病院から、本人が入院中で、退院後に戻る意思があることを伝えられるか動いてくれるって。


止められますか。


止められると言い切るのはまだ早い。

でも、明日勝手に全部持っていかれる前に、話を通せる人が増えた。


陽介は袋を抱え直した。


話を通せる人。


自分が扉の前で、戻る場所をなくさないでくださいと言った時には、男は笑った。

家賃が払えないなら仕方がないと言った。


けれど、宮下が話せば、違う返事になるのかもしれない。


同じことを言っても、誰が言うかで重さが変わる。


それは少し悔しかった。


小野寺君のことは、本人が連絡してきたら相談できるって。

宮下さんの名前と病院の場所を持っていれば、入口にはなる。


陽介は頷いた。


入口。


その字はまだ知らない。

けれど、先生の部屋の扉や、駅の改札や、病院の受付を思い出す。


中へ入るために必要な場所。

一人では開けられないこともある場所。


病院へ向かう電車の中で、陽介は袋を膝に置いた。


雨に濡れた作業着から、椅子へ水が染みていく。

向かいに座った人が、一度だけ陽介を見て、すぐに目を逸らした。


佐伯は隣で、さっき電話した内容を手帳へ書いている。


陽介は、その手元を見る。


また書いてるんですか。


書くよ。

誰に、いつ、何を話したか。

あとで、言った言わないになるから。


言った言わない。


陽介は工場の班長を思い出す。


こちらは休むように言ったんですが。


相原が救急車へ運ばれる横で、班長はそう言った。


書いてなければ、声の大きい方の話だけが残るのだろう。


陽介は胸ポケットから紙を出した。


自分でも、書きます。


佐伯は手帳から目を上げる。


書ける。


分かるところだけ。


陽介は、紙の端へ鉛筆を当てた。


小野寺直人。


見本を見ながら、ゆっくり写す。

小は、千紘の千に少し似ている気がした。

野は難しい。

寺は、途中で線がずれた。

直と人は、何度か見れば覚えられそうだった。


その下に、宮下佳織と書こうとして止まる。


形が多すぎて、まだ写すのにも時間がかかる。


佐伯が言った。


今日は名前だけでいいよ。


陽介は首を振る。


相談も、書きたいです。


佐伯は別の紙に、大きく書いた。


相談。


陽介はそれを見ながら、ゆっくり写す。


小野寺直人。

相談。


それだけで、紙の上では小野寺が店の裏の段ボールから少し離れたように見えた。


まだ何も変わっていない。

小野寺は今もレジに立ち、夜まで働く。

相談へ来るかどうかも分からない。


けれど、陽介の紙の上で、小野寺は消される前の人間として残っている。


病院の入口へ着く頃、雨は少し弱くなっていた。


白い建物の軒下で、陽介は作業着の水を手で払う。

袋の中を確認する。


青い本の端は少し湿っている。

けれど、表紙の青い水はまだ崩れていない。


赤い紙も、封筒も残っている。


受付で宮下の名前の紙を見せると、係の人は少し待つよう言った。


しばらくして、宮下が早足で現れた。


昨日と同じ淡い色の服。

手には厚いファイル。

けれど今日は、その上に電話の受話器を長く握っていた跡みたいな赤みが手のひらに残っていた。


持ってきてくれたんですね。


宮下は袋を見る。


陽介は最初に、剥がした紙を出した。


これです。


宮下は紙を両手で受け取る。


読み始めると、表情が静かに変わった。


佐伯さんから聞いた内容と合っています。

これは、確認が必要です。


先生、戻れますか。


陽介はすぐに聞いた。


宮下は紙をファイルへ挟みながら答える。


戻れるように、今できることを進めます。

高瀬さん本人の意思も確認して、管理する側へ病院から連絡します。

必要なら、別の相談先にも繋ぎます。


別の。


住まいを失わないための相談をする場所です。


陽介は、また新しい言葉が増えたと思った。


住まい。


先生の部屋。

佐伯の乾いた畳。

小野寺が寝ようとしている店の裏。

千紘が帰れなくなった部屋。

自分の湿った布団のある集合住宅。


どれも、同じ言葉で呼ばれるのだろうか。


住まいって、寝る場所ですか。


宮下は少し考えて答えた。


寝て、起きて、戻ってきていい場所です。


陽介は黙った。


戻ってきていい。


自分の部屋は、そういう場所だったのだろうか。

家賃が払えなくなれば、隣室の老人の荷物みたいに外へ出される場所。

咳が聞こえなくなっても、誰も確認しない場所。


それでも、濡れた布団のある部屋へ戻っていたのは、他に戻る場所がなかったからだ。


宮下が続ける。


高瀬さんは、今は話せる状態です。

この紙も、本人に確認してもらいます。


会えますか。


短い時間なら。


陽介は、袋の中から青い本を取り出した。


これも、持ってきました。


宮下は本を見る。


大事なものですか。


俺に、海っていう字を教えてくれた本です。


言ってから、陽介は少し恥ずかしくなった。

先生の部屋がなくなりかけている時に、子どもの本を持ってきたことが、幼いことのように思えた。


けれど宮下は、真面目に頷いた。


では、高瀬さんに渡しましょう。


病室へ入ると、千紘がベッドの横の椅子に座っていた。


膝の上に紙を置き、鉛筆で何かを書いている。


陽介を見ると、すぐに紙を持ち上げた。


見て。


そこには、歪んでいるが、昨日よりはっきりした文字が並んでいた。


長谷川千紘。


陽介は、息を吐くように笑った。


書けたのか。


宮下さんに教えてもらった。


千紘は少し得意そうに言う。


川は、もう分かる。


高瀬がベッドの上で目を開けている。


昨日より顔色はまだ白い。

けれど、陽介たちを見る目には力が戻っていた。


陽介。


はい。


海の本、持ってきたんだね。


陽介は本を抱えていた自分の腕を見る。


見えましたか。


青いから分かる。


高瀬は、わずかに笑った。


陽介はベッドの横へ行き、本を差し出す。


先生の部屋、紙が貼られてました。


高瀬の笑みが消えた。


赤い文字で、明日までに空けるって。

佐伯さんと紙と封筒を持ってきました。

宮下さんが、連絡してくれるって。


高瀬は目を閉じた。


しばらく声を出さない。


先生。


陽介は不安になって呼ぶ。


高瀬は、ゆっくり息を吐いた。


来るとは思ってた。


知ってたんですか。


封筒、読めばね。


でも、開けてなかった。


開けられなかった。


高瀬は、窓の外へ目を向ける。


先生の部屋でも、佐伯が言っていた。

読めることと動けることは違う。


高瀬は文字を知っていた。

部屋を失うかもしれないことも、電気が止まることも、ずっと前から知っていたのだろう。


それでも、紙の山の前で咳をしながら、何もできなくなっていた。


陽介は本を握ったまま言う。


戻るって、紙に書きました。


高瀬が陽介を見る。


先生の名前の下に。

高瀬宗一、戻るって。

部屋の中に貼ってきました。


千紘が椅子から身を乗り出す。


私もあとで書く。


高瀬の目元が少し赤くなったように見えた。


泣いたわけではない。

病気のせいかもしれない。


それでも、声はしばらく出なかった。


宮下がベッドのそばに座る。


高瀬さん。

部屋について、確認させてください。

退院後、可能であれば今のお部屋へ戻りたいという意思で間違いありませんか。


高瀬は、青い本を見た。


本当は、戻りたいと言っていい部屋か分からない。


陽介は息を止めた。


電気は止まってる。

家賃も払えてない。

寒くて、食べるものもない。

戻れたところで、同じことになるかもしれない。


高瀬は、千紘を見る。

陽介を見る。


それでも、捨てられるのは嫌だ。


宮下は頷く。


分かりました。

戻るか、別の場所を考えるかは、その後に一緒に考えましょう。

まず、本人がいない間に全て失うことがないように動きます。


高瀬は、静かに頷いた。


陽介は、その言葉を聞いていた。


戻ることと、戻らされることは違う。

元の場所に戻るしかないのではなく、別の場所を考えることもできる。


そんな考え方を、陽介は知らなかった。


千紘が聞く。


私も、戻るところ考える。


宮下は千紘へ向き直る。


一緒に考えよう。


千紘は紙の上の自分の名前を撫でた。


陽介は、袋から別の紙を取り出す。


先生。

もう一人、名前を知りました。


高瀬が目を向ける。


コンビニの若い人です。

小野寺直人さん。

電話貸してくれて、病院までの道を書いてくれた人です。


高瀬は静かに聞いている。


あの人、今夜、店の裏で寝るって。

前にいたおじいさんが寝てた段ボールのところに。


千紘の顔が曇る。


おじいちゃんのところ。


陽介は頷いた。


相談する人の名前を、小野寺さん、自分で書きました。

宮下佳織って。


宮下は少し驚いたように顔を上げた。


私の名前を。


佐伯さんが伝えました。

本人が来るかは、まだ分からないです。

でも、消えたくないって言ってました。


高瀬は長く息を吐いた。


読める人だった。


はい。

少しなら読めるって。


読めても、寝る場所がない。


高瀬の声は、誰かを責めるものではなかった。

自分のことも重ねている声だった。


陽介は、紙をベッドの脇に置いた。


小野寺直人。

相談。


自分で写した文字だった。


高瀬はそれを見る。


陽介、ずいぶん書くようになったね。


陽介は、自分の指を見る。


まだ、写してるだけです。


最初はみんな、写すんだよ。


高瀬は青い本の表紙に指を置く。


海も、人の名前も、助けを求める言葉も。


陽介は窓を見る。


病院の窓からは海は見えない。

見えるのは、濡れた道路と、黄色い花のある小さな花壇だけだった。


千紘が思い出したように言う。


花、聞く。


高瀬が首を傾ける。


外に黄色い花あった。

名前、あるって陽介が言った。


高瀬は少し笑った。


あるよ。

見ないと分からないけど、春に咲く黄色い花なら、いくつかある。


分からない。


分からないね。


高瀬は穏やかに言った。


分からないものは、見て、聞いて、確かめればいい。


陽介はその言葉を覚えた。


以前なら、分からないものは見ない方が良かった。

知らない方が楽だった。


今も、知るたびに苦しい。

先生の部屋。

小野寺の寝場所。

自分の仕事。

千紘の母親。


けれど、分からないままにすれば、全部誰かの都合で消される。


宮下が、持ってきたファイルを開いた。


高瀬さんの部屋のことは、これから連絡を進めます。

それから、岡崎さん。


陽介は顔を上げる。


あなたの勤務先から来た連絡も、見せてもらえますか。


胸ポケットの携帯が、急に重くなった。


自分のことは、後でいいと思っていた。

先生の部屋があり、千紘の名前があり、小野寺の夜がある。


自分はまだ立っている。

まだ歩ける。

まだ何も食べていないわけではない。


だから後でいい。


そう言いかけた。


けれど、相原も小野寺も、まだ働けると言っていた。


先生も、まだいいと言って病院へ行かなかった。


陽介は、携帯を取り出した。


画面を開く方法を少し迷い、佐伯に見せる。

佐伯が工場からの文字を表示してくれた。


宮下は、それを読む。


顔つきが変わる。


この連絡が来たのは、相原さんの救急搬送についてお話ししたあとですか。


はい。

それと、先生を病院に運ぶ日に仕事行かなかったあとです。


勤務を休む連絡は。


してないです。


宮下は頷き、何かを紙へ書く。


陽介の心臓が速くなる。


また紙の中に、自分が入っていく。


けれど今度は、終わる者の掲示板ではない。


宮下が言った。


これも、消さないで持っていてください。

支払いを引くと言われたことも、来なくていいと言われたことも、経緯と一緒に確認する必要があります。


先生の部屋と同じですか。


少し違います。

でも、岡崎さんの暮らしに関わる大事なことです。


陽介は携帯を握った。


自分の暮らし。


その言葉を、自分に向けられたのは初めてだった。


高瀬がベッドの上から言う。


陽介。

自分の紙も、誰かに読んでもらっていいんだよ。


陽介は、何も答えられなかった。


ただ、携帯を胸へ戻す。


袋の中には、先生の赤い紙。

机の上には、小野寺の名前。

千紘の膝には、長谷川千紘。

自分の胸には、工場から届いた消してはいけない文字。


宮下は、もう一枚の紙に大きく書いた。


記録。


陽介は読む。


きろく。


起きたことを残すことです。

誰かを責めるためだけではなく、自分が何を失い、何を守ろうとしたのかを見失わないために。


陽介は、鉛筆を持った。


記。

録。


難しい字だった。


何度見ても、すぐには写せない。


千紘が横から紙を見て言う。


むずかしい。


陽介は頷く。


でも、覚える。


高瀬が白い布団の上で、静かに目を閉じた。


眠るだけだと分かった。

昨日のような怖さはなかった。


病室の外で、誰かの名前が呼ばれている。


その声は廊下を通り、扉の隙間から少しだけ中へ入ってきた。


陽介は、記録という字をもう一度写した。


まだ読める形にはならない。

それでも、紙の上に線を残した。


生きている人間が、消される前に繋がっていくための線だった。

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