悪魔は教会を支配する
「――いったい、何の騒ぎだね?」
白いスーツに身を包んだ男が、悠然と礼拝堂を見渡した。
その声は、決して大きくなかった。
にもかかわらず、騒然としていた教会が、嘘のように静まり返った。
……お父様。
俺は、息をすることすら忘れていた。
見間違えるはずがない。
あの整った顔立ち。
人を見下すような、傲慢な微笑み。
そして、何者にも怯まない、圧倒的な存在感。
俺を悪魔として育てた男。
この国の大臣にして、悪魔の王。
そのお父様が、よりによって清水教会に現れたのだ。
「……お、おい」
観客の一人が、震える声を漏らした。
「あの人……大臣じゃないか?」
「本当だ……! どうして、こんなところに?」
「まさか、本人なのか?」
ざわめきが広がっていく。
それも当然だろう。
悪名高い政治家が、何の前触れもなく小さな教会に姿を現したのだから。
だが、俺が驚いている理由は、それだけではない。
……どうして、入れる?
ここは教会だ。
神を信仰する者たちが、祈りを捧げる場所。
悪魔にとっては、決して居心地のいい場所ではないはずだ。
まして、お父様は悪魔の王。
その存在そのものが、神聖なものと相容れない。
……なのに。
お父様は、まるで自分の屋敷に帰ってきたかのように、堂々と礼拝堂を歩いている。
十字架を見上げても、眉一つ動かさない。
……おいおい。
悪魔の王ともなれば、教会の結界すら関係ないのか?
それとも、そもそもこの教会には、そんな都合のいい結界など存在しないのか?
どちらにせよ、俺の常識が音を立てて崩れていく。
「……お父様」
ようやく、声を絞り出した。
すると、お父様は俺を一瞥した。
「……ふん」
そして、露骨に鼻を鳴らす。
「間抜けな息子め」
「……え?」
「これほど面白い催しを開いておきながら、我に何の報告もないとはな」
……いや。
報告するわけないだろ。
そもそも、あなたがこの教会を潰そうとしていたんじゃないか。
俺は、思わず口を開きかけた。
だが、お父様は俺の言葉など待たず、祭壇へ向かって歩き出した。
「……さて」
その途中。
山口組の男が、一人、進路を塞いでいた。
「おい、どけ」
「ああ? 何だ、てめ――」
「邪魔だと言っている」
――ドンッ!
「……ぐわっ!?」
お父様が軽く腕を払っただけで、男の身体が横へ弾かれた。
男は椅子にぶつかり、そのまま床に転がる。
……おいおい。
相変わらず、加減というものを知らないな。
礼拝堂が、再び騒然となった。
「な、何だ!?」
「大臣が人を吹っ飛ばしたぞ!?」
「どうなっているんだ!?」
観客たちは、目を丸くしている。
だが、俺だけは驚かなかった。
……当然だ。
お父様は、人間ではない。
悪魔の王なのだから。
「……おいおい」
山口組のボスが、低い声を漏らした。
「大臣様よ。ずいぶん好き勝手やってくれるじゃねえか」
お父様は、ゆっくりと振り返った。
「……何だ、汝は?」
「この辺りで商売している者だよ」
「……ほう」
お父様は、興味なさそうに頷いた。
「それで?」
「それで、じゃねえよ!」
ボスが、怒鳴り声を上げる。
「人の縄張りに踏み込んで、ただで済むと思ってんのか!?」
……ああ。
終わったな。
俺は、思わず額を押さえた。
よりによって、悪魔の王に縄張りを主張するとは。
この男、自分が誰に喧嘩を売っているのか、まったく理解していない。
「……縄張り?」
お父様は、首を傾げた。
そして、愉快そうに笑った。
「はははっ! 面白いことを言うではないか!」
「……何がおかしい!」
「汝ら人間は、実に滑稽だ」
お父様は、ゆっくりと両手を広げた。
「わずかな土地を奪い合い、そこに王国を築いたつもりになる」
そして、口元を吊り上げる。
「……我の前で、縄張りを語るとはな」
その瞬間。
礼拝堂の空気が、冷たくなった気がした。
……まずい。
お父様が、少しだけ本気になっている。
「……くそっ!」
ボスが、顔を歪めた。
「おい! やっちまえ!」
「へい!」
男たちが、一斉にお父様へ飛びかかった。
多勢に無勢。
普通の人間なら、ひとたまりもない状況だ。
だが。
相手が悪かった。
「……三下どもが」
お父様は、ため息を吐いた。
そして。
――ひゅっ。
軽く、指先を振った。
「……ぐわっ!?」
一人目の男が、足をもつれさせて転がる。
続いて、二人目。
「……がっ!?」
お父様が身体を半歩ずらしただけで、男は勢い余って椅子に突っ込んだ。
そして、三人目。
「……うおっ!?」
伸ばされた腕を取られ、見事な動きで床に投げられた。
……おいおい。
何だ、その動き。
優雅すぎるだろ。
まるで、社交ダンスでも踊っているみたいだ。
実際、お父様の白いスーツには、皺一つついていない。
「……ふん」
お父様は、袖口を軽く整えた。
「この程度か」
礼拝堂が、静まり返った。
観客たちは、ただ呆然としている。
清水神父でさえ、驚いたように目を見開いていた。
……まあ、そうなるよな。
大臣が、ヤクザを三人まとめて倒したんだから。
ニュースになったら、とんでもない騒ぎになるぞ。
「……くそっ」
ボスが、歯ぎしりした。
「ただで済むと思うなよ!」
「……ただでは済まぬ?」
お父様は、愉快そうに笑った。
「それはこちらの台詞だ」
そして、ボスを見下ろした。
「……さて、汝らに聞こう」
声が、少しだけ低くなる。
「なぜ、この教会で騒いでいる?」
「……決まってんだろ!」
ボスが、吐き捨てるように答えた。
「借金の取り立てだよ!」
「……借金?」
「ああ! この教会は、俺たちに二億円もの借金を抱えていたんだ!」
……おい。
また話を盛り始めたぞ。
俺は、思わず眉をひそめた。
「それを、弁護士だの契約だのと小細工しやがって!」
ボスは、清水神父を指さした。
「二千万円まで減らしやがったんだ!」
「……それは違います」
そこで、清水神父が静かに口を開いた。
「私が借りたのは、教会の修繕に必要な二千万円です」
神父は、ゆっくりと続ける。
「ところが、皆様は契約にない利息まで請求し、最終的には三億円もの返済を求めてきました」
「……うるせえ!」
「現在は弁護士を通じて、不当な請求を争っています。少なくとも、皆様が主張する金額を、そのまま支払う義務はありません」
清水神父の声は、穏やかだった。
だが、その言葉には、はっきりとした意志があった。
……そうだ。
この人は、ずっと戦ってきたんだ。
俺たちが絵を描いている間も。
弁護士に相談し、書類を集め、教会を守る方法を探し続けていた。
その努力を、こんな連中に踏みにじらせるわけにはいかない。
「……なるほど」
お父様が、ゆっくりと頷いた。
「つまり、汝らは法外な利息を要求していたわけだな」
「……そ、それがどうした!」
「……ふむ」
お父様は、顎に手を当てた。
「悪事を働くこと自体は、理解できる」
……理解できるのかよ。
俺は、心の中で突っ込んだ。
まあ、悪魔の王だしな。
「だが、やり方があまりにも稚拙だ」
お父様は、呆れたように首を振った。
「法に触れ、証拠を残し、挙げ句の果てには衆人環視の中で脅迫するとは……」
そして、冷たく笑った。
「汝らには、美学というものがないのか?」
……出た。
お父様の、美学論。
この人は、悪事にまで美学を求めるから厄介なのだ。
「……うるせえ!」
ボスが、怒鳴った。
「だったら、てめえはどうするってんだ!」
「……そうだな」
お父様は、少し考えるような仕草をした。
そして。
「……こうしよう」
足元に置いていた革鞄を、ゆっくりと開いた。
その瞬間。
「……え?」
俺は、思わず目を見開いた。
鞄の中には、分厚い札束が詰め込まれていた。
百万円の束が、何十、何百と重ねられている。
……おいおい。
何だよ、それ。
映画の中でしか見たことがない光景だぞ。
「……ここに、二億円ある」
お父様は、何でもないことのように告げた。
「……に、二億!?」
ボスが、目を見開いた。
観客たちも、ざわめき始める。
「……本物なのか?」
「こんな大金を、持ち歩いているのか?」
「大臣って、そんなに金持ちなのか……?」
……いや。
普通の大臣は、二億円なんて持ち歩かないと思うぞ。
この人が、普通じゃないだけだ。
「……受け取れ」
お父様は、鞄をボスの足元へ滑らせた。
「そして、この教会から失せろ」
「……え?」
俺は、思わず声を漏らした。
……待て。
ちょっと待て。
今、何と言った?
「……二億円を、やるのか?」
ボスが、疑わしそうに尋ねた。
「……ああ」
お父様は、あっさりと頷いた。
「ただし、条件がある」
「……条件?」
「清水教会に対する請求を、すべて終わらせることだ」
お父様は、ゆっくりとボスを見下ろした。
「弁護士を通じて、債権を放棄する書面を作成しろ。土地に関する権利も、すべて整理するのだ」
「……は?」
「二億円も受け取るのだ。それくらいは当然であろう?」
ボスは、しばらく黙り込んだ。
そして。
「……へへっ」
口元を歪めた。
「話がわかるじゃねえか、大臣さんよ」
「……ふん」
「おい、お前ら! 金を確認しろ!」
「へ、へい!」
男たちが、慌てて札束を確かめ始めた。
だが、あまりにも量が多い。
当然、その場ですべてを数え終えることなどできなかった。
結局、お父様は名刺を一枚取り出し、ボスに差し出した。
「詳細は、我の代理人を通して処理させる。金の確認も、正式な手続きも、そこで済ませろ」
「……わかったよ」
ボスは、鞄を抱えた。
「ありがとよ、大臣さん」
「……礼などいらぬ」
お父様は、冷たく言い放った。
「我は、汝らのような小物に興味がない」
そして。
「……二度と、この教会に近づくな」
その一言に、ボスの顔が強張った。
「……わ、わかった」
男たちは、慌てて礼拝堂を出ていった。
……何だよ、それ。
俺は、ただ呆然としていた。
あれほど苦しめられた借金問題が。
あれほど悩み、必死になって解決しようとしていた問題が。
お父様の一言で、終わろうとしている。
……信じられない。
◇
「……さて」
お父様は、何事もなかったかのように振り返った。
「ずいぶん、騒がせてしまったな」
そして、清水神父へ視線を向ける。
「……オークションの途中だったのではないか?」
「……ええ」
清水神父は、少し戸惑いながら頷いた。
「そうですね。皆様、お騒がせいたしました」
神父は、観客たちに向かって深く頭を下げた。
「まずは、倒れた椅子や机を元に戻しましょう」
その言葉に、俺たちも動き出した。
倒れた椅子を起こす。
ずれた机を整える。
床に落ちた札やパンフレットを拾い集める。
ソフィアも、子供たちと一緒に片づけを手伝っていた。
……まったく。
とんでもない騒ぎだったな。
だが。
不思議なことに、会場の空気は、少しずつ元に戻っていった。
人々は、再び席に着く。
そして、祭壇の前にある《ひまわり》へ視線を向けた。
……そうだ。
まだ、オークションは終わっていない。
「……では」
清水神父が、壇上に戻った。
「改めまして、最後の作品の競売を再開いたします」
会場が、静まり返る。
「フィンセント・ファン・ゴッホの《ひまわり》」
神父は、ゆっくりと作品を指さした。
「先ほどの最高入札額は、一億円でした」
……一億円。
俺は、思わず息を呑んだ。
そうだ。
この絵には、まだ一億円という値段がついている。
だが、今となっては、借金返済のために急いで売る必要はない。
……それなら。
俺は、少しだけ安心した。
ところが。
「――三億円」
……は?
俺は、思わず振り返った。
声を上げたのは、お父様だった。
白いスーツに身を包んだまま、悠然と札を掲げている。
「……さ、三億円!?」
清水神父が、目を見開いた。
観客たちも、騒然となる。
「……三億!?」
「さっきの三倍じゃないか!」
「いったい、何者なんだ……!」
……いや。
俺が聞きたいよ。
お父様。
何を考えているんですか?
ついさっき、二億円を払ったばかりだろ。
それなのに、今度は三億円?
……合計、五億円だぞ?
俺には、もう理解できなかった。
「……ほかに、入札される方はいらっしゃいますか?」
清水神父が、恐る恐る尋ねた。
だが、誰も手を上げない。
当然だ。
三億円という金額は、あまりにも大きすぎる。
「……では」
神父は、ゆっくりと息を吸った。
「こちらの《ひまわり》は、三億円で落札となります」
――拍手が起こった。
俺は、ただ呆然としていた。
……三億円。
昨日、俺が描いた絵が。
三億円。
……どういうことだよ。
「……ふん」
お父様は、満足そうに頷いた。
「なかなか、面白い買い物だったな」
そして、懐から小切手を取り出した。
「支払いはこちらで行おう。正式な受け渡しは、後日、代理人に手配させる」
清水神父は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼などいらぬ」
お父様は、軽く手を振った。
「我は、欲しいものを買っただけだ」
そう言い残すと、ゆっくりと出口へ向かっていく。
……待て。
俺は、慌てて立ち上がった。
「……お父様!」
その背中を追いかけた。
◇
教会の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
空には、薄い雲が広がっている。
梅雨入りを思わせる、湿った空気だった。
その中を、お父様は悠然と歩いていた。
「……お父様!」
俺が呼びかけると、お父様は足を止めた。
そして、面倒くさそうに振り返る。
「……何だ?」
その目が、俺を捉える。
「まだ生きていたのか、哲夫」
「……ひどい挨拶ですね」
「ふん。とっくに野垂れ死んだものと思っていたぞ」
……相変わらずだな。
この人は。
俺は、思わず苦笑した。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「……お父様」
俺は、真剣な表情で尋ねた。
「どうして、教会を助けたんですか?」
その言葉に、お父様は目を細めた。
「……何?」
「お父様は、以前、この教会を潰そうとしていたはずです」
俺は、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺が人間になることも、ソフィアと一緒にいることも、認めていなかった」
そうだ。
お父様は、ずっと俺を悪魔に戻そうとしていた。
俺の決意を嘲笑い、人間としての幸せなど無意味だと言い続けていた。
なのに。
「……それなのに」
俺は、拳を握りしめた。
「どうして、あんな大金を払ったんですか?」
お父様は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ふん」
鼻を鳴らした。
「勘違いするなよ、哲夫」
「……え?」
「我は、汝らを助けたわけではない」
その声は、冷たかった。
「我には、我の目的がある」
「……目的?」
「ああ」
お父様は、ゆっくりと微笑んだ。
「それを、汝に教える義理はない」
……やっぱりか。
俺は、少しだけ肩を落とした。
この人が、純粋な善意だけで動くはずがない。
それは、俺が誰よりも知っている。
だが。
「……一つだけ、教えてやろう」
お父様が、不意に口を開いた。
「……え?」
「汝の描いた《ひまわり》」
……っ!
俺は、息を呑んだ。
……今、何と言った?
「……お父様」
俺は、震える声で尋ねた。
「……知っていたんですか?」
「……当然であろう」
お父様は、呆れたように笑った。
「我を誰だと思っている?」
……そうか。
やっぱり。
この人は、最初から知っていたんだ。
あの《ひまわり》が、ゴッホの作品ではないことを。
俺が描いた、ただの模写であることを。
「……だったら」
俺は、思わず尋ねた。
「どうして、三億円も払ったんですか?」
お父様は、口元を吊り上げた。
「……面白いからだ」
「……面白い?」
「ああ」
お父様は、ゆっくりと教会を振り返った。
「あの絵は、実に興味深い」
その目が、鋭く光った。
「ゴッホの名を借りただけで、人々は一億円もの価値を見いだした」
……確かに。
俺は、黙って頷いた。
「だが、我が三億円を払ったことで、あの絵には新たな物語が生まれた」
「……物語?」
「そうだ」
お父様は、愉快そうに笑った。
「悪名高い大臣が、三億円で買い取った《ひまわり》」
……ああ。
そういうことか。
俺は、ようやく理解した。
お父様は、絵そのものだけを買ったわけではない。
その絵を取り巻く、人々の期待と噂を買ったのだ。
「……これで、美術市場は面白いことになるぞ」
お父様は、楽しそうに笑った。
「人々は、あの絵の真贋を巡って争うだろう」
「……っ」
「そして、いずれ誰かが気づく」
お父様は、俺を見つめた。
「……あれを描いたのは、ゴッホではないとな」
俺は、思わず拳を握りしめた。
……それって。
まずいんじゃないか?
「……お父様」
俺は、恐る恐る尋ねた。
「それを知っていて、買ったんですか?」
「……無論だ」
お父様は、平然と答えた。
「真作であると信じて買ったわけではない。我は、あの絵が引き起こす騒動を買ったのだ」
……なんて人だ。
俺は、思わず苦笑した。
やっぱり、この人は悪魔の王だ。
考えていることが、常人とは違いすぎる。
だが。
それでも。
「……ありがとうございます」
俺は、深く頭を下げた。
お父様が、わずかに眉を動かした。
「……何?」
「……ありがとうございました」
俺は、もう一度言った。
「理由が何であれ、お父様は、この教会を救ってくれました」
そうだ。
お父様の目的が何であろうと。
あの人が支払った金で、教会は守られる。
ソフィアも、子供たちも、安心して暮らせる。
それは、紛れもない事実だった。
「……ふん」
お父様は、鼻を鳴らした。
「くだらぬ」
そして、俺を見下ろした。
「我は、汝のために動いたわけではない」
「……はい」
「まして、神の家を守るためでもない」
「……わかっています」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「それでも、ありがとうございます」
お父様は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……まったく」
小さく、ため息を吐いた。
「人間になった途端、ずいぶんと甘くなったものだな」
……そうかもしれない。
俺は、思わず笑った。
昔の俺なら、こんなふうに頭を下げることなどなかっただろう。
感謝なんて、弱者のすることだと思っていた。
だが、今は違う。
誰かに助けられたなら、礼を言いたい。
それが、たとえ悪魔の王であっても。
「……好きに生きろ、哲夫」
お父様が、不意に言った。
「……え?」
「汝が人間として生きたいのであれば、勝手にすればよい」
その声は、どこか投げやりだった。
「我にとって、この程度の教会など、いつでも握り潰せる」
そして、冷たく笑った。
「だが、今はその必要がない。それだけのことだ」
「……お父様」
「勘違いするな。汝を認めたわけではないぞ」
お父様は、そう言い残した。
そして、背を向ける。
「……ではな」
教会の門の前には、白いスポーツカーが停まっていた。
お父様は、ゆっくりと運転席に乗り込む。
エンジン音が響いた。
そして。
白い車は、夕暮れの街へと走り去っていった。
「…………」
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
……まったく。
本当に、勝手な人だ。
俺を悪魔として育てておきながら。
人間になった俺を散々馬鹿にしておきながら。
最後には、教会を救ってしまう。
……何なんだよ。
俺は、思わず笑った。
だが、なぜだろう。
目の奥が、少しだけ熱くなった。
「……ありがとうございます、お父様」
もう一度、小さくつぶやいた。
その声は、もう届かない。
それでも、俺は頭を下げた。
……ただし。
あの人が何かを企んでいることも、忘れてはいけない。
悪魔の王が、五億円もの金を動かしたのだ。
それが、何の意味も持たないはずがない。
……きっと、また何かが起こる。
だが。
今だけは。
今だけは、素直に感謝してもいいだろう。
◇
教会へ戻ると、オークションは再開されていた。
清水神父が描いた模写作品や、ゴッホ風の創作絵画が、次々と紹介されている。
「こちらは、私が描いた《アルルの夕暮れ》です」
「十万円!」
「十五万円!」
「二十万円!」
……おお。
まだ、盛り上がっているじゃないか。
俺は、思わず微笑んだ。
さっきまでの騒ぎが、嘘のようだった。
観客たちは、再び絵画を楽しんでいる。
それぞれの作品を眺めながら、感想を語り合っている。
……そうか。
これが、美術の力なのかもしれない。
絵画は、人を集める。
人々に、感動を与える。
そして、ときには、人の人生を変える。
……俺も。
少しだけ、その意味がわかった気がした。
「……哲夫さん」
不意に、声がした。
振り向くと、ソフィアが立っていた。
「……お帰りなさい」
「……ああ。ただいま」
俺は、笑って答えた。
ソフィアは、少しだけ心配そうに俺を見つめた。
「……大丈夫でしたか?」
「……ん?」
「先ほどの方と、お話をされていたのでしょう?」
……ああ。
そうか。
ソフィアには、お父様が何者なのか、詳しく話していなかった。
「……大丈夫だよ」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「ちょっと、昔の知り合いと話していただけだ」
「……そうですか」
ソフィアは、それ以上追及しなかった。
ただ、優しく微笑んだ。
「……よかったです」
……まったく。
この子は、本当に優しいな。
俺は、思わず胸が温かくなった。
◇
「――皆様」
やがて、清水神父が声を上げた。
「本日のオークションは、これにて終了とさせていただきます」
礼拝堂に、拍手が響いた。
「本日は、清水教会のためにお集まりいただき、誠にありがとうございました」
神父は、深く頭を下げた。
「皆様のおかげで、私たちは大きな一歩を踏み出すことができました」
再び、拍手が起こる。
観客たちは、満足そうな表情を浮かべていた。
落札した作品について、熱心に語り合う者。
写真を撮る者。
清水神父に感想を伝える者。
それぞれが、思い思いの時間を過ごしていた。
……よかった。
俺は、ようやく肩の力を抜いた。
教会は、守られた。
少なくとも、今すぐ立ち退きを迫られることはない。
そして。
俺たちが描いた作品は、人々に届いた。
……贋作だけどな。
そこだけは、少し複雑だった。
だが、清水神父の模写作品を喜んで買ってくれた人々の姿を見ると、ひとつのことがわかった。
絵画の価値は、必ずしも作者の名前だけでは決まらない。
その絵を見て、何を感じるのか。
どんな思い出を重ねるのか。
それもまた、美術の価値なのだろう。
……そうだ。
俺が描いた《ひまわり》も。
たとえゴッホの真作でなくても、誰かの心を動かすことはできたはずだ。
……そう信じたい。
「……成功しましたね」
ソフィアが、隣で微笑んだ。
「……ああ」
俺は、頷いた。
「成功したな」
「ふふっ。哲夫さん、本当にお疲れ様でした」
「……いや」
俺は、少しだけ首を振った。
「俺だけの力じゃないよ」
そうだ。
清水神父がいて。
ソフィアがいて。
子供たちがいて。
そして、あのお父様がいた。
みんながいたから、ここまで来られた。
「……ソフィア」
「……はい?」
俺は、彼女を見つめた。
金色の髪。
澄んだ青い瞳。
そして、穏やかな微笑み。
……ああ。
やっぱり。
俺は、この子が好きなんだ。
悪魔だったころには、決して理解できなかった感情。
誰かを大切にしたいという思い。
その人の幸せを願う気持ち。
……それが、今の俺にはある。
「……ありがとう」
俺は、小さく言った。
「……え?」
「ソフィアがいてくれたから、俺はここまで頑張れた」
ソフィアは、少し驚いたように目を見開いた。
そして。
「……ふふっ」
優しく微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとうございます」
その笑顔に、俺の胸が熱くなる。
……まったく。
本当に、敵わないな。
俺は、ゆっくりと祭壇へ目を向けた。
そこには、まだ《ひまわり》が飾られている。
橙色の背景。
五輪の花。
燃えるような色彩。
……俺が描いた、ひまわり。
あの絵を描いたとき、俺は願った。
この教会を守りたい。
ソフィアを悲しませたくない。
そして。
いつか、彼女と一緒に幸せになりたい。
……その願いは。
少しだけ、叶ったのかもしれない。
俺は、そっと拳を握りしめた。
……決めた。
もう二度と、悪魔の世界には戻らない。
誰かを欺き、傷つけることを当然とする生き方には、戻らない。
これからは、自分の意志で生きる。
ソフィアと一緒に。
この教会で。
人間として。
「……哲夫さん?」
ソフィアが、首を傾げた。
「……どうしました?」
「……いや」
俺は、笑った。
「ちょっと、考え事をしていただけだ」
「……そうですか」
ソフィアは、優しく頷いた。
そして。
彼女の手が、俺の手にそっと触れた。
「……っ」
俺は、思わず息を呑んだ。
ソフィアは、何も言わなかった。
ただ、隣に立っている。
その温もりが、俺の手に伝わってきた。
……ああ。
これでいい。
俺は、心の中でつぶやいた。
悪魔の王になる必要なんてない。
世界を支配する必要もない。
莫大な富を手に入れる必要だってない。
ただ。
この小さな教会で。
大切な人たちと、穏やかに暮らしていければ。
……それだけで、十分だ。
俺は、そっとソフィアの手を握り返した。
彼女は、少しだけ驚いたように俺を見た。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
……ありがとう、ソフィア。
俺は、心の中でつぶやいた。
君に出会えたことが、俺にとって最大の幸運だ。
たとえ、この先にどんな困難が待っていたとしても。
俺は、君を守り続ける。
そう誓った。
――だが。
このときの俺は、まだ知らなかった。
お父様が三億円で買い取った《ひまわり》が、これからどれほど大きな騒動を引き起こすことになるのか。
そして。
あの男が、なぜ自ら教会へ足を運んだのか。
その本当の理由を。
……知る由もなかったのだ。




