花火が終わるまで-Bis das Feuerwerk endet-
ドイツ連邦共和国北部の街ハンブルク。
元日の午前三時五十二分。気温は零度近く、北海から来る湿った冷気が石造りの街に溜まっていた。
音を消したテレビでは、内アルスター湖の上に花火が開いている。
真田恒一はソファに浅く腰を掛け、読みかけの地方紙を膝に置いていた。
テーブルには、氷の溶けたトニックウォーターが半分残っている。
シュルンプの石畳で爆竹が弾け、その音が裏庭を囲む煉瓦壁に跳ね返った。
地方紙の下には、十年前の映画祭会場を印した市街地図があった。
前日の午後、真田はそこまで歩いた。
ただ建物を見ただけで、誰にも連絡しなかった。
呼鈴が鳴った。
真田はテレビを消し、旅行鞄の底からワルサーP99を抜いた。
薬室に一発、弾倉に十五発、予備弾倉は二本。
真田が所属する民間軍事会社セイブル・インターナショナル・リスクでは、休暇先を申告した契約要員に、現地協力者を通じて護身用装備を貸していた。
P99はレーパーバーンの空気銃店で受け取ったものだった。
玄関の脇に立ち、インターホンを押す。
「三番倉庫は閉鎖中だ」
仕事の相手なら、決められた返答をする。
「コウイチ。ハンナよ」
十年ぶりの声だった。それでも真田は錠に触れない。
「十年前、俺の便は十時半だった」
「十時四十五分よ。朝食には来られたから」
真田は扉を細く開けた。
ハンナ・フォークトは濡れた長い髪を頬に貼りつかせ、革の書類鞄を胸に抱えていた。
眼鏡の左側にはひびが入り、コートの袖に黒ずんだ血がついている。
白い息が真田の肩を越えて室内へ流れた。
二十歳だった顔から丸みは消えていたが、答えを待つときに顎をわずかに上げる癖は変わっていない。
十年前、自衛隊を辞めた真田は海外で民間軍事会社を探し、なければ傭兵になるつもりだった。
かつて映画監督を志したことのある彼に、監督になった旧友がハンブルクの映画祭への同行を頼んだ。
現地での手伝いをする一週間だけの旅だった。
ハンナは日本語を学ぶ大学生で、日本側ゲストの通訳兼司会を務めていた。
上映後の会場を一緒に片づけ、夜ごと街を歩いた。
戦争映画の銃声は、まだスクリーンの中だけにあった。
二人の関係は、始まる前から終わる日だけが決まっていた。
真田は彼女の背後を確認し、室内へ入れた。
貸家は十九世紀末の集合住宅の裏庭に建つ小さな別棟だった。
玄関から勝手口まで短い廊下が通り、左に居間と台所、右に寝室と浴室がある。
窓はすべて裏庭に面していた。
「あと四時間、時間を稼いで」
ハンナは鞄を下ろさなかった。
真田は彼女を居間の壁際の椅子へ座らせ、玄関と勝手口の両方が見える位置に立った。
「最初から話してくれ」
ハンナは独立系調査報道機関エルベ・リサーチの記者になっていた。
彼女は同僚のヨナス・ケラーと港へ入った夜から話し始めた。
二人が追っていたのは、ハンブルク港を経由する違法輸送だった。
救援物資として申告されたコンテナには、武器部品と監視装置が積まれていた。
二人はその実態を示す内部文書――通称ノルトカーイ文書の原本を入手した。
午前八時、大学地区のマルテンス法律事務所で、エヴァ・マルテンス弁護士と複数の報道機関へ同時に引き渡す。
一社を圧力で潰しても、記事を止められなくするためだった。
「なぜ原本を運ぶ。画像を送れば済む話だろう」
「改竄した偽物だと言われるだけよ。原本なら連続番号も訂正印も、筆圧も残る」
「ヨナスは」
「迎えに来た。でも途中で連絡が切れた。車にはいたけど、ドアは開けなかった」
門の向こうで自動車のドアが閉まる音がした。
真田は居間の照明を消し、台所の灯りだけを残した。
ハンナを煉瓦壁の陰へ移す。
玄関が叩かれ、ドイツ語で警察を名乗る声がするが、窓外には青色灯の光も無線音もない。
男の無線から低い声が漏れた。
『クランツ、正面からだ。コヴァチは庭へ』
呼ばれた二人はいずれも元軍人だろう。
年越しの騒音に紛れ、正面と裏庭から挟む手順に迷いはない。
錠が壊され、ティモ・クランツが拳銃を構えて廊下へ踏み込んだ。
身を低くし、照準もぶれていない。
外でロケット花火が連続して破裂した。
真田はクランツの銃口を木枠へ押しつけ、P99で胸元へ三発撃ち込んだ。
クランツは引き金を引けないまま崩れた。
ハンナは叫ばなかった。
眼鏡を外し、袖でレンズを拭いた。
「十年前の質問、覚えてる?」
映画祭で戦争を扱った作品が上映された夜、彼女は真田が元自衛官だと知った。
軍人なら人を殺したことがあるのか、と尋ねた。
「覚えている。殺さないのが自衛隊だと答えた。あのときは本当だったさ」
ハンナは床の男を見た。
真田はクランツから通信機だけを外した。残り十三発。
「連中が命懸けで取り戻しに来たものを見せろ」
ハンナは居間の床に鞄を置いた。
船荷証券と港湾会社の貨物台帳を取り出し、同じコンテナ番号が記された箇所を並べる。
片方では救援物資として北アフリカへ、もう片方では軍用部品として制裁対象地域へ送られていた。
最後に、黒い表紙の手帳を真田へ渡した。
「税関職員への賄賂と、情報を漏らした人間を捜す回収班への支払い」
真田は手帳をめくる指を止めた。
セイブル・インターナショナル・リスク。
資料回収班への支払先として、自分が所属する会社の名が記されていた。
真田はもう一度、支払日と受取人の欄を確かめた。
「セイブルは輸送警備だけじゃない。内部の人間を特定して、流出した資料を回収していた」
ハンナは手帳を受け取り、コートの内側へ入れた。
船荷証券と台帳だけを鞄へ戻す。
「ヨナスと現地連絡員を追った。レーパーバーンの武器デポも、この貸家も、その男の記録から知った。ハーゲンはセイブルが表に出せない回収を請け負ってる」
「俺が会社へ渡すとは考えなかったか」
「考えた。追ってくる三人より、あなたのほうが強いと思った。でも、会社より私を選ぶかは分からなかった」
台所の灯りが消え、冷蔵庫の低い作動音も止まった。
家全体の電源を落とされた。
窓の外で花火が瞬き、その光に庭側の人影が浮かぶ。
ハンナは声を出さず、真田の袖を引いた。
それから囮の鞄を台所へ滑らせる。
勝手口が開き、ミラン・コヴァチが壁を背にして入った。
鞄へ手を伸ばしながらも、銃口は居間から外さない。
ハンナが台所の椅子を蹴った。
コヴァチの視線が一瞬だけ動く。
真田はコヴァチの胸へ二発、倒れかけた頭部へ一発撃った。
コヴァチは鞄の横へ沈んだ。
残り十発。
その直後、中庭の暗がりから一発が飛んだ。
真田の左脇が壁へ叩きつけられる。
撃ち返したときには、射手は消えていた。
真田は残弾のある弾倉を抜き、十五発入りの予備へ替えた。
薬室の一発を合わせて十六発。
もう一本は上着の内側に残した。
浴室で、ハンナが傷へタオルを押し当てた。
指は冷え切っていたが、力は緩めなかった。
「三人目は特別なのね」
「二人を先に入れた時点で分かる」
クランツの通信機が鳴った。
『K1、聞こえているか』
恒一をもじった、セイブルの任務で使うコールサインだった。
声の主はアルノ・ハーゲン。
真田が国外任務で一度だけ組んだ男で、当時は欧州担当の現場指揮官だった。
『レーパーバーンの箱は返されていない。会社はお前がまだハンブルクにいると知っている。女と書類を渡せ。二人の死体はこちらで処理する』
「悪いが、俺は休暇中だ」
『それが答えか』
「勤務時間外だという意味だ」
真田は通信機を切った。
午前六時を過ぎると、花火の間隔が長くなった。
ハーゲンは入ってこない。
真田の出血と、銃声を隠す音が消えるのを待っている。
ハンナはタオルを結び直した。
「一週間の関係だった?」
「そう思っていた」
「思っていたのは、あなただけよ」
真田は答えなかった。
午前七時三十八分。
窓の外の黒が薄くなり、花火は止んでいた。
玄関の錠が静かに外れた。
ハーゲンは二つの死体と血の跡を見てから、真田へ銃口を向けた。
「花火は終わった。今撃てば、誰かが銃声だと気づく」
台所の鞄を確かめ、帳簿がないと見抜く。
銃口がハンナへ移った。
「銃を置け、サナダ」
真田はP99を床へ置いた。
ハーゲンが近づく。
ハンナは逃げず、鞄の肩紐を相手の腕へ絡めた。
そのとき、裏庭で燻っていた連発式の爆竹が弾け始めた。
ハーゲンの目が窓へ動き、ハンナが身を伏せた。
真田は床のP99を拾うと、迷わずハーゲンに銃口を向けて引き金を引いた。
胸部で止めず、頭部へ銃口を移して撃ち続ける。
スライドが後退したまま止まるまで、指を緩めなかった。
銃声と爆竹が途切れた。
遠くのサイレンが、こちらへ向きを変えた。
「七時四十二分だ」
ハンナは黒い手帳を確かめ、原本を鞄へ戻した。
真田はハーゲンの上着から車の鍵を抜いた。
ハンナが車を出した。
元日のハンブルクは、まだ夜と朝の境目にあった。
シュルンプの交差点では信号だけが色を変え、清掃車が濡れた花火の筒や割れた瓶を路肩へ寄せている。
閉じたカフェの前には若者が眠り、火薬の煙が冬の湿気に残っていた。
真田は助手席でミラーと後方を見た。
バックアップと車の追跡装置を疑い、大学地区に入る手前で車を捨てた。
最後の通りだけを、二人は並ばずに歩いた。
午前八時前、マルテンス法律事務所の鉄扉が開いた。
灰色の髪を短く切ったエヴァ・マルテンスが、内側から手を伸ばす。
「ハンナ、早く。全員そろってるわ」
ハンナは書類鞄を渡さず、真田を振り返った。
「四時間で、一週間分は取り戻せたかな」
彼女は初めて笑った。
「まだまだよ」
ハンナは真田を抱きしめた。
傷に触れないよう腕をずらし、顔を上げた。
「明けましておめでとう」
そのまま唇を重ねた。
新年の挨拶にしては、長い接吻だった。
「記事は読む」
「でもドイツ語よ」
「十年前よりは読めるさ」
エヴァがハンナを中へ引いた。
鉄扉が閉じる前にハンナがもう一度通りを見たとき、真田の姿はなかった。
通りには、濡れた花火の燃え殻だけが残っていた。




