日暮公園の男-The Man in Higurashi Park-
夕方の台所で、石田美紀が味噌汁の火を弱めた。
リビングでは、テレビが緑ヶ丘ニュータウンから二つ隣の市で起きた児童失踪事件を伝えている。
小学五年生の男児が、前日の午後六時前、公園で遊んでいる姿を最後に行方が分からないという。
画面が住宅地の児童公園へ切り替わると、黄色い規制線の向こうを警察官が歩く姿が映っている。
テレビの映像にヒグラシの声が混じり、窓の外からも同じ声が聞こえた。
その声に、美紀は菜箸を鍋の縁に置く。
食卓の端には、小学五年生の息子、石田悠斗の水筒が残っている。
二十五年前のその日も、日暮公園では同じヒグラシが鳴く。
小学五年生だった美紀は、藤井奈緒と日暮公園でよく遊んでいた。
奈緒の両親は共働きで、放課後は一人で過ごすことが多い。
子供たちの間には、日が暮れても公園に残っていると「ひぐらし公園おじさん」に連れていかれる、という噂があった。
「そろそろ帰ろう」
「まだいいよ」
奈緒は鉄棒の近くにいる男を見て笑う。
大きな眼鏡に、薄くなった髪。
開いたシャツの下から白い肌着が見える。
少し背を丸めた、中年の男だ。
「このおじさん、昔の虫の話、いっぱい知ってるんだよ」
男は美紀にも軽く頭を下げる。
「そろそろ帰ろうよ」
美紀がもう一度促すと、奈緒は男の方を見て笑った。
「美紀は先帰ってて」
美紀は少し迷ってから、公園の出口へ向かう。
手前で振り返ると、奈緒は男と並び、奥の坂へ歩いていた。
男は奈緒の手を引いてはいない。
奈緒も助けを求めていない。
翌日以降、奈緒が学校へ来ることはなかった。
警察も公園や幹線道路沿いを捜索したが、手掛かりは見つからない。
しばらくして、奈緒の両親も緑ヶ丘を離れた。
近所では娘のことで住んでいられなくなった、借金があったらしい、夜逃げじゃないか、と話が変わっていく。
だが美紀の母だけは、その噂を否定した。
「奈緒ちゃんのお母さん、探しに行くって言ってた」
緑ヶ丘を出る前、奈緒の母親はもう一つだけ言い残していた。
「似た話が、ほかの場所でもあるみたいなの」
玄関の鉄扉が開く音がした。
「ただいま」
美紀の夫、石田修平がネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた。
「あら、今日は早いのね」
「そりゃ残業がない日もあるさ」
石田は鞄を置き、テレビに目を向ける。
「これ、何のニュース?」
「失踪事件よ。公園で遊んでた子供さんが消えちゃったんだって」
「やっぱり子供なんだなぁ」
「やっぱりって、何が?」
「僕の地元に昔あったんだよ。夕方まで遊んでると、知らないおじさんに連れていかれるって話」
「そんな話があったの?」
「似た話はどこにでもあるらしいよ。名前は違うけど、まあ、子供への注意喚起みたいなもんさ」
「どこにでも……」
「でも、本当に子供が行方不明になると、さすがに気味が悪いよな」
「実際にあったの?」
「僕の街でも一人いなくなったって聞いた」
美紀は鍋の蓋を閉じた。
「そうよ!」
「どうしたの」
「奈緒のお母さんも、似た話がほかの街にもあるって言ってた!」
「奈緒?」
「小学校の時にいなくなった……前に話したでしょ」
「ああ、公園で消えたって子か」
石田は洗面所へ向かった。
水音が止み、石田が戻って来た。
ふと、食卓の水筒に目が留まった。
「あれ、悠斗は?」
「日も長いし、まだ遊んでるんじゃない?」
「ならいいが、もう午後六時過ぎてるぞ」
美紀が壁の時計を見る。
午後六時十八分。
悠斗は午後五時半のチャイムで友達と別れ、午後六時までには帰宅する。
遅れる時は必ず連絡する決まりだ。
美紀はスマートフォンを取った。
電話は呼び出しに入らない。
「電源は?」
「入ってるみたいだけど、電話だけ繋がらないの」
「じゃあ、位置情報は?」
アプリを開くと、最終更新は午後五時四十一分。
緑ヶ丘中央緑道で止まっている。
その先には日暮公園がある。
美紀は画面を石田へ向けた。
「……日暮公園!」
石田が美紀を見る。
「奈緒ちゃんが消えたっていう場所か」
「うん……修平くん、私に行かせて」
石田は上着を手に取った。
「僕は学校と友達の家を回ってくる」
「頼むわ」
「見つけたらすぐ連絡。怪しい奴がいたら警察だ。ひとりで無茶するなよ」
「分かった」
美紀は台所へ戻り、味噌汁の火を止める。
テレビでは、失踪事件の続報が流れたままだ。
足早に家を出た石田を追うように、美紀も玄関の鍵を掴んで外へ走った。
日暮公園に人影はない。
ブランコの鎖が風に鳴り、坂の下から幹線道路の走行音が上がってくる。
ヒグラシの声が降る木立の向こう、砂場のそばに悠斗がいた。
その隣には、中年の男がいる。
二十五年前と同じ大きな眼鏡。
同じ薄い髪。
同じ白い肌着と、胸元の開いたシャツ。
背中まで、記憶と同じ角度で少し丸い。
「悠斗!」
悠斗が顔を上げる。
「ママ!」
こちらへ二歩進み、男を振り返った。
「このおじさん、昔の緑ヶ丘のこと、すごい知ってるんだよ」
「悠斗、こっちおいで」
悠斗は素直に美紀の横へ来る。
男は追わない。
両手を腹の前で重ね、美紀へ軽く会釈した。
「悠斗くんのお母さんですか」
「はい」
男の表情が少し和らぐ。
「そうですか、それはよかった」
美紀は悠斗の肩に手を置き、少し力を込めた。
「あの……」
「はい?」
「二十五年前にも、ここにいましたよね」
「いいえ」
「いました!」
美紀は男の顔から胸元へ目を移す。
「顔も眼鏡も、その服も……二十五年前と全て同じです」
男は首を少し傾ける。
「それは、そうでしょうね」
「いったいどういう意味ですか」
「それは私の前任者でしょう。ここへ来る時、私たちは同じ姿を使いますから」
美紀は悠斗の肩から手を離さない。
「藤井奈緒という女の子を知りませんか」
「名前だけでは分かりません」
「二十五年前、この公園からいなくなった十歳の女の子です」
男はしばらく美紀を見てから口を開いた。
「その条件でしたら、記録があります」
「奈緒は、どこにいるんですか」
「保存されています」
「生きてるんですか」
返事までに少し間がある。
「その質問に、あなた方の言葉で正確に答えることは難しいですね」
「何のために、子供を連れていくんですか」
「残すためです」
「何をですか」
「人間をです」
男は公園の向こうに並ぶ団地へ顔を向けた。
「土地、言葉、暮らし方、家族の形、子供の遊び、全ては時代とともに変化します。ですから失われる前に、その時代の人間を残すのです」
「標本みたいに、ということですか?」
「あなた方の言葉では、それが一番近いと思います」
「この街だけじゃないんですね」
「はい」
「どうして奈緒だったんですか」
「恐らく、周囲への影響が小さいと判断されたのでしょう」
「影響?」
「一人でいる時間が長く、帰宅を細かく確認されず、家庭や地域との接触が少ないなど、採集にはそこにある社会を大きく変えない個体が選ばれます」
「奈緒の両親は共働きだった」
「それは記録にもあります」
「でも、あの人たちは仕事も生活も捨てて、奈緒を探しに行きました」
男の返事が止まる。
道路の音だけが坂の下を流れていく。
「そうでしたか」
「分からなかったんですか」
「分からないことはあります、我々にも」
「奈緒は嫌がりませんでしたか?」
「当時の担当は私ではありません」
「記録には残っていませんか?」
「拒否したとはありません」
「帰りたいとも?」
「ええ、帰還を希望した記録もありません」
美紀は男の肩越しに坂を見る。
二十五年前、奈緒はあそこを自分の足で下りていった。
泣き声も、助けを呼ぶ声も聞こえない。
「奈緒、自分でついて行ったんだ……」
男は答えない。
悠斗が美紀の袖を引く。
「ママ、このおじさん、悪い人じゃないよ」
「うん、分かってる」
美紀は悠斗の髪に触れ、額と腕を確かめる。
傷はない。
男は二人を静かに見てから口を開いた。
「この子には、帰る場所があるようですね」
「どうして悠斗に声をかけたんですか」
「一人で帰るところでしたから、声を掛けました。普通に話をしていただけで、まだ判断の途中でした」
男は悠斗へ目を向ける。
「でも、お母さんがお迎えに来られたなら、私の判断が足りなかったようです。この子はお母さんにお任せします」
「おじさん、もう帰るの?」
悠斗が男を見る。
「お母さんが迎えに来てくれましたからね」
男は悠斗に笑いかけた。
「悠斗くん、お母さんを大事にね」
悠斗は小さく頷く。
男は美紀にも頭を下げた。
「では、私はこれで。他の場所で探さねば」
そのまま坂の方へ歩き出す。
美紀は悠斗の手を握る。
男は坂の下へ消えるまで、一度も振り返らなかった。
帰宅途中、美紀は石田へ連絡した。
石田は学校と友人宅を回り、悠斗が午後五時半に友達と別れたところまで確認していた。
その夜、悠斗が寝たあと、美紀は日暮公園で聞いた話を石田に伝えた。
石田は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「悠斗は、どうして連れていかれなかったんだろう」
「私が迎えに行ったから。あの人、『この子には帰る場所がある』って」
石田は少し黙った。
「じゃあ、帰る場所がないと判断した子を探してるのか」
「……たぶん」
美紀はカップの縁に指を添える。
「やっぱり奈緒は、自分で行ったのかもしれない」
「でも、まだ十歳だったんだろう。そんな判断できたのかな」
「彼らは周りへの影響が少ない子を選ぶんだって」
「奈緒ちゃんの親は生活まで捨てて探したんだよね?」
「うん」
「じゃあ、その判定は外れだった、ってことだ」
石田は廊下の奥にある悠斗の部屋を見る。
「日暮公園は通らせられないな」
「そうね……もう少し大人になるまでは」
美紀はそっと悠斗の部屋の扉を閉じた。
翌日の夕方、テレビがまた子供の失踪を伝えている。
今度は別の市だ。
小学四年生が、前日の午後六時ごろ、公園で遊ぶ姿を最後に行方が分からないという。
窓の外でヒグラシが鳴く。
昨日の男の「他の場所で探さねば」が耳に甦る。
「ママ」
隣の部屋から悠斗が顔を出す。
美紀は、そこにいる息子を見た。
テレビの中では、知らない子供の捜索が続いていた。




