悪役令嬢ですが、すべてのご指摘を反映した結果、第一話が始まらないまま四十七年が経ちました
婚約破棄を止めたのは、真実の愛ではなく、天井に浮かぶ〈ご指摘〉だった。
■第一部 婚約破棄が始まらない■
「アンネ=ゾフィー、君との婚約を――」
そこで、王太子ヘルベルトの声が止まった。
卒業祝賀会の大広間では楽団が演奏をやめ、貴族たちが息を呑んでいる。
天井に、一行の文字が浮かんでいた。
《政略結婚なのに、本人の一存で破棄できるのおかしくない?》
前世で婚約破棄の物語を何冊も読んだが、開始前に止められるものは初めてだった。
「……もっともだな」
「ええ」
我が公爵家は王国西部の穀倉地帯を治めており、婚約は両家の同盟でもある。
関係各家を交えた正式な協議が決まった。
《そもそも、なんでこんな馬鹿が王太子なの?》
「それも、もっともだ」
ヘルベルトは王位継承権を返上した。
潔い方だった。
《簡単に責任放棄しすぎ》
返上は撤回された。
潔さだけでは国を治められない。
聖女ヴィクトリアが祭壇に据えた〈神託水晶〉は、王国の大事を天上へ配信する。
支持を集めた視聴者の声は、こうして文字となって現れる。
国王はすべてのご指摘を反映せよと命じた。
実務を担う〈王立ご指摘反映局〉が設けられ、その日から水晶は私の暮らしを追い続ける。
祝賀会は延期された。
■第二部 悪役令嬢にも聖女にもなれない■
最初に開かれたのは、私がヴィクトリアを虐めたという告発の調査会だった。
《証拠も調べずに断罪するな》
証人を集め、手紙と当日の行動を照合した結果、私は無実と認められた。
ヴィクトリアの証言に嘘があったわけではない。
階段から落ちた彼女を私が見下ろしていたのは事実だが、到着したのは転落のあとだった。
彼女が私を恐れていたことと、私が突き落としたことは別の話である。
ヘルベルトは謝罪し、ヴィクトリアも頭を下げた。
《悪役令嬢なのに、全然悪役じゃない》
私は翌日、ヴィクトリアの靴を隠した。
《主人公が本当に悪いなら、被害者面して逆転するのは違うだろ》
靴を返して謝罪し、相応の処分を受けた。
《善良な聖女を、わざわざ悪人にする展開も飽きた》
「私、悪人にならなくていいんですね」
ヴィクトリアは胸を撫で下ろした。
「もちろんですわ」
私たちは握手した。
これで断罪は不要である。
正式な協議を経て、ヘルベルトとの婚約は円満に解消された。
領地間の協定は別の条約となり、損失も精査されている。
《周りの大人、何してたの?》
大人たちも仕事をした。
《重要な情報が都合よく伝わらないの、おかしい》
議事録が関係各所へ配られ、行き違いもなくなった。
■第三部 追放もざまぁも成立しない■
私は王都を離れ、辺境へ移ることにした。
《なんで有能な人間を追放するんだよ》
「追放ではなく、自発的な転居です」
父が説明すると、旅程表から「追放」の二文字が消えた。
実家の支援を受けた馬車の旅で、特に見返したい相手はいない。
その途中、迷宮攻略を生配信している勇者一行に出会った。
勇者は視聴者の前で、補給担当を役立たずと罵り、追放しようとしている。
《迷宮の中で補給担当を外すの、安全管理どうなってる?》
《一緒に冒険していて、能力が分からないわけないだろ》
勤務記録を確認すると、彼は野営地の選定、食糧調達、装備の修繕まで担っていた。
《説明しなかった本人にも問題がある》
補給担当は業務を文書にし、勇者は謝罪した。
契約と報酬の見直しにより、追放配信は業務改善報告へと姿を変える。
《だったら最初からそうしろよ》
反論はない。
辺境で私を迎えたのは、冷酷無慈悲と恐れられる黒騎士クラウディオ公爵だった。
《怖い評判なのに、会ったら都合よく完璧な男なんでしょ》
調査の結果、クラウディオは本当に冷酷だった。
私は帰りの馬車を手配した。
《なんでそんな相手に嫁がせるの? 家族は何を調べた?》
父は謝罪した。
ただし、私は領地視察に来ただけで、縁談は最初から存在しない。
クラウディオは部下への不当な処罰を追及され、職を解かれた。
《ざまぁが軽すぎる》
被害が再調査された。
《一族まで巻き込むのはやりすぎ》
無関係な親族は対象から外された。
《被害を描かずに処罰だけされても》
公開範囲は、新設の委員会が決める。
私は宿で待った。
いつしか、季節は秋になっていた。
■第四部 成り上がれない■
待つ間に、町で菓子屋を開こうと思った。
前世で食べたプリンなら、きっと売れる。
《現代知識って、そんなに正確に覚えてる?》
卵と牛乳と砂糖を使うことは知っていたが、配合は知らなかった。
《異世界の人間が、今まで誰も思いつかなかったの?》
料理人の店には、すでに似た菓子があった。
味もよく、私はその店に弟子入りする。
隣のパン屋では、アンドレという青年が朝早くから窯に火を入れていた。
《才能が認められるの早すぎ》
最初の一年は皿を洗った。
《努力の過程を飛ばすな》
翌年も皿を洗った。
《同じことばかりで話が進まない》
洗い方を工夫した。
《そんな些細なことで、周囲が絶賛するのは不自然》
誰も絶賛しなかった。
師匠が「そこの汚れ、残ってるよ」と言った。
私は洗い直した。
《スローライフって言いながら事件ばっかりじゃん》
事件を起こさないために、朝起きて働き、帰って寝た。
《他人の日常を延々見せられても面白くない》
そこで、町に学校を作ろうと思った。
《教師は? 教材は? 予算は?》
私は黙った。
翌日から、町役場へ通って土地と教師と会計を調べる日々が始まる。
《反対する人を馬鹿や悪人にするな》
子供が働かなければ食べていけない家には、先に生活を支える仕組みが必要だった。
《現代人が一人来ただけで、社会が簡単に変わるわけない》
簡単には変わらず、五年かかった。
《時間を飛ばして、都合よく成功させるな》
五年分の会議録が添付された。
《説明が長い》
要約した。
《肝心なところを省くな》
要約に注釈をつけた。
その注釈を保管する建物が、町の学校より先に完成する。
■第五部 恋愛で人生は終わらない■
学校が開く頃、私はアンドレと親しくなっていた。
一度助けてもらったから恋に落ちたわけではない。
《一回のイベントで惚れるの、早すぎ》
そう言われないよう、日々の付き合いを重ねた。
アンドレは寝坊をするし、計算を間違え、忙しいと返事も雑になる。
けれど、私が話すときは、途中で答えを決めずに聞いてくれた。
《欠点があると書けば、人間味が出ると思ってる?》
私たちは働き、喧嘩をし、翌朝にはそれぞれの店を開けた。
《こんな男のどこがいいの?》
私は好きなところを説明した。
《作者が説明しすぎ、描写で伝えて》
説明をやめ、アンドレと焼きたてのパンを半分に割った。
黙って食べる時間が好きだった。
《主人公、受け身すぎる》
私から結婚を申し込んだ。
《恋愛で幸せになれば、全部解決ってこと?》
仕事と家のことを何度も話し合ってから、私たちは結婚した。
結婚しても、皿とパン生地と学校の帳簿は毎朝待っている。
神託配信の視聴者は、いつしかほとんどいなくなった。
《配信してる意味ある?》
「僕は見ているけどね」
アンドレが隣で笑った。
《主人公に優しい人ばかりなのは不自然》
彼は私の焼いた菓子を見て、少し考えた。
「今日のは、焦げてるね」
私は頷いて、焼き直した。
冬が来て、春が巡る。
学校には子供が通い、師匠は店を弟子に譲った。
私とアンドレの髪には、白いものが増えていく。
■第六部 第一話が始まらない■
ある朝、反映局から分厚い書類が届いた。
中身は、第一話として卒業祝賀会を再開するという通知である。
私は眼鏡をかけた。
あれから四十七年が過ぎていた。
婚約解消は正式に処理され、告発は公平に調査され、追放も撤回されている。
私は働いて技能を身につけ、町の人々と学校を作り、アンドレと暮らしてきた。
添付された確認事項には、すべて対応済みの印が並んでいる。
ようやく、物語を始める準備が整った。
隣に座るアンドレは、もう青年ではなかった。
私も、もう令嬢ではなかった。
「祝賀会、行くかい?」
「卒業生ですものね」
「踊れるかな」
「椅子を用意していただきましょう」
窓の外では、子供たちが学校へ向かっている。
パンが焼ける匂いがした。
そのとき、天井に文字が浮かんだ。
《これ、悪役令嬢ものではなく、アンネ=ゾフィーの一代記では?》
反映局に連絡し、ジャンルを変更してもらった。
《看板を変えても、最初に期待した話と違う》
私は祝賀会の案内を置いた。
何から直せばよいのか、すぐには分からない。
最初から考え直すほかない。
《やり直しで積み重ねを無駄にするな》
書きかけた修正案を取り下げた。
《結局、何も起こらないの?》
私は、何かを起こす必要があると反映局へ伝えた。
反映局はすぐに、何を起こしてよいか検討する委員会を設置する。
これまでの指摘者も、全員が委員である。
第一回会議の議題は、第一話を始めてよいかどうか。
全会一致で決める。
原案協力のLackRockさんに最大の感謝を。




