ゴッホ展
翌日。
清水教会は、いつもとはまるで違う場所になっていた。
普段なら、静かな祈りの声が響く礼拝堂。
その中央には、いくつものイーゼルが並べられ、色鮮やかな絵画が展示されている。
壁際には《星月夜》や《オリーブ畑》を模した作品。
そして、祭壇の前には、一枚の絵が布をかけられた状態で置かれていた。
俺が描いた、五輪の《ひまわり》だ。
「……すげえな」
俺は、思わず声を漏らした。
礼拝堂には、すでに大勢の人間が集まっていた。
高級そうなスーツを着た紳士。
宝石を身につけた婦人。
絵画収集家らしき老人。
美術評論家を名乗る者までいる。
普段の清水教会では、まず見かけない顔ぶれだった。
……まったく。
どこから、こんな連中が集まってきたんだ?
理由は、もちろんわかっている。
――戦争で失われたはずのゴッホの《ひまわり》が、日本の小さな教会で発見された。
そんな噂が、美術収集家たちの間に広まったからだ。
清水神父の説明によれば、空襲で焼失したとされる作品を、祖父が密かに持ち出して保管していたという。
……もちろん、嘘だ。
その絵を描いたのは、ゴッホではない。
俺だ。
しかも、つい昨夜のことだ。
だというのに。
「……なんと美しい」
「これが、失われた五輪の《ひまわり》なのか」
「まさか、日本に残っていたとは……」
集まった人々は、すっかり噂を信じ込んでいるらしい。
中には、布のかかったキャンバスを遠巻きに眺めながら、興奮した様子で語り合う者までいた。
……おいおい。
まだ絵すら見ていないだろ。
そう突っ込みたくなる。
だが、それ以上に、胸の奥がざわついた。
……これで、本当にいいのだろうか。
俺たちは、教会を守るために金を必要としている。
ヤクザたちに支払わなければならない借金は、二千万円。
この展示会が成功すれば、返済の道が開けるかもしれない。
だが、そのために人々を欺く。
……まるで、昔の俺じゃないか。
悪魔だったころ。
俺は、嘘をつくことに何の抵抗もなかった。
人間を騙し、欲望を煽り、思いどおりに操る。
それが悪魔のやり方だった。
だが、今は違う。
俺は、もう悪魔ではない。
……そのはずなのに。
「……哲夫さん?」
不意に、隣から声がした。
振り向くと、ソフィアが心配そうに俺を見つめていた。
「どうしました? 顔色が優れませんよ」
「……いや」
俺は、慌てて首を振った。
「ちょっと、緊張しているだけだ」
「ふふっ。そうですか」
ソフィアは、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。哲夫さん」
「……え?」
「私は、昨日の《ひまわり》がとても好きです」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
「……見たのか?」
「はい。今朝、清水神父に見せていただきました」
ソフィアは、嬉しそうに頷いた。
「とても温かい絵でした。見ているだけで、心が明るくなるような……そんな作品です」
「…………」
「だから、きっと皆さんにも、その魅力が伝わると思います」
……まったく。
どうして、そんなことを言ってくれるんだ。
俺は、思わず苦笑した。
「……ありがとう、ソフィア」
「ふふっ。どういたしまして」
彼女は、いつものように微笑んだ。
その笑顔を見て、俺は改めて思った。
……絶対に、この教会を守らなければならない。
たとえ、どんな手段を使うことになったとしても。
そう思った直後、自分の考えに少しだけ寒気がした。
……いや。
何でも許されるわけじゃない。
そのことだけは、忘れないようにしよう。
◇
「――皆様。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
礼拝堂の前方から、清水神父の声が響いた。
神父は、いつもの黒い司祭服に身を包み、壇上に立っていた。
その表情は、驚くほど穏やかだった。
……すげえな。
これだけ大勢の金持ちを前にして、まったく緊張していない。
むしろ、普段のミサより楽しそうに見える。
「本日は、私たち清水教会が所蔵する作品、そして私自身が制作した模写作品を、皆様にご覧いただきたいと思います」
神父は、ゆっくりと礼をした。
「また、展示作品の一部については、教会の維持と子供たちの生活を支えるため、慈善オークションを開催いたします」
その言葉に、会場から拍手が起こった。
……いよいよか。
俺は、思わず拳を握りしめた。
「では、最初の作品をご紹介しましょう」
神父が、隣のイーゼルを指さした。
「こちらは、私が描いた《星月夜》の模写作品です。開始価格は、一万円といたします」
その瞬間。
「二万円!」
「五万円!」
「十万円だ!」
次々と声が上がった。
……おお。
思ったより、盛り上がっているじゃないか。
俺は、少しだけ安心した。
だが。
「……百万円」
会場の後方から、低い声が響いた。
「……え?」
俺は、思わず振り返った。
声を上げたのは、白髪の紳士だった。
落ち着いた表情で札を掲げている。
……ひゃ、百万円?
ただの模写だぞ?
もちろん、神父の技術が高いことは知っている。
だが、そこまでの値段がつくとは思っていなかった。
「百万円。ほかにいらっしゃいませんか?」
神父が、会場を見渡した。
誰も声を上げない。
「では、百万円で落札です」
拍手が起こった。
白髪の紳士は、満足そうに微笑んだ。
……すげえ。
たった一枚で、百万円。
これが、美術品の世界なのか。
「続きまして、こちらの《オリーブ畑》をご紹介いたします」
神父は、次の作品へと移った。
「こちらも、私が制作した模写作品です。開始価格は一万円から」
「十万円!」
「二十万円!」
「三十万円!」
再び、声が飛び交う。
そして。
「三十万円で落札です」
「よしっ!」
落札した男性が、小さく拳を握った。
……なるほど。
絵画の価値というのは、必ずしも作者の知名度だけで決まるわけではないらしい。
誰かが欲しいと思えば、そこに値段が生まれる。
その人にとっては、三十万円を払ってでも手に入れたい作品なのだ。
……面白いな。
俺は、少しだけ美術市場の仕組みがわかった気がした。
その後も、オークションは順調に進んでいった。
神父が描いた作品が、次々と落札されていく。
十万円。
二十万円。
五十万円。
そして、百万円。
少しずつ、売上金額が積み上がっていった。
だが。
会場の空気には、どこか落ち着かないものがあった。
人々の視線は、何度となく祭壇の前へ向けられている。
布をかけられた、あのキャンバスへ。
……やっぱりな。
みんなが本当に見たいのは、俺の《ひまわり》なのだ。
◇
「――さて」
やがて、清水神父が声を上げた。
「皆様。大変お待たせいたしました」
その瞬間、礼拝堂が静まり返った。
「本日、最後にご紹介する作品は……」
神父は、ゆっくりと祭壇の前へ歩み寄った。
そして、布に手をかける。
「長らく失われたとされてきた、フィンセント・ファン・ゴッホの《ひまわり》です」
――ざわっ。
会場が、大きく揺れた。
「……ついに来たか」
「本当に、あの作品なのか?」
「信じられん……」
人々が、次々と立ち上がる。
誰もが、祭壇の前を見つめていた。
そして。
清水神父が、布を取り払った。
――五輪のひまわり。
橙色の背景。
花瓶に挿された、五つの花。
俺が昨夜、必死になって描いた作品が、会場の人々の前に姿を現した。
「おお……!」
「……美しい!」
「まさか、本当に……!」
あちこちから、感嘆の声が漏れた。
俺は、思わず息を呑んだ。
……すごい。
自分で描いた作品なのに。
こうして大勢の人間に囲まれると、まるで別の絵のように見えてくる。
昨日までは、ただのキャンバスだった。
だが、今は違う。
この場にいる人々の期待と欲望が、一枚の絵に集まっている。
……まるで、絵そのものが人間を操っているみたいだ。
「皆様もご存じのとおり、ゴッホはアルル時代に、花瓶に挿した《ひまわり》を繰り返し描きました」
清水神父が、静かに説明を始めた。
「そのうち、五輪のひまわりを描いた作品は、かつて日本に存在していました。しかし、戦争によって失われたと考えられています」
神父は、一度言葉を区切った。
「ですが、実は……」
会場が、息を潜める。
「私の祖父が、戦火を逃れる際に、この作品を保護していたのです」
――どよめきが起こった。
「なんと……!」
「そんなことがあり得るのか?」
「歴史的大発見じゃないか!」
……おいおい。
みんな、簡単に信じすぎじゃないか?
そう思う一方で、俺の背筋には冷たい汗が流れていた。
神父の説明には、何の証拠もない。
鑑定もされていない。
来歴を裏づける資料もない。
それなのに、目の前の人々は興奮している。
……これが、欲望というものなのだろうか。
人間は、信じたいものを信じる。
そうして、一枚の絵に莫大な価値を見いだす。
俺は、かつて悪魔として、その心理を何度も利用してきた。
だからこそ、わかる。
……これは、危険だ。
だが、もう後戻りはできない。
「……哲夫さん」
隣に座っていたソフィアが、小さく声をかけた。
「……ん?」
「大丈夫ですか?」
俺は、彼女を見た。
ソフィアは、心配そうに俺を見つめている。
「……ああ」
俺は、無理やり笑った。
「大丈夫だよ」
……大丈夫。
そう言い聞かせる。
俺たちは、教会を守るためにここまで来た。
今さら、怖気づいてどうする。
◇
「――では、オークションを開始いたします」
清水神父の声が響いた。
「開始価格は、一万円からといたしましょう」
……一万円?
俺は、思わず眉をひそめた。
そんな安い値段から始めるのか?
だが、その心配は無用だった。
「百万円!」
いきなり、声が上がった。
「五百万円だ!」
「一千万円!」
……は?
俺は、目を見開いた。
ちょっと待て。
値段の上がり方がおかしくないか?
「二千万円!」
「三千万円!」
「五千万円!」
……おいおいおい!
俺の頭が、追いつかない。
昨日、俺が必死になって描いた絵だぞ?
それが、もう五千万円?
……冗談だろ。
だが、会場の人々は本気だった。
誰もが札を掲げ、競り合っている。
まるで、金額の大きさなど気にしていないかのようだ。
「六千万円!」
「七千万円!」
「八千万円!」
……すげえ。
俺は、思わず唾を呑み込んだ。
これなら。
これなら、教会の借金を返せる。
残りの二千万円なんて、十分に支払える。
いや、それどころか、教会の修繕費や子供たちの生活費まで確保できるかもしれない。
……やった。
俺は、心の中で小さく拳を握った。
だが、その瞬間。
「――一億円」
会場の後方から、落ち着いた声が響いた。
――静寂。
誰もが、声の主へ目を向けた。
そこにいたのは、黒いスーツを着た初老の紳士だった。
銀縁の眼鏡。
整えられた白髪。
そして、まるで日常の買い物でもするかのような、落ち着いた表情。
「……い、一億?」
俺は、思わず声を漏らした。
……一億円。
想像もつかない金額だ。
いや、以前の俺なら、株式市場で扱おうとしていた金額かもしれない。
だが、それが自分の描いた絵につけられたとなると、話は別だ。
……怖い。
正直に言えば、怖かった。
俺は、そんな価値のあるものを描いたつもりはない。
ただ、ソフィアを守りたかっただけだ。
教会を守りたかっただけだ。
なのに。
どうして、こんなことになっているんだ?
「一億円。ほかにいらっしゃいませんか?」
清水神父が、会場を見渡した。
誰も声を上げない。
「……一億円」
神父が、もう一度確認する。
……頼む。
俺は、祈るような気持ちで見つめた。
このまま、終わってくれ。
そうすれば、教会は救われる。
ソフィアも、子供たちも、安心して暮らせる。
俺たちは、ようやく普通の生活に戻れる。
「では、こちらの《ひまわり》は、一億円で――」
――バァンッ!
突然。
礼拝堂の扉が、乱暴に開け放たれた。
「――ちょっと待った!」
野太い声が響いた。
会場の空気が、一瞬で凍りつく。
「……え?」
俺は、思わず振り返った。
そこに立っていたのは、数人の男たちだった。
派手な柄のシャツ。
威圧的な目つき。
そして、見覚えのある顔。
……おいおい。
冗談だろ。
「……山口組」
俺は、小さくつぶやいた。
よりによって、今かよ。
◇
「おい、清水!」
先頭に立っていた男が、怒鳴り声を上げた。
「借金の返済は、どうなっているんだ!」
礼拝堂が、ざわめいた。
「……借金?」
「どういうことだ?」
「何か、揉め事でもあるのか?」
集まった客たちは、困惑した様子で顔を見合わせている。
清水神父は、ゆっくりと男たちに向き直った。
「……おや」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「皆様。これは、これは」
「ふざけるな!」
男が、怒鳴りつけた。
「こっちは、金を取りに来たんだよ!」
「……返済については、弁護士を通じて協議しているはずですが」
神父は、静かに答えた。
「法外な利息や、土地を担保とする契約の有効性についても、確認を進めています」
「そんなことは、どうでもいい!」
男は、苛立たしげに舌打ちした。
「俺たちが欲しいのは、金だ!」
「……承知しております」
神父は、ゆっくりと頷いた。
「ですが、返済額や期限については、まだ正式な確認が必要です」
「……ああ?」
「本日の展示会で得られた資金も、正当な債務の返済に充てるつもりです」
神父は、穏やかに続けた。
「ですから、どうかお引き取りください」
……すげえな。
俺は、思わず感心した。
これだけ威圧されているのに、まったく動じていない。
だが、相手はヤクザだ。
そんな理屈が通じるとは限らない。
「……ふざけやがって」
男は、顔を歪めた。
「だったら、今すぐ金を出せ!」
「……申し訳ありませんが」
「出せねえって言うなら、この教会をいただくぞ!」
その言葉に、会場が再びざわめいた。
「……教会を?」
「土地まで担保にしていたのか?」
俺は、思わず立ち上がった。
「……おい」
男たちが、こちらを振り返る。
「……ああ?」
「ちょっと待てよ」
俺は、ゆっくりと前へ出た。
「金の話は、弁護士を通して進めることになっているだろ」
「……てめえ」
男の目つきが変わった。
「……あのときのガキか」
「……ああ。久しぶりだな」
俺は、肩をすくめた。
「相変わらず、物騒な連中だな」
「……何だと?」
「ここは教会だぞ。少しは静かにできないのか?」
男の額に、青筋が浮かんだ。
「……調子に乗るなよ」
俺は、ため息を吐いた。
……まったく。
こういう連中は、どうしてすぐ怒鳴るんだろうな。
話し合いという言葉を知らないのか?
「……おい、ガキ」
男は、俺を睨みつけた。
「こっちには、土地の権利を押さえるための書類があるんだよ」
「……へえ」
「だから、この教会をどうするかは、俺たち次第なんだ!」
俺は、思わず笑った。
「……そうか」
そして、ポケットに手を入れた。
「じゃあ、これを見てみろよ」
取り出したのは、数枚の書類だった。
山口組の事務所から持ち出した、土地に関する書類。
もちろん、原本のすべてではない。
だが、連中が何をしようとしていたのかを示す、重要な手がかりだ。
「……なっ!?」
男の顔色が変わった。
「て、てめえ! どうして、それを持っている!?」
「……さあな」
俺は、わざとらしく肩をすくめた。
「金庫の管理が甘かったんじゃないか?」
「……この野郎!」
男が、一歩踏み出した。
俺は、書類を握りしめた。
「ちなみに、土地の書類を持っているだけで、所有者になれるわけじゃないぞ」
「……何だと?」
「土地の権利関係は、契約や登記を確認しなきゃならない。まして、無理やり結ばせた契約なら、争う余地はある」
俺は、男を睨み返した。
「神父様は、もう弁護士に相談しているんだ」
男の顔が、みるみる険しくなっていく。
「……くそっ」
その後ろで、別の男が小声で尋ねた。
「……兄貴、どうします?」
「……うるせえ!」
先頭の男は、苛立たしげに怒鳴った。
「こんなところで、手ぶらで帰れるか!」
……嫌な予感がした。
男の視線が、祭壇の方へ向いたからだ。
そこには。
俺が描いた《ひまわり》がある。
「……そうか」
男の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「だったら、あれをもらっていけばいい」
「……は?」
俺は、思わず声を漏らした。
「……あれ?」
「そうだよ」
男は、祭壇の前にあるキャンバスを指さした。
「さっき、一億円とか言ってただろ?」
……まずい。
「だったら、あれを借金の代わりにもらっていけばいいじゃねえか!」
「……おい!」
俺は、慌てて声を上げた。
「ふざけるな!」
だが、男たちはすでに動き始めていた。
「おい、お前ら!」
「はい!」
「あの絵を持っていけ!」
――ざわっ!
会場が、一気に騒然となった。
「ちょっと、何をするんですか!」
「やめなさい!」
「警察を呼べ!」
客たちの怒声が飛び交う。
だが、男たちは構わず祭壇へ向かっていく。
……くそっ!
俺は、慌てて駆け出した。
「――待て!」
男たちの前に立ちはだかる。
「その絵には、触るな!」
「……ああ?」
「これは、神父様にとって大切な絵なんだ!」
俺は、拳を握りしめた。
「それに、ここにいる人たちは、絵を見に来たんだぞ!」
「……知るかよ!」
男が、俺を睨みつけた。
「邪魔するなら、どけ!」
「……断る!」
次の瞬間。
――ドンッ!
強く突き飛ばされた。
「……ぐっ!」
俺は、床に倒れ込んだ。
「――哲夫さん!」
ソフィアの声が響いた。
彼女は、慌てて俺のもとへ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「……ああ」
俺は、痛む肩を押さえながら起き上がった。
「……大丈夫だ」
「でも……!」
「……それより、絵だ」
俺は、祭壇の方を見た。
男たちが、《ひまわり》へ近づいている。
清水神父は、その前に立ちはだかっていた。
「……どうか、おやめください」
神父の声が響く。
「その作品は、私たちにとって大切なものなのです」
「……うるせえ!」
男は、神父を威圧した。
「だったら、金を出せ!」
「……それは」
「出せねえなら、絵をもらっていく!」
……くそっ。
俺は、歯を食いしばった。
どうしてだ。
どうして、いつもこうなる。
あと少しだった。
あと少しで、教会を救えたはずなのに。
俺たちは、ようやく希望を見つけたはずなのに。
……どうして。
どうして、最後の最後で邪魔が入るんだ。
「……哲夫さん」
ソフィアが、俺の腕に触れた。
その手は、かすかに震えていた。
「……ソフィア」
俺は、彼女を見た。
彼女は、心配そうに俺を見つめている。
……そうだ。
俺が、しっかりしなきゃならない。
俺は、この教会を守ると決めたんだ。
もう、悪魔の力には頼らない。
誰かを欺き、傷つけることでしか問題を解決できなかった、昔の俺とは違う。
……だったら。
今の俺に、何ができる?
俺は、必死になって考えた。
だが。
そのときだった。
――カチャリ。
礼拝堂の扉が、静かに開いた。
「……おや?」
落ち着いた声が響いた。
「ずいぶん、賑やかなことになっているね」
……え?
俺は、思わず振り返った。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
白いスーツ。
磨き上げられた革靴。
整えられた髪。
そして、穏やかな微笑み。
まるで、舞踏会にでも招かれたかのような、優雅な佇まい。
……嘘だろ。
俺は、息を呑んだ。
見間違えるはずがない。
あの顔。
あの声。
そして、あの余裕に満ちた笑み。
「……お父様」
思わず、声が漏れた。
男性は、ゆっくりと俺へ視線を向けた。
「やあ、哲夫」
そして、楽しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「…………」
俺は、言葉を失った。
……どうして。
どうして、ここにいる?
お父様は、俺が悪魔の権能を捨てたことを知っている。
俺が、清水教会を守ろうとしていることも知っている。
それなのに。
なぜ、今になって現れた?
「……お父様」
俺は、震える声で尋ねた。
「……何をしに来た?」
男性は、俺の問いに答えなかった。
代わりに、祭壇の方へ目を向ける。
そこには、五輪の《ひまわり》があった。
「……ほう」
お父様は、興味深そうに目を細めた。
「これは、これは……」
そして。
ゆっくりと、口元を吊り上げた。
「……実に、面白い絵じゃないか」
――ぞくり。
背筋に、冷たいものが走った。
……まずい。
俺は、本能的に悟った。
この男は、ただ見物に来たわけじゃない。
何かを知っている。
何かを企んでいる。
そして。
その視線は、俺の描いた《ひまわり》に釘づけになっていた。
「……さて」
お父様は、ゆっくりと礼拝堂を見渡した。
そして、微笑んだ。
「まずは、この騒ぎを収めようか」
その一言で。
なぜか、山口組の男たちが動きを止めた。
「……え?」
俺は、思わず目を見開いた。
男たちの顔色が、みるみる変わっていく。
まるで、何か恐ろしいものを見たかのように。
……おいおい。
まさか。
俺は、お父様を見つめた。
お父様は、相変わらず穏やかに微笑んでいる。
だが、その笑顔の奥には、底知れない何かが潜んでいた。
……そうか。
俺は、ようやく理解した。
この男が現れたのは、偶然ではない。
最初から、すべてを見ていたのかもしれない。
教会の借金も。
俺たちの苦労も。
そして、この《ひまわり》のことも。
……くそっ。
俺は、拳を握りしめた。
ようやく、希望が見えてきたというのに。
今度は、悪魔の王がやって来た。
しかも、俺の父親として。
**――清水教会の運命を決める、本当の競売は、ここから始まるのかもしれなかった。**




