ひまわりは咲いている
楽しい時間というものは、どうしてこうも短いのだろうか。
ゴッホ展を見て、昼食を食べて、ゲームセンターで遊んで。
気づけば、空はすっかり茜色に染まっていた。
俺たちは夕暮れの街を抜け、清水教会へと戻ってきた。
「……着いちゃいましたね」
教会の門の前で、ソフィアがぽつりとつぶやいた。
「ああ。そうだな」
俺も、思わず頷いた。
いつも見慣れた教会。
白い壁に、古びた十字架。
芝生の広がる庭。
普段なら何とも思わない景色なのに、今日は妙に寂しく感じられた。
……まったく。
たった一日、一緒に出かけただけだというのに。
もう少し、ソフィアと話していたい。
もう少し、あの笑顔を見ていたい。
そんなことを考えてしまう。
「哲夫さん」
「……ん?」
ソフィアは俺に向き直ると、丁寧に頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「……いや、こちらこそ」
俺は、少し照れくさくなりながら答えた。
「ゴッホの作品も見られたし、ゲームセンターも楽しかった。いい一日だったよ」
「ふふっ。私もです」
彼女は、大切そうにパンダのぬいぐるみを抱きしめた。
あの気だるそうな顔をした、俺に似ているらしいパンダだ。
ちなみに、名前は「てつお」。
……どうして俺の名前なんだろうな。
いや、理由は聞いたけどさ。
「この子も、大切にしますね」
「……ああ。そうしてくれ」
「今夜は、私のお部屋に飾ろうと思います」
「……そ、そうか」
……おい。
そんなことを言われたら、また意識するだろうが。
俺は、思わず顔を背けた。
ソフィアはそんな俺の様子を不思議そうに眺めたあと、小さく笑った。
「それでは、哲夫さん」
「……ん?」
「絵画の制作、頑張ってくださいね」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「ああ。任せとけ」
「ふふっ。楽しみにしています」
彼女は、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「哲夫さんが描く《ひまわり》を、私も見てみたいですから」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
……そうだな。
もう、迷っている場合じゃない。
俺には、やらなければならないことがある。
「……絶対に完成させるよ」
「はい!」
ソフィアは嬉しそうに頷くと、宿舎の方へ歩いていった。
俺は、彼女の背中を見送った。
その姿が建物の向こうに消えるまで、しばらく立ち尽くしていた。
……まったく。
好きな女の子の前では、どうしてこうも格好をつけたくなるのだろうか。
「……さて」
俺は、軽く頬を叩いた。
「今度は、俺の番だな」
そうつぶやき、教会へと足を向けた。
◇
重い扉を押し開けると、絵の具の匂いが漂ってきた。
礼拝堂の奥。
祭壇の近くに置かれたイーゼルの前で、清水神父が筆を握っていた。
「……おや」
俺に気づいた神父が、ゆっくりと顔を上げる。
「お帰り、坂井くん」
「ただいま、神父様」
「どうだったかな? 今日の美術館は」
「……最高だったよ」
俺は、迷わず答えた。
「ゴッホの作品を、あんなに間近で見られるとは思わなかった」
「そうか。それはよかった」
神父は、満足そうに微笑んだ。
「ソフィアも、楽しんでいたかい?」
「ああ。ものすごくな」
「ふふっ。それは何よりだ」
俺は、買ってきた複製画を近くの机に置いた。
そして、神父のキャンバスへ目を向ける。
「……ん?」
そこに描かれていたのは、夜空だった。
深い青。
渦を巻くような光。
輝く星々。
そして、画面の中央に浮かぶ、大きな月。
「……《星月夜》か?」
「ああ。少し練習していたんだよ」
神父は、筆を置いて微笑んだ。
……少し、ねえ。
俺は、思わずキャンバスを見つめた。
ゴッホの《星月夜》。
その独特な筆遣いと色彩が、驚くほど巧みに再現されていた。
もちろん、本物とまったく同じというわけではない。
だが、素人の俺からすれば、十分すぎるほどの完成度だった。
「……神父様」
「何だい?」
「……本当に、神父なんだよな?」
「ははは。今さら何を言っているんだい?」
「いや、だってさ……」
俺は、キャンバスを指さした。
「こんな絵まで描けるなんて、普通じゃないだろ」
「ふふっ。昔、少し絵を勉強していただけだよ」
……少し。
また、その言葉か。
清水神父という人間は、どうも底が知れない。
土地の問題では弁護士と相談し、教会では子供たちを育て、絵画まで描ける。
しかも、ソフィアに護身術まで教えたらしい。
……いったい、どんな人生を送ってきたんだ、この人は。
「ところで、坂井くん」
「……ん?」
神父は、俺の顔をじっと見つめた。
「描く準備はできたかな?」
「…………」
俺は、ゆっくりと息を吸った。
そして。
「ああ」
力強く頷いた。
「できている」
「……そうか」
神父は、優しく微笑んだ。
「では、始めよう」
そう言うと、壁際に立てかけてあった真っ白なキャンバスを取り出した。
「これが、君のキャンバスだよ」
「……ああ」
俺は、それを受け取った。
そして、イーゼルに立てかける。
目の前には、何も描かれていない白い空間が広がっていた。
……ここから始まるのか。
俺は、思わず唾を呑み込んだ。
昨日までの俺なら、ここで戸惑っていただろう。
何を描けばいいのか。
どんな色を使えばいいのか。
どうすれば、ゴッホのような絵になるのか。
そんなことばかり考えていたはずだ。
だが、今は違う。
俺は、今日、本物の《ひまわり》を見てきた。
あの黄色い花々。
厚く塗られた絵の具。
力強い筆触。
そして、絵の向こう側にある、誰かを迎えようとする温かな願い。
……俺が描きたいものは、もう決まっている。
「神父様」
「何だい?」
「……五本のひまわりを描くんだよな?」
「ああ」
神父は頷いた。
「戦争で失われた、五輪の《ひまわり》だ」
かつて日本にあった、ゴッホの名画。
今はもう、実物を見ることのできない作品。
神父の祖父が、かつて心を奪われたという一枚だ。
「……わかった」
俺は、筆を握った。
「やってみる」
◇
まずは、花瓶の位置を決めた。
画面の中央。
その上に、五輪のひまわりを配置する。
花の向き。
茎の傾き。
花びらの広がり方。
一つ一つ、慎重に構図を取っていく。
「……うーん」
俺は、首を傾げた。
……難しい。
やっぱり、難しい。
今日、美術館で本物を見たからといって、突然絵がうまくなるわけではない。
頭の中には、理想の《ひまわり》がある。
だが、それを手で表現するとなると、話は別だ。
「……くそっ」
俺は、思わず眉をひそめた。
「思ったように線が引けないな」
「ふふっ。焦らなくていいよ」
神父が、隣から声をかけた。
「まずは、花の形をよく見てごらん」
「……形?」
「ああ。全部を同じ形にしようとしなくていいんだ」
神父は、複製画を指さした。
「ひまわりは、一輪一輪、違う表情をしているだろう?」
「……確かに」
「元気に咲いている花もあれば、頭を垂れている花もある」
神父は、穏やかに続けた。
「それぞれが、違う時間を生きているんだ」
「……違う時間、か」
俺は、もう一度キャンバスを見つめた。
五輪のひまわり。
どれも同じ花でありながら、決して同じ姿ではない。
……なるほど。
「……よし」
俺は、筆を動かした。
まずは、一輪目。
大きく花びらを広げた、明るいひまわり。
二輪目は、少し傾いた花。
三輪目は、今にも頭を垂れそうな花。
四輪目。
そして、五輪目。
それぞれに、違う表情を与えていく。
……不思議だ。
さっきまで、どう描けばいいかわからなかったのに。
一輪ずつ向き合ってみると、少しだけ筆が動くようになった。
「……いいね」
神父が、小さく頷いた。
「最初より、ずっとよくなっている」
「……本当か?」
「ああ」
神父は、優しく微笑んだ。
「君は、花を描こうとしているんだね」
「……え?」
「ただ形を写すのではなく、一輪ずつ違うものとして見つめている」
俺は、キャンバスを見た。
……そうか。
これが、観察するということなのかもしれない。
◇
「ところで、坂井くん」
「……ん?」
「ひまわりの花言葉を知っているかな?」
神父が、唐突に尋ねた。
「……花言葉?」
「ああ」
俺は、少し考え込んだ。
確か、どこかで聞いたことがある。
「……『あなただけを見つめる』だったか?」
「そうだね。そんな花言葉がある」
神父は、にっこりと微笑んだ。
「太陽の方を向く花だから、そういう意味が結びついたのかもしれないね」
「……なるほど」
「では、坂井くん」
「……何だ?」
「君は、この《ひまわり》に誰を見つめてほしいんだい?」
「…………」
俺は、思わず筆を止めた。
……誰を?
そんなこと、考えたこともなかった。
ゴッホの《ひまわり》を再現する。
神父の約束を果たす。
教会を守る。
それだけで、頭がいっぱいだった。
だが。
「……そうだな」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……ソフィアかな」
神父は、何も言わなかった。
「それと、子供たち」
俺は、キャンバスを見つめた。
「神父様も、もちろん入ってる」
「……そうか」
「ああ」
俺は、小さく笑った。
「俺、この教会に来てから、初めて普通の生活ってものを知ったんだ」
朝起きて。
みんなで飯を食って。
くだらないことで笑って。
疲れたら、眠る。
そんな、当たり前の日々。
「……以前の俺には、そんな生活がなかった」
悪魔の王子だったころ。
俺は、誰かから何かを奪うことばかり考えていた。
金。
権力。
人間の心。
他人を思いどおりにすることが、悪魔の強さだと教えられてきた。
それが、俺の生き方だった。
だが。
ソフィアと出会って、すべてが変わった。
彼女は、俺が何者なのかを知っても、俺を見捨てなかった。
間違ったことをすれば叱ってくれた。
傷ついていれば、心配してくれた。
そして、何の見返りも求めずに笑ってくれた。
……まったく。
あんな女の子を好きになってしまったら、もう悪魔には戻れないじゃないか。
「……俺はさ」
筆を動かしながら、つぶやいた。
「もう、誰かから何かを奪う人生は嫌なんだ」
神父は、静かに耳を傾けていた。
「……今度は、何かを残してみたい」
「……何かを?」
「ああ」
俺は、キャンバスを見つめた。
「誰かが見て、少しでも元気になれるようなものを」
神父は、しばらく黙っていた。
そして。
「……それは、素晴らしい願いだね」
穏やかに微笑んだ。
「君の絵に、きっと必要なものだよ」
◇
俺は、再び筆を動かした。
次は、背景。
失われた《ひまわり》の複製資料を参考にしながら、橙色の絵の具を広げていく。
「……そうそう」
神父が、隣から助言した。
「焼失した五輪の《ひまわり》は、橙色を帯びた背景が印象的なんだ」
「……なるほど」
「ただの橙色ではない。黄色や赤みのある色が重なり、独特の温かさを生み出している」
「……温かさ、か」
俺は、筆を止めた。
……そうだな。
俺が描きたいのも、そういうものだ。
清水教会の温かさ。
みんなで食卓を囲む時間。
ソフィアが作る料理の匂い。
子供たちの笑い声。
そして、夕暮れの礼拝堂を照らす、優しい光。
俺は、それらを思い浮かべた。
「……よし」
再び筆を動かす。
橙色を重ねる。
黄色を加える。
少しだけ、暗い色を混ぜる。
……ああ。
不思議だな。
ただ背景を塗っているだけなのに、まるで自分の思い出をキャンバスに閉じ込めているような気分だった。
「……いいね」
神父が、小さくつぶやいた。
「少しずつ、君の色になってきた」
「……俺の色?」
「ああ」
神父は、静かに頷いた。
「もう、ただの模写ではないね」
俺は、キャンバスを見つめた。
……確かに。
最初は、ゴッホの絵をそっくりに描こうとしていた。
だが、今は違う。
俺は、五輪のひまわりを描きながら、自分が大切にしたいものを思い浮かべている。
……これは、ゴッホの作品ではない。
俺が描く《ひまわり》なのだ。
◇
どれくらい時間が経ったのだろう。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
礼拝堂には、時計の針が進む音だけが響いている。
俺は、夢中になって筆を動かしていた。
花びらの輪郭。
花の中心。
茎の陰影。
そして、背景の色彩。
一つずつ、慎重に仕上げていく。
もちろん、簡単ではなかった。
絵の具を重ねすぎて、色が濁った部分もある。
思いどおりの線が引けず、何度も描き直した。
神父からも、何度となく指摘を受けた。
「坂井くん。少し離れて見てごらん」
「……こうか?」
「ああ。全体のバランスを確認するんだ」
「……なるほど」
「それから、花の明るい部分をもう少し強調しよう」
「……わかった」
俺は、神父の助言に従って筆を動かした。
そうして、少しずつ。
本当に、少しずつ。
五輪のひまわりが、キャンバスの中に姿を現していった。
「……ふう」
俺は、大きく息を吐いた。
手首が痛い。
肩も凝っている。
足まで疲れてきた。
……絵を描くというのは、こんなにも体力を使うものなのか。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、楽しい。
自分の手によって、少しずつ何かが形になっていく。
その過程が、どうしようもなく面白いのだ。
「……神父様」
「……ん?」
「俺、ちょっとわかってきたかもしれない」
「……何がだい?」
「絵を描く楽しさだよ」
俺は、小さく笑った。
「最初は、何が面白いのかわからなかったんだけどさ」
神父は、何も言わずに俺を見つめていた。
「今は、次にどんな色を置こうかって考えるだけで、少しワクワクするんだ」
「……そうか」
神父は、優しく微笑んだ。
「それは、よかった」
その笑顔には、どこか懐かしさが滲んでいた。
◇
「……坂井くん」
しばらくして、神父が口を開いた。
「君は、『芸術は長く、人生は短し』という言葉を知っているかな?」
「……聞いたことはあるな」
俺は、筆を動かしながら答えた。
「確か、古代ギリシャに由来する言葉だったか?」
「ああ。もともとは、技を修めることの難しさを語った言葉だね」
神父は、キャンバスを見つめた。
「だが、芸術作品が作者の生涯を超えて残ることを考えると、また違った響きもある」
「……なるほど」
「ゴッホが亡くなってから、長い年月が過ぎた」
神父は、静かに続けた。
「それでも、彼の作品は今なお人々を魅了している」
「……確かに」
俺は、今日の美術館を思い出した。
『ジャガイモを食べる人々』
一足の靴。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』
そして、《ひまわり》。
ゴッホが生きていた時代など、俺は知らない。
彼が何を考え、何に苦しみ、何を夢見ていたのか。
それを完全に理解することもできないだろう。
だが、絵の前に立ったとき、確かに何かを感じた。
あの黄色い花に、心を奪われた。
それだけは、事実なのだ。
「……なあ、神父様」
「何だい?」
「美しいって、結局どういうことなんだろうな」
俺の問いに、神父は目を細めた。
「……難しい質問だね」
「……神父様でも、わからないのか?」
「ふふっ。もちろんさ」
神父は、穏やかに笑った。
「古代ギリシャの哲学者たちも、近代の美学者たちも、現代の研究者たちも、美とは何かを考え続けてきた」
「……ああ」
「美しいものは何か。どうして人は美しいと感じるのか。美はものの中にあるのか、それとも、見る人の心にあるのか」
神父は、ゆっくりと続けた。
「答えは、一つではないんだ」
「……なるほど」
「カントは、美的判断について深く考えた。だが、私はね」
神父は、胸に手を当てた。
「美しいものと出会ったとき、人の心に何が起こるのかにも興味があるんだよ」
「……心に?」
「ああ」
神父は、キャンバスを指さした。
「例えば、君は今日、ゴッホの《ひまわり》を見てどう感じた?」
「……そうだな」
俺は、少し考え込んだ。
「……温かいと思った」
「……温かい?」
「ああ。なんというか……」
言葉を探す。
……難しいな。
絵を描くのも難しいが、感じたことを言葉にするのも、同じくらい難しい。
「……誰かを迎え入れるような、そんな優しさを感じたんだ」
神父は、黙って聞いていた。
「それに、ソフィアが隣にいたからかもしれないけどさ」
俺は、少し照れくさくなりながら続けた。
「……あの絵を見て、教会のみんなを思い出した」
「…………」
「だから、俺には美しく見えたんだと思う」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて。
「……そうか」
神父は、小さく頷いた。
「それが、君の美的経験なんだね」
「……美的経験?」
「ああ」
神父は、優しく微笑んだ。
「同じ絵を見ても、人によって感じるものは違う。ある人は喜びを感じ、ある人は寂しさを感じるかもしれない」
「……そうだな」
「でも、それでいいんだよ」
神父は、静かに続けた。
「私は、美には人の心を動かす力があると思っている」
「……心を動かす力」
「ああ。時には、言葉では伝えられないものまでね」
俺は、もう一度キャンバスを見つめた。
……なるほど。
だったら。
俺も、そんな絵を描いてみたい。
誰かが見たとき、少しだけ心が温かくなるような絵を。
◇
そして。
時計の針が、夜遅くを指したころ。
「……できた」
俺は、ゆっくりと筆を下ろした。
「……神父様」
「……ん?」
「ひとまず、描けたよ」
神父は、長椅子から立ち上がった。
そして、俺のキャンバスへと歩み寄る。
五輪のひまわり。
橙色の背景。
古びた花瓶。
ゴッホの失われた作品を参考にした、一枚の絵。
もちろん、本物とは違う。
花びらの形も、色の重なり方も、まだ未熟な部分がある。
それでも。
俺は、自分なりに全力を尽くした。
「……どうだ?」
思わず、尋ねてしまった。
清水神父は、しばらく何も言わなかった。
ただ、じっと絵を見つめている。
「…………」
……おいおい。
何か言ってくれよ。
そんなに黙られると、不安になるだろうが。
「……神父様?」
俺が声をかけると。
「……ああ」
神父は、小さく息を吐いた。
「……これは」
その声が、かすかに震えていた。
「……とても、いい絵だ」
「……本当か?」
「ああ」
神父は、ゆっくりと頷いた。
「もちろん、技術的にはまだ未熟なところがある」
「……まあ、そうだろうな」
「ゴッホの真作と見紛うようなものでもない」
「……そりゃ、初めてだからな」
「でもね、坂井くん」
神父は、俺の絵を見つめた。
「……私は、この《ひまわり》が好きだよ」
「…………」
その言葉が、妙に胸に響いた。
「……そうか」
俺は、小さく笑った。
「それなら、よかった」
……だが。
次の瞬間。
「…………」
俺は、神父の顔を見て息を呑んだ。
……え?
涙だった。
清水神父の頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……神父様?」
俺は、思わず声をかけた。
「……どうしたんだ?」
神父は、慌てて目元を拭った。
「……いや、すまない」
そして、照れくさそうに笑った。
「少し、昔のことを思い出してしまってね」
「……昔?」
「ああ」
神父は、再び《ひまわり》へ目を向けた。
「祖父のことだよ」
俺は、黙って耳を傾けた。
「子供のころ、祖父は何度も私に話してくれたんだ」
神父の声は、穏やかだった。
「あの《ひまわり》が、どれほど美しかったか。あの橙色の背景が、どれほど温かく感じられたか」
「…………」
「私はね、ずっと見てみたかったんだ」
神父は、キャンバスを見つめた。
「祖父が感動した、あの景色を」
……そうか。
俺は、ようやく理解した。
神父にとって、この絵は単なる芸術作品ではない。
亡き祖父との思い出。
交わした約束。
もう二度と会えない人が、大切にしていたもの。
それらすべてが、この五輪のひまわりに重なっているのだ。
「……ありがとう、坂井くん」
神父は、静かに頭を下げた。
「君のおかげで、私はもう一度、祖父の話していた景色に近づけた気がする」
「……いや」
俺は、少し気まずくなりながら頭をかいた。
「そんな大したことじゃないよ」
「……そうかな?」
「ああ」
俺は、キャンバスを見つめた。
「俺は、ただ……」
少しだけ、言葉に迷った。
そして。
「……ソフィアを守りたいだけだからさ」
神父は、一瞬だけ目を丸くした。
やがて。
「……ふふっ」
楽しそうに笑った。
「若いというのは、いいものだね」
「……何だよ」
「いやいや。何でもないよ」
神父は、嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、君がこの教会に来てくれて、本当によかったと思っているんだ」
「…………」
俺は、何も答えられなかった。
……まったく。
そんなことを言われたら、困るじゃないか。
悪魔として生きていた俺には、誰かから感謝される資格なんてないと思っていた。
だが、この人は違う。
俺の過去ではなく、今の俺を見てくれている。
……それが、少しだけ嬉しかった。
◇
「……さて」
清水神父は、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は、ここまでにしよう」
「……ああ」
俺は、時計を見た。
もう、日付が変わりそうな時間だった。
「……ずいぶん、遅くなったな」
「ふふっ。夢中になると、時間を忘れてしまうものだね」
神父は、キャンバスをもう一度見つめた。
「油絵の具は、まだ乾いていない。今夜は触れずに置いておこう」
「……そうだな」
「明日は、この絵を展示会で披露しよう」
俺は、神父に目を向けた。
「……明日、か」
「ああ」
神父は、静かに頷いた。
「教会の小さな展示会だ。だが、私たちにとっては大切な一日になる」
「……そうだな」
残された時間は、少ない。
ヤクザたちが再びやって来るまで、あとわずか。
土地の問題も、借金の問題も、まだ解決していない。
明日の展示会で、どれほどの資金が集まるのか。
そもそも、俺の描いた《ひまわり》を欲しがる人がいるのか。
何一つ、わからない。
だが。
「……神父様」
「……ん?」
「明日、絶対に成功させような」
俺は、力強く告げた。
「この教会を、絶対に守るんだ」
神父は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ああ」
穏やかに微笑んだ。
「一緒に、頑張ろう」
俺は、ゆっくりと頷いた。
◇
神父を見送ったあと、俺はもう一度キャンバスの前に立った。
五輪のひまわり。
温かな橙色の背景。
少し不格好な花びら。
……うん。
我ながら、悪くない。
もちろん、ゴッホには遠く及ばない。
技術だって、まだまだ未熟だ。
だが、俺はこの絵が好きだった。
なぜなら。
「……ソフィアに似ているな」
思わず、つぶやいてしまった。
……いや。
もちろん、顔が似ているわけじゃない。
そもそも、花と人間の顔が似ていたら怖いだろ。
そうではなくて。
この絵を見ていると、彼女の笑顔を思い出すのだ。
明るくて。
温かくて。
見ているだけで、少し元気になれる。
……まるで、太陽みたいな女の子だ。
「……よし」
俺は、小さく拳を握った。
「明日だな」
この絵が、俺たちの未来を変えるかもしれない。
いや。
変えてみせる。
金も、権力も、悪魔の力も必要ない。
今度こそ、自分の手で。
自分が選んだ人生を、切り開いてみせる。
そして、すべてが終わったら。
「……ちゃんと言わないとな」
俺は、少し照れくさくなりながら笑った。
ソフィアに。
俺が、どれほど彼女を大切に思っているのか。
今日のデートで、改めて気づいた。
俺は、彼女の笑顔が好きだ。
彼女と過ごす時間が好きだ。
そして、これから先も、その隣にいたい。
……だから。
教会の問題が解決したら、今度こそ自分の気持ちを伝えよう。
そう心に決めた。
◇
礼拝堂をあとにすると、俺は宿舎へ戻った。
自室に入ると、ベッドに倒れ込む。
「……疲れた」
思わず、声が漏れた。
今日は、本当にいろいろなことがあった。
ソフィアとのデート。
ゴッホ展。
ゲームセンター。
そして、初めての《ひまわり》の制作。
……まったく。
人生で、ここまで充実した一日があっただろうか。
俺は、スマートフォンを取り出した。
画面には、世界各地のニュースが並んでいる。
国際情勢の緊張。
株式市場の混乱。
経済不安。
相変わらず、世界は騒がしい。
以前の俺なら、こうした情報を利用しようとしただろう。
金を稼ぐために。
誰かを出し抜くために。
あるいは、お父様の命令を果たすために。
だが、今は違う。
「……もう、いいか」
俺は、ニュースアプリを閉じた。
世界がどう動こうと、俺にはまず守るべきものがある。
清水教会。
神父様。
三人の子供たち。
そして、ソフィア。
……それで、十分だ。
俺は、スマートフォンを枕元に置いた。
目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、今日、美術館で見た《ひまわり》だった。
そして、その隣で微笑んでいたソフィアの姿。
「……おやすみ、ソフィア」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
明日は、展示会。
俺が初めて描いた《ひまわり》が、人々の前に姿を現す日だ。
成功する保証なんて、どこにもない。
それでも。
――きっと、何とかなる。
そう信じたかった。
俺は、ゆっくりと眠りについた。
**明日という日が、清水教会の運命を大きく変えることになるとも知らずに。**




