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俳句 楽園のリアリズム(パート4ーその2)


 今回はどのような素晴らしいポエジーとの出会いが待ってくれているだろうか。スマホで読んでいただくとき最初のほうに大きな空白ができどうしても修正できないので、あまり気にしないで読んでいただけたら幸いです。

 

 私たちのやり方の正当性と有効性を心から納得させてくれるバシュラールの長い文章をいくつかまとめて読むことになりますが、バシュラールの指し示してくれる幸福は一生かけても到達できそうもないほどにも無限大に開かれているので、そためのヒントがてんこ盛りのこれらの文章を何度もくりかえし読んでいただくことの人生的なメリットは計り知れないものがあると考えます。






作者の個性や感性を超えた、俳句の単純な対象(イマージュ)を夢想する宇宙的な夢想のなかで、ぼくたちは夢想する存在の多面的価値を認識しながらぼくたち自身の詩的想像力を知らず知らずのうちにしっかりと養っているはずなのだ。

 そのうちいやでも、もっと複雑で多彩で個性的な、ふつうの詩の愛読者になることは約束されているのだから、そのときになってから、心魅かれる詩人たちの星の数ほどある素晴らしい詩を読むことをとおして、それに対応した作者の思いやさまざまな感情をそっくり追体験してそれらを心ゆくまで味わってやればいい。

 まあ、いまはあまり欲張らずに、ふつうの詩の愛読者になるためのプロローグともいうべき俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」を、この本のなかでしばらくはくりかえしていくことにしよう。


 《俳句形式のおかげで、ぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる》


 つぎの鷹羽狩行の一句一句の俳句作品のなかで、5・7・5の俳句形式は、遠い日の楽園の秋をありありとよみがえらせてくれるだろうか……



  鉄柵が囲ふ都会の桐落葉


  鰯雲夜()より(あけ)へと引継がれ


  紅葉をそっくり山の道路鏡


 

 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、幼少時代という<イマージュの楽園〉における最初の幸福を、そっくりそのまま追体験させてくれる……



  太陽も(すすき)に沈む芒原


  月光に濡れ鞍傷の木馬たち


  サーカスの夜発(よだ)ちのあとの天高し


  

 《俳句形式のおかげで、ぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……



  ひぐらしの声減らさずに修道院

  

  霧の枕木終点過ぎてなほつづく



  「単純な対象を夢想する夢想のなかで、

  わたしたちは夢想する存在の多面的価値

  を認識するのである……



  参道の木より石より秋の声


  身の()ゆるまで木犀(もくせい)の香に遊ぶ



 俳句の単純なイマージュによってポエジーとの出会いをくりかえしていけば、つまり、そう、この本のなかの700句の俳句でもって単純で奥深い「言葉の夢想」をくりかえしていけば、当然の結果として、だれもがゆたかな詩的想像力やバシュラールのいう言葉の「夢幻的感受性」を確実に自分のものにして、一生が何回あっても読みきれないほど書き残されているふつうの詩の最高に幸福な愛読者になることは、やっぱり、確実なこととしてしっかりと約束されているはずなのだ。


  「俳句一句をもちいて、わたしは言語の

  感受性にかかわる夢幻的感受性のテスト

  をしてみたい……



  鉄柵が囲ふ都会の桐落葉



  「孤立した詩的イマージュの水位におい

 ても、一行の詩句となってあらわれる表 

  現の生成のなかにさえ現象学的反響があ

らわれる。そしてそれは極端に単純なか

たちで、われわれに言語を支配する力を

あたえる」


 たった一行の、俳句の単純なイマージュが生むポエジー(現象学的反響、だ)が、ぼくたちに夢想する存在の多面的価値を認識させ、極端に単純なかたちでぼくたちに言語を支配する力をあたえることになる……



  月光に濡れ鞍傷の木馬たち

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 

 こうした俳句のイマージュによる単純で奥深い「言葉の夢想」が、あらゆる詩に対して開かれたバシュラール的な「書かれた言葉の夢想家」になるための、最高に理想的なプロローグとなってくれるのは、やっぱり、明らかだろう。


   「詩的言語を詩的に体験し、また根本的

   確信としてそれをすでに語ることができ

 ているならば、人の生は倍加することに

  なるだろう」


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

 する、感性の極限点へみちびく」


 

 ちょっと個人的な話になってしまうけれど、長いこと短歌や俳句を読むためのトレーイングをつんできたわけだし、ぼく自身も旅と俳句のおかげで、ふつうの詩のほかに、個性的な歌人たちのいろいろな種類の短歌や、その作者を意識しないではいられないようなもっとちがったタイプの俳句もふくめて、そうとうに多彩なポエジーや詩的な喜びや感動を、これからの人生で、ふんだんに味わっていけそうな気がする。(まあ、いまはこの本を完成させるためにもったいないほどの時間をさいているので、このあとどれほどの時間が残されるかが大問題となってくるのだけれど)古本屋を歩きまわったりしてぼくが自分のものにした短歌や俳句ときたら「収集歌集目録」や「収集句集目録」によると、たとえば「木俣修全歌集」(明治書院・9204首)「葛原妙子全歌集」(砂子屋書房・4492首)「大西民子全歌集」(沖積舎・3903首)「安永蕗子全歌集」(河出書房新社・5744首)「大野林火全句集」(明治書院・5084句)「橋本多佳子全句集」(立風書房・2497句)「橋閒石全句集」(沖積舎・2699句)「上田五千石全句集」(富士見書房・5280句)……といったぐあいだ。

 短歌や俳句はたったの一行で(まあ、短歌は印刷の都合で二行になることも少なくはないのだけれど基本的には俳句とおなじ一行詩と考えていいだろう)凝縮された、ほとんどあらゆる種類のポエジーや詩的な喜びや感動を味わわせてくれるのがたまらない魅力だし、本を読むのが大嫌いなぼくには、ありがたいし、うれしい。短歌と俳句のある日本に生まれてほんとうによかった、と心からそう思う。

 けれども、短歌や俳句はともかくとして、ふつうの詩なら、読むためのトレーニングなんかそれほど必要ないだろうから、そのうち、小説を読むくらいの気軽さでだれもがすぐにでも味わっていけるようになるだろう。

 もっとも、いまはどうなっているか分からないけれど、4、50年も前に書かれていた現代詩は、ポエジーや詩的な喜びや感動を味わいたいだけなのにどうしてこんなわけの分からない難しいものを読まされなければならないのか、と首をひねりたくような感じの詩が、けっこう多かった。そんな、自分だけの内部世界の(こんなこと言ってはなんだけど)ほとんどオタクみたいな詩人の作品につきあわなければならない義理なんて、はっきりいって、ぼくたちにはまったくない。もちろん、オタクだなんて決めつけてしまいたくなるのも、ぼくにはさっぱり理解できなかったからであって、いつかそうした詩人たちの熱烈なファンにならないともかぎらないのだけれど。

 神田などの古本屋をのぞいてみれば、いまだって、もっと読みやすくて詩篇のどっさり収録された全詩集などをいくらでもみつけることができるだろう。〈まあ、詩人の名前とその評価をある程度把握する必要があるけれど、いまではスマホなどで検索すれば、どこかに在庫さえあれば通販で簡単に手に入れることができるようになったので、おおいに利用していただきたいと思う。もっとも、古本屋を探して歩くのが大好きだったぼくにはなんだか味気なくて、いまさらという気もするし、まったく利用したことはないのだけれど〉

 全詩集といっても詩人がその人生で書き残すことのできた詩篇数はもちろんまちまちで、買って数えてみて300篇以上収録されていればうれしくなってしまったものだった。

 それにつけても、5000句(首)も収録されていることの多い全句集や全歌集はお買い得だと思う。全歌集なんかではだいたい短歌一首が一行でそれも一行分の空白を間に置いて印刷されているのが一般的だけれど、たとえば、一ページ分のふつうの詩を20行読むよりも、一ページに10首印刷された短歌を読む方が、おなじ一ページでも断然得をしたような気がするのではないだろうか。

 そう、たったの一行にあんなにもイマージュのぎゅうぎゅう詰めになっていて中身の濃い俳句や短歌とくらべたら、イマージュのすかすかの詩の一行一行を読むことなんて、きっと、わけないこと。


  「私はプシシスムを真に汎美的なものに

  したいと思いこうして詩人の作品を読む

  ことを通じて、自分が美しい生に浴して 

  いると実感することができたのである」


 北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、千家元麿、佐藤春夫、西条八十、堀口大学、宮沢賢治、三好達治、丸山薫、中原中也、立原道造……。バッハやモーツァルトが好きなのとおなじでどうしてもかつてあこがれた名前ばかりが浮かんできてしまうけれど、こうした詩人たちの詩集を「言葉の流れの中にゆくりなく立ち現われる詩的な浮き彫り」を逃さずみつけだしてくれる詩的想像力を動員して読んでいけるようになれたなら、どんなにか素晴らしい人生がはじまることになるだろう。


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

  する、感性の極限点へみちびく」


 バシュラールが言うように、そのうち詩の言葉がほんとうの意味で高貴なものに感じられてくるようになったとしたら、詩の一篇一篇が、ぼくたちを、ほんとうに、感性の極限点へみちびいてくれる、なんてすごいことが実際に起こってしまうかもしれないのだ。

 そんなものすごいことがこの人生でほんっとうに起こってしまうかもしれないと期待させるのも、一篇の詩を前にしただけでいやでも活性化される詩的想像力というものを、並行して旅先で旅情を満喫していただくのがあくまでも理想だけれど、この本のなかの俳句でポエジーをくりかえし味わっているそのことが、ぼくたちだれもの内部に、知らず知らずのうちにしっかりと育成してくれているはずだからだった。  


   「感性の諸領域は相互に対応する。この

   領域は相互に補足しあう」


 次第に自分のものになってきつつある詩的想像力と同時に無視できないのが、感性の極限点という言葉とも関係してくるけれど、まさにいま、俳句のイマージュとそのポエジーが覚醒させ変革してくれている感性のなかでも、ワンランク上の感受性。


   「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が

   覚醒し、調和する」


 俳句を前にしてめざめる幼少時代がレベルアップすれば、この本のなかの俳句による単純な「言葉の夢想」においても、この世の至福ともいうべき最高の美的感情をぼくたちは体験することになるはずだった。そう、まさに、バシュラールの教えによると。


  「ポエジー、美的なあらゆる歓喜の絶頂」


 幼少時代の宇宙的幸福を遠い源泉とするこのような至福の感情は、あらゆる《美》のもたらす甘美な<諧調>そのもの。この本の700句の俳句のポエジーだけでも何度も深く味わうことをくりかえせば、一篇の詩のなかに(べつに詩だけにかぎらないけれど)甘美な〈諧調〉を感じとる、ワンランク上の感受性をぼくたちの内部にめざめさせないはずはないと思われるのだ。


  「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒

  させることができる」


 こういう甘美な<諧調>に対する、遠い日の宇宙的幸福の記憶と切り離せない、人生最高の喜びを生んでくれる望みうる理想の感受性を、詩的感受性と呼ぶことができると思うけれど、そうした詩的感受性と詩的想像力がしっかり育ってくれば、そのうち、それこそ感性の極限点において詩を味わっていけるようになったりするのも、当然のこと。


 ふつうの詩を味わうために不可欠な言葉の「夢幻的感受性」も、そうした詩的感受性と詩的想像力の複合したかたちの感受性と考えることができるから、旅抜きで俳句を読むだけでもいい、要は、ゆたかな詩的感受性と詩的想像力を自分のものにすることが、これからの人生の大きな課題となってきそうだ。


 ポエジーとの偶然の出会いなんて人生においてほんとうにまれなことだし、おまけにさっぱりわけの分からない現代詩がやたらと多くなってしまったりで、詩の読者が極端に減少してしまったせいだろう。神田や早稲田の古本屋には、信じられないほどの安い値段がついて、いまでもいろいろな全詩集などが棚にさらされているのではないかと思う。(もっとも、ここ20年ほど古本屋街を歩いたことはなくて、その軒数がめっきり減ってしまったという話も聞くけれど、いまはどうなっているのだろう)

 ぼくの部屋の本棚からあふれて録りためた映画のDVDや全歌集や全句集といっしょに積み重ねられているつぎのような全詩集などを、古本屋や通販でどっさり手に入れることができたら、一生かけても味わいきれないほどの、人生への素晴らしい贈物を自分のものにすることになるだろう。ぼくのコレクションのほんの一部をあげてみると……。


 「佐藤春夫全詩集」(講談社・755篇「竹内勝太郎全詩集」(思潮社・443篇)「草野心平詩全景」(筑摩書房・669篇)「立原道造全集・第一巻第二巻 詩集Ⅰ詩集Ⅱ」(角川書店・451篇)「笹澤美明全詩集」(朝日出版社・373篇)「阪本越朗全詩集」(彌生書房・431篇)「福永武彦詩集」(麦書房・59篇)「野田宇太郎全詩集」(審美社・211篇)「高田敏子全詩集」(花神社・748篇)「吉行理恵詩集」(晶文社・88篇)……。

 外国詩人のものでは「メーリケ詩集」(三修社・225篇)「フランシス・ジャム全詩集」(青土社・838篇)「ゲオルゲ全詩集」(郁文堂・769篇)「アイヒェンドルフ詩集」(彌生書房・87篇)「ヘルマン・ヘッセ全集 第16巻・全詩集」(臨川書房・922篇)……といったぐあいだ。

 

 よっぽどの幸運に恵まれないかぎり、この人生で偶然ポエジーに出会ってこうした詩の愛読者になることなど、まず考えられない。

 ところが、いまの段階でも、詩のなかでもこの本のなかの俳句だけが、隠されていた「幼少時代の核」をしぜんとあらわにしてくれて、ほんとうの意味でイマージュを受けとめるための条件を満たし、ぼくたちだれもの心のなかにかならずポエジーを生むことになる。

 生まれるポエジーにまだ個人差があるのは、この本をどれだけ活用していただいているかにもよることだし、まだポエジーに出会えていない方も当然いるかもしれないけれど、絶対に、あきらめないでいただきたい。なによりもそれは、ぼくたちの幼少時代の熟睡度の個人差の問題でしかないからだった。


  「世界のこういう美のすべてを、いまわ

  たしたちが俳句作品のなかで愛するとす

  れば、甦った幼少時代、わたしたちのだ

  れもが潜在的にもつあの幼少時代から発

  して復活された幼少時代のなかで、愛し

  ているのである」


 散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。旅に出て「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させて、旅先でぼくたちの幼少時代と詩的想像力を同時にあらわにしてしまうこと。


  「人間のプシケの中心にとどまっている

  幼少時代の核を見つけだせるのは、この

  宇宙的な孤独の思い出のなかである。そ

  こでは想像力と記憶がもっとも密接に結

  合している」


 沈黙に縁どられたたった一行の俳句を前にするだけで、俳句作品が、旅先で目をさました幼少時代をそのつどもう一度めざめさせ、そうして俳句形式が、旅先でみつけた詩的想像力を上手に再利用してくれたから(あるいは、くれるから)ぼくたちはこの本のなかで俳句のポエジーに出会えた(あるいは、そのうちいやでも、絶対、出会えるはずな)のだったし、そのことのくりかえしが、ぼくたち自身の詩的想像力や詩的感受性を育成してくれている(あるいは、育成してくれることになる)はずなのだった。

 やっぱり、並行して旅先でたっぷりと旅情を満喫していただくのがあくまでも理想だけれど、それでも、テレビの旅番組や映画で味わった旅情だってかまわない。過去の旅とかでそれなりの旅情を味わったことのあるほとんどの方にとっては、いまさら旅になんか出なくたって、旅先で作られたと思われる俳句を読んで旅情のようなポエジーを味わってしまうのが、あとはバシュラールの言葉が確実に手助けしてくれるだろうし、旅抜きのこの本のなかの俳句だけで詩的想像力や詩的感受性をご自分のものにする、そのきっかけになってくれるはずだった……



  雪が降る旅の小さき食堂に


  食堂のすべての窓に雪降れり



 面倒くさい言葉なんかをとおさないで、だれもが旅先で体験してしまう詩よりも純度の高い詩情(ポエジー)。それこそが、旅情というものにほかならないのだった。それを、言葉をとおして味わってしまうことの意味とは……



  雪上につながれし馬も車窓すぐ


  梅干してきらきらきらと千曲川


  汗ふくや飛騨も晩夏の白木槿


  早稲は黄に晩稲は青し能登に入る


 

  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」



 『夢想=幸福のメカニズム』を補足する4つの長文を、そのままぼくの「バシュラール・ノート」に書き抜いておいたことを前回話した。このさい残りの3つもつづけて読んでみることにしよう。 

 この人生で、人間の幸福にとって、これほど価値ある文章に触れることのできる機会はそうあるものではないだろうから、ちょっと長いし、何度も引用させてもらった箇所もたくさんふくまれていて新鮮さに欠ける部分もあるかもしれないけれど、心をこめてじっくりと読みこんでいただきたい。

 旅と俳句で、あるいは、旅抜きの俳句で、最高の人生を手に入れるというぼくたちがこの本をとおして試みている<方法>の正当性と有効性を、これらの文章によってしっかりと確認しておきたい。つまり、そう、ぼくたちのやり方に間違いはなかったのだ、と。


  「幼い頃を夢想しながら、わたしたちは

  ふたたび夢想のすまい、世界を開いてく

  れた夢想のもとへと戻っていく。わたし

  たちを孤独の世界に最初に住まわせるの

  は夢想なのである。そして孤独な子供が

  イマージュのなかに住むように、わたし

  たちが世界に住めば、それだけ楽しく世

  界に住むことになる。子供の夢想のなか

  ではイマージュはすべてにまさっている。

  経験はそのあとにやってくる。経験はあ

  らゆる夢想の飛翔の抑制物となる。子供

  は大きく見るし、美しく見る。幼少時代

  へ向う夢想は最初のイマージュの美しさ

  をわたしたちに取り戻してくれる。

   世界は今もなお同じように美しいだろ

  うか。最初の美へのわたしたちの執着は

  非常に強いので、もし夢想がわたしたち

  の一番大事にしている思い出のもとにつ

  れていくなら、現実の世界はまったく色

  あせてしまうであろう」


  「夢想のなかには非常に深い夢想があっ

  て、そういう夢想がわたしたちを自己の

  なかのきわめて深いところに運んでいき、

  わたしたちを自己の歴史から解放する。

  これらの夢想はわたしたちを自分の名前

  から自由にする。これらの夢想はわたし

  たちの現在の孤独を人生の最初の孤独へ

  とつれていく。最初の孤独、つまりあの

  幼少時代の孤独は、あるひとたちのたま

  しいに消しがたい刻印を残している。か

  れらは生涯を通じて詩的夢想に敏感にな

  る、つまり、孤独の価値を知っている夢

  想にたいし敏感になるのである。子供が

  幼少時代に知る不幸は大人たちによって

  もたらされる。その苦痛を幼少時代は孤

  独のなかでやわらげることができる。人

  間の世界が子供を安らかな状態において

  くれるとき、子供は自分を宇宙の嫡男だ

  と感じる。このようにして子供は孤独な

  状態で夢想に意のままにふけるようにな

  るや、夢想の幸福を知るのであり、のち

  にその幸福は詩人の幸福となるであろう。

  いったい、夢想家としての現在のわたし

  たちの孤独と、幼い頃の孤独とのあいだ

  に相通じるものがないなどと考えられる  

  だろうか。だから、静かな夢想のなかで、

  しばしばわたしたちが幼い頃へと導く坂

  道を降りていくことは、偶然として片づ

  けられることではないのである」


  「夢想にふける子供は、ひとりぼっちだ、

  本当に孤独なのである。かれは夢想の世

  界で生きている。この幸福な孤独のなか

  で夢想する子供は、宇宙的な夢想、わた

  したちを世界に結びつける夢想を知って

  いるのである。

   わたしの意見では、人間のプシケの中

  心にとどまっている幼少時代の核を見つ

  けだせるのは、この宇宙的な孤独の思い

  出のなかである。そこでは想像力と記憶

  がもっとも密接に結合している。そのと

  き幼少時代の存在は現実と想像とを結合

  し、全想像力を駆使して現実のイマージ

  ュを生きている。これらの宇宙的で孤独

  なあらゆるイマージュは、子供の存在の

  深層で反応する。すなわち人間のための

  存在から身を遠ざけ、世界から暗示を受

  け、世界のための存在を創造する。これ

  が宇宙論的な幼少時代の存在である。人

  間は過ぎ去っていく。宇宙はとどまる。

  その宇宙はいつも原初の宇宙であり、こ

  の世のどんな大きな見世物でさえ生涯に

  わたって消すことのない宇宙なのである。

  わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大さ

  はわたしたちの内面に残されている。そ

  れは孤独な夢想のなかにまた出現する。

  この宇宙的な幼少時代の核はこのときわ

  たしたちの内部で見せかけの記憶のよう

  な働きをする」


 つぎの文章は、自分に都合のいいようにはしょったり手を加えたりしている部分が多くて訳文の原形をとどめていないのでちょっとためらわれるのだけれど、ついでだからオマケとしてもうひとつ紹介してしまおう。


  「わたしたちを幼少時代につれもどす夢

  想がなぜあれほど魅惑的で、あれほどた

  ましいにとって価値あるものとみえるの

  か……。それは幼少時代がわたしたちの

  内部での深い生の水源であり、つねに新

  しい出発の可能性に対応する原理であり

  つづけるからである。

   水、火、光という原型にもにて、幼少

  時代は水であり、火であり、光であって、

  無数の基本的諸原型を定着させる。幼少

  時代へ向うわたしたちの夢想のなかで、

  人間を世界に結びつける原型、人間と世

  界との詩的調和をあたえる原型、これら

  の全原型は、いわば再度生命力をあたえ

  られるのである。

   読者にお願いしたいのは、原型の詩的

  調和という概念を、ろくに検討もせず棄

  てないでもらいたいということである。

  ポエジーが人間の生活にとって一種の総

  合力であるということをわたしは証明し

  たくてたまらないのだ。わたしの立場か

  らいえば、原型は人間の世界にたいする

  信頼を、世界にたいする愛を、自分たち

  の世界の創造を、助長する情熱の貯蔵庫

  である。もし哲学者たちが詩を読むこと

  があれば、世界開示という哲学的命題に

  も生きた実例がたくさんあたえられるこ

  とになるだろう。各原型が世界を開くの

  であり、世界への招待なのである。世界

  が開くたびに飛翔の夢想がほとばしる。

  そして幼少時代へ向う夢想は最初の夢想

  の効力をわたしたちに取り戻す」

 

 ぼくたちの試みの正当性と有効性を心から納得させてくれる4つの長い文章を読んでみて(オマケとしてあげた4番目の文章にはふくまれていないけれど)いちばん心に残った言葉は「幼少時代」「イマージュ」「夢想」以外では、なんといってもそれは、やっぱり「孤独」だったのではないだろうか。

 「幼少時代の核」「イマージュ」「夢想」のほかに、この「孤独」という言葉もぼくのキーワードのひとつに加えようかと迷ったほど、バシュラールにとっても重要な言葉。

 幼少時代の孤独が理想らしいのだけれど、バシュラールのいうぼくたち大人にとっての孤独とは、前にも言ったみたいに、なにものにも煩わされない深層まで解放された完全な自由を獲得して(そう、旅先におけるぼくたちみたいに)この美しい世界のなかにひとりでこうして存在していることの、その素晴らしさをさすような、そんな感じの言葉。なんといっても《甘美な存在論>こそ、バシュラールの本領。どこか甘美な、まさに、夢想するための理想状態をさす言葉こそ、バシュラール的孤独なのだ。

 もう何度も引用させてもらっているけれど、みずからの孤独の作者となる、なんて、すごい言葉もバシュラールは残しているのだった。


  「日常生活にあふれているあらゆる〈先

  入観〉を遠ざけたとき、他者への配慮か

  ら生じた気苦労からも解き放たれ、こう

  して名実ともにかれがみずからの孤独の

  作者となり、ついに時間を気にすること

  なく宇宙の美しい光景を眺めることがで

  きるとき、この夢想家はみずからのなか

  にひとつの存在が花開くのを感じる。突

  如としてこういう夢想家が世界の夢想家

  となるのである。かれは世界に向かって

  開き、世界はかれに向かって開く」


 そうして、つぎのようなきわめつけのような言葉も。


  「けれどもわたしにはまた孤独、わたし

  の孤独、しかも夢想の孤独、それもわた

  しの夢想の孤独に対する権利があったのだ」


  「詩人たちによってわたしにあたえられ

  るイマージュに全く同化し、他者の孤独

  に全く同化しながら、他者のいろいろな

  孤独によって自分を孤独にする。他者の

  孤独によって、わたしは自分をひとりに

  するのだ。深くひとりに」


 それなのにどうして「孤独」を加えて「幼少時代の核」「イマージュ」「夢想」「孤独」という4つのキーワードにしなかったのかというと、シンプルさが取り柄の『夢想のメカニズム』というアイデアがちょっとややこしくなりすぎるのではないかと考えたからだった。

 孤独なんてことを意識するまでもない。旅に出るだけで、旅が、旅というものの特性が、しぜんと「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させてしまって、その程度の違いがそのまま旅の習熟度の個人差ということになると思うけれど、いやでも、旅先で、バシュラール的孤独のなかにぼくたちを立たせてしまうことになるのだから。

 そうして、沈黙に縁どられた俳句を前にしても、沈黙にかこまれたたった一行の俳句作品の孤独が、そうしたバシュラール的孤独へとぼくたち俳句の読者を導いてくれる。 

 俳句を前にしたときのぼくたちだって、子供のときにそうだったように、広大なこの素晴らしい宇宙のなかで、ほんとうに、ひとりぼっちなのだから……



   鰯雲夜より(あけ)へと引継がれ



  「夢想家としての現在のわたしたちの孤 

  独と、幼い頃の孤独とのあいだに相通じ

  るものがないなどと考えられるだろうか。

  だから、静かな夢想のなかで、しばしば

  わたしたちが幼い頃へと導く坂道を降り  

  ていくことは、偶然として片づけられる

  ことではないのである」


 孤独の深さが、よりレベルの高い幼少時代へとぼくたちを導いてくれることになるのではないか。


  「これらの夢想はわたしたちの現在の孤

  独を人生最初の孤独へとつれていく」


 こうしたこともぼくたちの試みの正当性と有効性に根拠をあたえてくれるすごい事実だけれど、ぼくたちの内部に隠されていた「幼少時代の核」をしぜんとあらわにしてくれる旅と俳句が、あるいは、旅抜きにしてもこの本のなかの俳句が、いやでもぼくたちをバシュラール的な孤独へと導いてくれることになるはずなのだから、これからも、孤独なんてあまり意識しないでやっていきたいと思う。

 孤独なんてことを意識しなくたって、ことにも何度も旅に出て「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させてきたぼくたちは、旅先で、ぼくたちが世界に向かって開かれ、そのつど、なつかしかったり美しかったりする世界がぼくたちに向かって開かれるのを、何度も素晴らしく実感してきたのだった。


  「最初の孤独、つまりあの幼少時代の孤

  独は、あるひとたちのたましいに消しが

  たい刻印を残している。かれらは生涯を

  通じて詩的夢想に敏感になる、つまり、

  孤独の価値を知っている夢想にたいし敏

  感になるのである」


 孤独の価値の恩恵を知らず知らずに受けているぼくたちには、孤独なんてことを意識しなくたって、そのうち詩的夢想に敏感なひとたちの仲間入りをすることが、すでに約束されているはずなのだった。

 旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きでも俳句のおかげで、ぼくたちの内部にいま育ってきている詩的想像力と詩的感受性が、そのうち、それ以後の生涯を通じて、詩を読んで詩的な喜びを味わったりとか、ぼくたちを詩的夢想に敏感にさせてくれることになるのは、まず間違いのないことだと思われから。

やっぱり、この本をいつまでも身近に置いて上手に利用していただければ、それほど遠くない未来に、ぼくたちだれもが最高と思えるような人生を確実に手に入れることになるのは、しっかりと約束されているはずなのだ。

 



 今回のバシュラールのいくつかの長文を読んで、私たちのやり方の正当性と有効性を心から納得していただけたのではないかと思っています。「夢想=幸福のメカニズム」と呼ぶしかないような、私たちの心のなかのメカニズムみたいなものの存在についても。

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