俳句 楽園のリアリズム(パート11・全)
最新エピソード掲載日:2025/08/17
詩だけを読む(パート10・全)と(パート12・全)のあいだに挟まれて今回は61句の俳句のポエジーを連続して味わって、まだ借り物みたいなものでも、私たちの詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を生き生きと活性化してもらった、いまの段階で考えうる最高に理想的な状態で、高田敏子の詩5篇と大木実の「田舎の駅」という詩1篇を読んでみることになります。
詩をそれなりに味わえるようになった方の実感でもあるはずですが本文の冒頭でこんなことを書いておきました。 …… こんな言い方って鼻もちならないのは分かっているけれど、ポエジーって、選ばれた者だけが味わうことのできる、人生最高の喜びなんだと、やっぱり、そう思わないではいられない。詩の読者とは、最高の人生が約束された(社会的にはどのような存在だろうと)人生のエリートなのだといっていい。そうしてぼくたちも、その仲間入りをしようとしているのだ。
私たちの試みの目的はこの言葉につきるかもしれません。
一枚の風景画みたいに文学的な重苦しさから完全に解放されていて、まじりけのない純粋なイマージュだけをたったの一行で私たちに手渡ししてくれるような詩は、俳句以外には考えられない。この国にはドラマの表現されていない短歌の自然詠という一行詩もあるけれど、私などどうしても一首に文学臭を感じてしまって、それを書いた歌人のなつかしくて愛すべき<人生の時>を感受してしまう。ただのポエジーなんか俳句にまかせておけばいいのだ、と。
短歌も詩も、意味作用によって少し薄められたポエジーに意味作用による深い感動や喜びが加味されるわけですが、世界中どこを探したってたったの一行で、はるか時間と記憶の彼方、宇宙的な〈楽園の時〉を追体験させてくれるような詩は、俳句以外には、絶対、みつからない。私たちはそうした俳句をくりかえしたっぷりと味わいつづけてきたのでした。
「いっさいの意味への気遣いに煩わされることなく、わたしはイマージュを生きる」ー俳句。
「イマージュと観念の協調として理解される詩という構築物」「表現は、表現された感情の上に逆に強く作用を及ぼしている」「言語が完全に高貴になったとき、音韻上の現象とロゴスの現象がたがいに調和する感性の極限点へみちびく」ー詩や短歌。
「世界は今もなお同じように美しいだろうか」
俳句 楽園のリアリズム(パート11・全)
2025/08/17 01:21
(改)