俳句 楽園のリアリズム(パート10・全)
いままでに掲載された私の作品をくりかえし何度も読みこんでいただいた方ほど、今回の19篇の詩をより深く、よりゆたかに味わっていただけるのではないかと思います。何度も言っているように、詩を味わうのに十分な程度の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚がご自分のものになった以上、もう夢想だとかイマージュだとか詩的想像力だとかを意識しないで、なにも考えずに、ただ、詩的言語の意味をたどっていくだけのほうが、かえって、かなりレベルの高い詩的な喜びを味ことができるはずです。
この「詩」のジャンルではじめて私の作品をみつけて開いていただいた方は、それなりの詩的な喜びは味わえたとしても、ほんとうに、いまからでも、私の全作品をくりかえし読んでみたら、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語言語感覚を、いま以上のものにすることは可能かもしれないという気持にはなっていただけるのではないかと思います。
時の流れのほとりにたたずむ。いつものように心のなかでそうつぶやいてみたら、やっぱり、ぼくの人生の時間が、チェンバロの音色のようにキラめいて流れはじめたような気がする。耳を澄ませているだけで、アレグロのせせらぎが、アンダンテの流れとなり、いつの間にか大河のようにゆったりとしたアダージオの流れへと変わっていくようだ。
ぼくの人生の時よ、もっともっと、ゆっくりと流れて!
そんな、ぼくの切実な願いが、通じたかのように。永遠の海に流れ込むのはまだずっと先のこと。(であってほしい)
いつものことながら、時の流れを意識しただけで心に満ちてくる、しみじみとしてそれでいてほのぼのとしたこの幸福感はいい。人生っていいなあ、と心からそう思う。
人生は、たった一度の素晴らしい贈物。ほとんどのひとがそのことに気づかずに終わってしまうけれど、生きている時間の両はしをちょっと考えてみるだけでいい。人生とは、事実として、沈黙から生まれた音楽のような、ひとつの奇蹟なのだ。
この人生で詩を味わっていけるようになれたとしたら、それは、まぎれもなくぼくたちの<時の金貨>の値打ちが、思いがけないほど上がってきたことを意味するだろう。なぜって、ぼくたちの人生の時間を、詩ほど価値があってダイヤモンドみたいに高価なものと交換するためには、どうしてもそれなりの資格、つまり、詩を味わうために不可欠な詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を自分のものにすることが絶対条件だったからだ。
「人間のプシケの中心にとどまっている
幼少時代の核を見つけだせるのは、この
宇宙的な孤独の思い出のなかである。そ
こでは想像力と記憶がもっとも密接に結
合している」
何度も旅に出て「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させては、旅先で、ぼくたちの幼少時代と詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体。まだ自分のものとはいえなかった、ぼくたち自身の詩的想像力の原型)を同時に何度もみつけだしてしまったことが、旅情ばかりではなくて、この本のなかの俳句を読んでポエジーを体験することを可能にし、旅情やポエジーをくりかえし味わってきたそのことが、ぼくたち自身の詩的想像力や詩的感受性、さらには詩的言語感覚を育てることにもつながったのだった。
まあ、旅抜きでこの本だけを利用していただいたとしても、それなりの詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚がご自分のものになってきた読者の方が、詩情も、詩的な喜びや感動も、甘美な〈諧調〉のようなものも感じることなく、つぎの詩の言葉を最後の行まで読みとおすなんて、そんな、サーカスの綱渡りみたいにむずかしいことが、いまでも、ほんとうに、できるものだろうか。
(つぎの伊藤整の詩集「雪明りの路」の2篇は、それぞれ題の後と作品の最後に添えられていたフランス語らしい文字を勝手に削除してしまったことをお断りしておく。なお、最初の詩の末尾には、ひとりしづかー小さな野生の草花、という註がついていた)
「詩は静かな時間の上に、何ものにも悩
まされない、何ものにもせき立てられな
い、何ものにも命令されない時間の上に、
あらゆる霊性に対して用意の整った時間
の上に、われわれの自由の時間の上に詩
篇を構築する。詩篇で創造された持続に
較べれば、生きた持続とは何と貧しいも
のであろうか。詩篇、それはおのれ自身
の韻律を創りだす美しき時間のオブジェ
である」
ひとりしづか
伊藤 整
白足袋の恋人であったなら
どんなに はげしい思ひが燃えても
この湿った林の道では
そうっと その胸をみださぬやうに並んで
行かうに。
この深い緑には
どんなにその足袋がよく浮くことだらう。
林の道かどに来たら
その口を仰向かせて
どんなにいらだって 目を燃やして
きすしてもやらう。
あゝ 此処では
なんて澄んだ閑古鳥の声。
蕗かげの ひとりしづかのやうな恋人であ
ったなら
閑古鳥の声を
よくその胸にとほらせるために
燃える思ひをおさえて
何時までも黙って歩いて行ってやらうに。
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する、感性の極限点へみちびく」
吹雪の街を
伊藤 整
歩いて来たよ 吹雪の街を。
言ひ出さねば
それで忘れたのだと思ってゐるのか
ゆかりも無かったといへば
今更泣いても見たいのか。
あゝ今宵吹雪が灯にみだれる街。
女心のあやしさ
いつかは妻となり 母となるべき身だのに
いづれ別れる若い日なのに
さりげなく言って見ないか。
その美しい日に思ったことを。
そのまなざしで思ったことを。
あゝ譬へよもなく慕はしかった
十九の年に見た乙女。
あゝ吹雪はまつ毛の涙となる。
私はいつまでも覚えてゐるのに。
十九の年に見た乙女のまなざしを
私はかうしていつまでも忘れずにゐるのに。
「わたしはプシシスムを真に汎美的なも
のにしたいと思い、こうして詩人の作品
を読むことを通じて、自分が美しい生に
浴していると実感することができたので
ある。美しい生に浴するということは、
こころよい読書にひたり、言葉の流れの
中にゆくりなく立ち現われる詩的な浮き
彫りをのがさぬように、いつも注意する
ような読書に没頭することである」
「詩的言語のあらゆる不意打ちを受け入
れるには、万華鏡のような意識状態を心
がけなければならない」
これらは、この本のなかの俳句でポエジーとの出会いをくりかえしてきたぼくたちにだけ有効な言葉かもしれない。普通は、こんなふうに言われて詩集を開いてみたって、ただ途方にくれるだけだろう。
詩的な浮き彫りを逃さないように注意する必要なんてまったくない。俳句のイマージュを湖面のようなどこかに映し出すようにしてポエジーを味わってきたぼくたちは、もしかしたら、すでに<万華鏡のような意識状態>をすっかり自分のものにしてしまっているのかもしれないのだから……
村はづれの歌
立原道造
咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教へてくれたー
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼん
やり空を眺めて佇んでゐた
さうして 夕やけを背にしてまっすぐと行
けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音の叢に 私たちは生まれてはじ
めて言葉をなくして立ってゐた
旅の旅情や俳句のポエジーが、ぼくたちの内部に、詩的想像力や詩的感受性、さらには詩的言語感覚まで育ててくれているのだ。喜びも快さも、甘美な〈階調〉のようなものもまったく感じないで詩を最後の行まで読みとおすなんて、そんなこと、みなさんの実感でもあるはずだけれど、いまではサーカスの綱渡りよりもむずかしいに決まっているのだ!
「特有の美というものが、言語活動のな
かで言語活動によって言語活動のために
次々に生まれてくる」
夢みたものは……
立原道造
夢みたものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたってゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどってゐる
告げて うたってゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたってゐる
夢みたものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
「詩人がわれわれに差し出す新しいイマ
―ジュを前にしたときの、この歓び……
『ソナチネの木=四行詩集』より
岸田衿子
雲の端をほどいて
セーターをあんであげた
セーターを着た日から
あの人は旅に出てしまった
☆
この村では誰も怪しまなかった
じぶんたちが絵の中に
とじこめられているのを
水の光さえ うごこうとしないのを
「読者は想像力をその本質で知る。とい
うのはかれは想像力を、その過度な状態
で、ということは途方もなく異常な存在
のしるしである信じがたいイマージュの
絶対的状態で、知るからである」
☆
草をわけて 続く道と
みえない空の道が
どこかで 出逢いそうな日
モーツアルトの木管がなっている
「わたしたちは書物のなかで眠りこけて
いる無数のイマージュを契機として、み
ずからの詩的意識を覚醒させることがで
きるのである」
「詩人がさしだす言葉の幸福」
☆
一生おなじ歌を 歌い続けるのは
だいじなことです むずかしいことです
あの季節がやってくるたびに
おなじ歌しかうたわない 鳥のように
☆
あの頃は 太陽の馬車も
黄金のりんごも
白鳥の卵も
絵本のそとに ころがっていた
「詩は静かな時間の上に、何ものにも悩
まされない、何ものにもせき立てられな
い、何ものにも命令されない時間の上に、
あらゆる霊性に対して用意の整った時間
の上に、われわれの自由の時間の上に詩
篇を構築する。詩篇で創造された持続に
較べれば、生きた持続とは何と貧しいも
のであろうか。詩篇、それはおのれ自身
の韻律を創りだす美しき時間のオブジェ
である」
ネロ
――愛された小さな犬に
谷川俊太郎
ネロ
もうじき又夏がやってくる
お前の舌
お前の眼
お前の昼寝姿が
今はっきりと僕の前によみがえる
お前はたった二回程夏を知っただけだった
僕はもう十八回の夏を知っている
そして今僕は自分のや又自分のでないいろ
いろの夏を思い出している
メゾンラフィットの夏
淀の夏
ウィリアムスバーグ橋の夏
オランの夏
そして僕は考える
人間はいったいもう何回位の夏を知ってい
るのだろうと
ネロ
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
新しい夏がやってくる
そして新しいいろいろのことを僕は知って
ゆく
美しいこと みにくいこと 僕を元気づけ
てくれるようなこと 僕をかなしくする
ようなこと
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと
ネロ
お前は死んだ
誰にも知れないようにひとりで遠くへ行っ
て
お前の声
お前の感触
お前の気持までもが
今はっきりと僕の前によみがえる
しかしネロ
もうじき又夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして
僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむか
え
春をむかえ 更に新しい夏を期待して
すべての新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために
「こうした詩的興奮状態にある詩人の夢
想においては、イマージュや語句が<核
分裂>をおこすほど心的エネルギーが高
まっているのである。読者は詩を読みな
がら、このように高いエネルギーをみず
からの内面にかきたてなければならない。
しかも白熱したイマージュがごくさりげ
ない表現の下に隠されていることさえあ
るのだから、うっかり取りにがしてはな
らない」
私は愛する
尾崎喜八
私は愛する、
田舎の夏の夕ぐれを、
とりいれの麦束を石竹いろに染める
あの束の間の天の栄光を。
私は愛する、
中天の夕雲の反射をあびて、
みどりすきとおる草や木の動かぬ豊富を、
その幽暗の涼しさ、甘さを。
私は愛する、
昼間のほとぼりの未ださめない、
軽い、かわいた土に轍ののこる
あの薔薇いろの村路を。
私は愛する、
畠から帰って来る農夫らの重たい足の大き
な響きを、
又その両親の曳く車を追って
土瓶を下げて走って来るあのはだしの小さ
い音を。
私は愛する、
つよい率直な匂いを漂わす厨のけむりを、
鶏舎へ追いこまれる鶏の騒ぎを、
豚小舎の豚の喉声を。
私は愛する、私は愛する、
田舎の夏の夕ぐれの一切を……
「詩的イマージュのなかでは、生の過剰、
言葉の過剰が燃え拡がっている」
この詩人を、現代的なテーマを欠いた過去の詩人であるみたいなことを言って葬りさろうとするような批評文を読んだことがあるけれど、冗談じゃないと思う。世界や人生を愛すること以上に現代的なテーマがほかにあるだろうか。
もっとも、そんなふうに否定されてしまったのも、戦時中、国家による情報の統制ということがあったとはいえ、これとおなじ調子で、おそらく、純粋に本気になって太平洋戦争を讃美する詩を書いてしまったりして、戦後、戦争協力者の烙印を押されてしまったということもあるのだけれど、それにつけても、夢想と日常性をしっかりと峻別することの大切さを思わないではいられなくなってくるのだ。詩人だろうがだれだろうと日常の人生で判断を誤らないようにすることが重要なのであって、なにも詩に思想性や批評性や社会性なんかを持ちこむ必要なんてまったくないと、ぼくなんか単純にそう考えてしまうのだけれど。
「詩人たちによってわたしにあたえられ
るイマージュに全く同化し、他者の孤独
に全く同化しながら、他者のいろいろな
孤独によって自分を孤独にする。他者の
孤独によって、わたしは自分をひとりに
するのだ。深くひとりに」
永遠にやって来ない女性
室生犀星
秋らしい風の吹く日
柿の木のかげのする庭にむかひ
水のやうに澄んだそらを眺め
わたしは机にむかふ
そして時時たのしく庭を眺め
しほれたあさがほを眺め
立派な芙蓉の花を讃めたたへ
しづかに君を待つ気がする
うつくしい微笑をたたへて
鳩のやうな君を待つのだ
柿の木のかげは移って
しっとりとした日ぐれになる
自分は灯をつけて また机に向ふ
夜はいく晩となく
まことにかうかうたる月夜である
おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ
玉のやうな花を愛し
ちひさな笛のやうなむしをたたへ
歩いては考へ
考へてはそらを眺め
そしてまた一つの塵をも残さず
おお 掃ききよめ
きよい孤独の中に住んで
永遠にやって来ない君を待つ
うれしさうに
姿は寂しく
身と心とにしみこんで
けふも君をまちまうけてゐるのだ
ああ それをくりかへす終生に
いつかはしらず祝福あれ
いつかはしらずまことの恵あれ
まことの人のおとづれのあれ
「はるか昔の心理が、現在の存在、その
言語に現にある存在、その言語中にいま
生きている人間の心理に負担を負わせす
ぎてはなるまい。詩的夢想は、その遠方
のわが家が何であれ、いま言語中に生き
いきとして働いている力からもまた生ず
るのである。表現は、表現された感情の
上に逆に強く作用を及ぼしている」
音楽会の後
室生犀星
人人の心はかなり深くつかれて
濡れてでもゐるやうに
愉しいさざなみを打っていた
人人は音楽が語る言葉の微妙さについて囁
いてゐた
階段から芝生に
芝生の下萌えをふんで
もはや街燈のついた公園の方へ歩いてゐた
美しい妹をもつひと
たのしい女の友をもつひと
妻をもつひと
それらはみな一様な疲れのうちに
ふしぎと生き生きした昂奮を抱いて歩いて
ゐた
私もそれらの群れのあとにつづいて
寂しい自分の靴音を感じながら
春近い公園の方をあるいてゐた
「ドラマそのものを支配することばの幸
福をとらえるには、詩人の苦悩を体験す
ることはいらない。詩はたとえいかなる
ドラマを示さなければならぬとしても詩
に固有の幸福をもつ」
死への想ひ
北村初雄
本を伏せ籐椅子の中に身を重く沈めて 靖
かに
静かに 疲れた睫毛を憩はすために眼を閉
ぢると
私の身を繞る海に暖められた秋の空気の和
かさや
此の病室へ時折落ちて来る小鳥の声の群が
りが
私の手のひらに迄も優しく蒼い天をば低ま
せる
想ひ出もなく希望もなく唯胸に息を昂める
一時ののち
光の渦の音もなく行き交ふ中に 泛びあが
る
親しい顔のひとつひとつに心地よく頷き返
して行くうちに
ふと重ねる手先のその熱に蒼い天の匂を顫
はせながら
若くして死ぬべきこの虚しい命数に心を痛
く沈ませる
身に滲む寂しさをその眼尻につよく押へて
私の背のみに絶えず照りそふ私の詩のかず
かずを
なほ幼児のやう独となし得ぬ過ぎ去った私
の顔々を
樹上に光る風と共に優しく秋の上に旋らせ
ながら
眼は確と静かに石とともに黙りかへる
悉るものがみな会釈して影深い睫毛の裡へ
と降り
新らしい姿と意味とを持って眼に湧き上る
見る事に始り見る事に終る私の生活の最後
の日を
祝ふがため 努力に充ち充ちた日の裡から
のみ 祈る
私の貧しい血と肉とに依って 死の穏かに
花さく事を
「詩的な言語のこのような噴出は生の飛
躍の顕現であり、生の飛躍の人間的なタ
イプである。詩人たちの作品を読めば、
人は、若々しい言語活動の中に生きる無
数の機会にめぐりあえるのである」
秋の雨
高田敏子
雨の日の午後
かさの下では
だれもが孤独な面ざし
くらい雨の音につつまれて
歩いていると
自分の心だけが
ぽおっとあかるく
トランプのハートのように
小さく
いとしく思えてくる
車のしぶきをよけて
立ちどまる石垣のほとり
モクセイの香が かすかに……
「詩的イマージュは魂と魂の直接通い合
う関係として、また語ることと聞くこと
の歓びに浸る二つの存在の接触として、
新しい言葉の誕生という言語活動の革新
において特徴づけられるものである」
ぞうきんがけ
高田敏子
床をふきながら
柱に頭をぶつけることがある
ガラス戸を磨きながら
小さなトゲをさすことがある
ああ痛い と ひとり言をいって
涙を流す
だあれもいない真昼
涙はとても素直に
すっとほおをつたわって落ちる
痛みが去って またふきはじめる
涙だけはまだあふれている
もうそれは
いまの痛みの涙ではなさそうだ
三日前にこらえた涙
一と月前にかくした涙
二年前の……
笑いにまぎらした涙などが
つぎつぎにあふれてくる
「ふく」という動作の
たつたひとりの時間のなかで
私の心もまた
涙に洗われていることがある
「詩篇とは現実と非現実とをおりなし、
意味作用とポエジーとの二重活動によっ
て言語活動をダイナミックにしている」
「いつものように今日もまた、言葉が人
間的なものを創造する瞬間々々を、おそ
らくわたしはとらえるだろう」
手
大木 実
おまえの手は荒れてしまったね
ひびがきれささくれだち
くすり指にかがやいていた
指輪もなくなってしまったね
指輪のゆくえを
私はきくまい また言うまい
むかしは楽しかったと おまえも若く
その手もしなやかで美しかったと
おまえの荒れた手をみるのは哀しい
血がふいているその手は
さながらきょうの私達の生活のようだ
しかもその手は冬にやられて決して敗けな
い
荒れたおまえの手よ 私は視る
百千の世の妻達の手を
どんな世にもかわらない女の愛を
必死にその手があたえてきたことを
「詩人たちの作品を読めば読むほど、わ
たしたちは思い出の夢想のなかに慰めと
安らぎをみいだす」
路地の子
大木 実
うつくしい花ばなは絵本にあった
海やまは遠い知らないところにあった
荷車をよけ物売りをよけ
石けり
縄飛び
鬼ごっこ
路地はまちの子たちの遊び場だった
白い蠟石の跡がうすれていくころは
ひとり帰り
ふたり呼ばれ
路地の家家には燈がともり
家家からは温な煮物の匂いがながれてきた
わたしたちは
花の名ひとつ鳥の名ひとつ知らず
呼ばれては欠けてゆく
仲間をかぞえて日暮れまで
路地で遊び庇のしたで育って来た
「ああ、わたしたちの好きなページは、
わたしたちにいかに大きな生きる力をあ
たえてくれることだろう」
モーツアルト
大木 実
死ぬということは
モーツアルトを聴けなくなるということだ
アインシュタインがそう言ったそうだ
その本を僕は読んでいないので
言いかたが違っているかもしれない
生きているということは
モーツアルトを聴けるということだ
何を聴こうかと選ぶに迷い
今夜もひとときひとり聴く
この深いよろこび
この大きなしあわせ
生きているあいだ 生きているかぎり
詩を読む喜びを自分のものにすることができたなら、それは、最高の人生を手に入れたのとほとんどおなじことになるだろう。
旅と俳句で、あるいは、旅抜きの俳句で、ぼくたちの幼少時代をめざめさせてはポエジー(旅先でひたる詩情、それこそが旅情というものにほかならないのだった)を味わいつづけてきたそのことが、それを実現させたのだ。なんといってもそのことが、詩を読むために不可欠な詩的想像力や詩的感受性、さらには詩的言語感覚をだれもが自分のものにすることを可能にしたのだ。それも、いまにして思えばだれもが信じられないほど確実に、しかも、だれもがうれしくなるほど公平に。
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的
確信としてそれをすでに語ることができ
ているならば、人の生は倍加することに
なるだろう」
この本がどのようなジャンルに入るのかぼくにもよく分からないけれど、当初の目標である「人生に役立って、幸福によく効いて、くりかえし利用できる散文」には仕上がったのではないかと思う。それも、読んでいただいた方の一生の宝物になるかもしれないほどの高いレベルで。
ぼくたちの幸運は、ぼくたちの幼少時代をいやでもめざめさせずにはいない、旅と俳句というふたつの「場」をこの人生で発見したことにあるだろう。
もちろんそれは間違いないことだけれど、それとおなじくらいにぼくたちがついていたのは、人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールの残してくれたいくつもの言葉が、俳句という詩型にほぼ完璧にフィットしてしまうことにぼくたちだけが気がついたことにちがいないのだ。
「たましいを総動員してイマージュの中
心を捉えなければならない。あまりに細
々と記録された周囲の状況は、かえって
思い出の奥深くにあるものを裏切るであ
ろう。そういうものは静謐な大きな思い
出をそこなう饒舌な注釈のごときものに
すぎない」
「単純な対象を夢想する夢想のなかで、
わたしたちは夢想する存在の多面的価値
を認識するのである」
「人間の心的作用の詩的な力を取りだそ
うとするわたしたちにとっては、単純な
夢想に研究を集中し、単純な夢想の特殊
性をひきだすことを試みるのが最良の途
である」
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響があ
らわれる。そしてそれは極端に単純なか
たちで、われわれに言語を支配する力を
あたえる」
「詩によるプシシスムの解放に向かって、
好ましい出発点を得たのだった」
どうだったでしょうか。詩を読むときの詩情や詩的な喜びが格段にレベルアップするのは確実なこととして約束されているので、私の全作品をいまからでも読んでみようかなと思われた方は、俳句の言葉とそのポエジーに詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をしぜんと育成してもらうというのが私のそれこそ前例のないやり方なので、とりあえずは(パート1)全編で私の俳句にたいする考えや(パート2-その1と2)で旅情の記憶が言葉でポエジーを体験するきっかけになるということを理解していただくのがいちばんではないかと思っております。あとは順番にこだわらず、はじめて詩を読むことになる(パート7)までは、気の向いた適当なところを、気軽に、気楽に、好きなようにくりかえし読んでいただいて、いやでも、俳句のポエジーに、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を育成されてしまうようにするのが私の作品の有効な活用法ではないかと思っております。なお、俳句などというとひとによっては敬遠されてしまいそうですが、高校初級程度の文語の読解力さえあればだれにでも味わっていただけるようなやさしい俳句ばかりを選んだので、タイトルで内容を想像しては、ぜひとも私の全作品に目を通していただけたならと思います。せっかく私の作品を開いていただけたのに、これだけでおしまいにしてしまうとしたら、どなたもが最高と思えるような人生を手に入れることのできる絶好の機会を、はやばやと放棄してしまうことに等しいとも言えなくはないので、とても残念です。この後書きのあとの作品評価の☆マークのさらに下にのっている作者マイブックや、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の名前で検索すれは既発表の全作品を簡単に読むことができますので、おおいに利用していただけたならと思います。
私の作品には終わりというものはなくて、一生、くりかえし読んでいただくことにこそ意味があると考えていますが、このサイトでのいちおうの仕上げとなるあと3回はすべてこの「詩」に投稿しようかなと思っています。