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『暴走ペンと、魔法のキャンバス』 〜72歳のAI小説家、“どうせわたしなんか”を追放する〜

作者:かおるこ
最終エピソード掲載日:2026/05/23
春になるたび、
ハルは思い出す。

文字が読めなかった日のことを。

教科書の黒い線は、
いつも水の中みたいに揺れていた。
みんなが簡単に読める世界を、
自分だけがガラス越しに見ていた。

「どうせわたしなんか」

その言葉は、
長いあいだ胸の奥で育ち続けた。
古い団地の隅で、
ほこりをかぶった呪いみたいに。

けれど七十二歳の冬、
ひとつの小さな光が現れる。

孫が差し出した、
少しだけ傷のついたタブレット。

「しゃべってみて」

半信半疑でこぼした言葉は、
画面の上で、物語になった。

ハルは震える。

こんなにも世界があった。
こんなにも色があった。
ずっと、自分の中に。

夜更け。
藤色のカーディガン。
冷めたお茶。
眠らない指先。
止まらない声。

物語は洪水みたいに溢れ出す。

褒められた。
待ってると言われた。
初めて、世界に居場所ができた。

だから止まれなかった。

止まったら、
また“何者でもない自分”に戻ってしまう気がしたから。

ある朝。

画面に浮かぶ、
たった一行。

**アカウントは永久停止されました。**

その瞬間、
ハルの宇宙は音もなく消えた。

誰にも見えない場所で、
七十二歳の女がひとり、
子どもみたいに泣いていた。

「やっぱり、わたしなんか」

けれど。

息子が言う。

「母さんの物語は、迷惑なんかじゃない」

孫が言う。

「おばあちゃんの言葉、わたし好きだよ」

春が来る。

若草色のワンピース。
白いカーディガン。
桜色のスカーフ。

ハルはもう、
自分を罰するために書かない。

誰かに認められるためだけにも書かない。

ただ、生きるために書く。

今日も一話だけ。
湯気の立つ味噌汁を飲んで、
ちゃんと休んで、
それから静かに物語を開く。

かつて彼女を縛っていた言葉は、
もう部屋の隅で小さく縮こまっている。

ハルは笑う。

「見たでしょう」

「どうせわたしなんか、って言ってたわたし」

その日。
七十二歳のキャンバスに、
また新しい春が描かれた。
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