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第十三話 若草色のキャンバス

第十三話 若草色のキャンバス


 夏の入り口だった。


 団地の前の花壇には、誰かが植えた朝顔が絡まり始めている。夕方の風はぬるく、遠くで風鈴が鳴っていた。


 台所では、味噌汁の湯気が立っている。


 豆腐と茗荷の匂い。


 焼き鯖の香ばしい煙。


 炊きたての白米の甘い香り。


 その全部が、小さな団地の部屋を静かに満たしていた。


「おばあちゃん、すご!」


 ひまりの声が響く。


 ちゃぶ台の上のタブレットを見て、目を丸くしている。


「一位じゃん!」


 ハルは麦茶を飲みながら、小さく笑った。


「ほんとねえ」


 画面には、新しいランキングが表示されていた。


 一位。


 春野ことり。


 作品名――『どうせわたしなんかを、捨てる日』


 あんなに怖かったランキング画面を、今は少し落ち着いて見られる。


 前みたいに、息が止まりそうにはならない。


 もちろん嬉しい。


 胸の奥は、ちゃんと熱くなる。


 でも、もう数字だけで呼吸をしていない。


「今日は更新しないの?」


 ひまりが聞く。


「するわよ」


「じゃあ早く書かなきゃ!」


 ハルは首を振った。


「予約してあるもの」


 ひまりが驚く。


「予約!?」


「編集部ルールです」


 和彦が味噌汁を運びながら笑った。


「偉いだろ」


 ハルは少し照れくさそうに笑う。


 投稿予約。


 それを覚えるまで、本当に大変だった。


 昔のハルなら、“今すぐ出したい”に負けていた。


 待てなかった。


 止まれなかった。


 でも今は違う。


 一話を書いたら、寝かせる。


 読み返す。


 予約する。


 ご飯を食べる。


 眠る。


 生きる。


 それを覚え始めていた。


 和彦が席につく。


「冷めるぞ」


「はーい」


 三人で「いただきます」を言う。


 ハルは味噌汁をすすった。


 茗荷の香りが鼻へ抜ける。


 温かい。


 前は、こんなふうに夕飯を食べる余裕なんてなかった。


 ランキング。


 感想。


 更新。


 頭の中に物語が流れ始めると、全部忘れていた。


 食事も。


 睡眠も。


 家族の声も。


 ただ、“書かなきゃ消える”という恐怖だけで走っていた。


 でも今は、ちゃんと味がする。


「今日、学校でね」


 ひまりが話し始める。


 クラスのこと。


 給食のこと。


 友達と喧嘩したこと。


 前のハルなら、途中で意識が飛んでいたかもしれない。


 頭の中の物語へ戻っていたかもしれない。


 でも今日は違った。


「それでどうしたの?」


 最後まで聞く。


 ちゃんと、目を見て。


 ひまりは嬉しそうに喋る。


 和彦も少し驚いた顔をしていた。


「母さん」


「ん?」


「最近、ちゃんと座って飯食うな」


 ハルは笑った。


「編集部が厳しいから」


 窓から、夜風が入る。


 若草色のワンピースの裾が、ふわりと揺れた。


 ひまりが選んでくれた服だった。


「その服、似合う」


 和彦がぽつりと言う。


 ハルは目を丸くする。


「珍しいわね。あんたがそういうこと言うの」


「ほんとだよ!」


 ひまりも頷く。


「若草色、おばあちゃんっぽい!」


「どっちなのそれ」


 三人で笑う。


 その笑い声を聞きながら、ハルはふと椅子の背を見た。


 そこには、昔の藤色のカーディガンが掛かっている。


 少し色褪せて。


 袖口には茶渋の染み。


 何度も徹夜した夜。


 冷えたお茶。


 止まれなかった指。


 泣きながら書いた物語。


 全部、あのカーディガンが覚えている。


 捨てようと思ったこともあった。


 でも、やめた。


「あの頃のわたしも」


 ハルは小さく呟く。


「頑張ってたものね」


 和彦が静かに頷く。


 誰より不器用で。


 誰より壊れやすくて。


 それでも必死に、“生きてていい場所”を探していた。


 その夜。


 夕飯を食べ終えたあと、ハルはちゃぶ台へ戻った。


 タブレットを開く。


 画面の白い光が、部屋を優しく照らす。


 焦りは、まだ時々来る。


『早く更新しろ』


『止まるな』


『忘れられるぞ』


 昔の怪物は、完全には消えていない。


 でも今は、その隣に別の声がいる。


『ご飯食べた?』


『今日は一話だけ』


『明日でも大丈夫』


 ハルは深呼吸した。


 吸う。


 吐く。


 窓の外では、風鈴が鳴っている。


 夏の匂い。


 家族の気配。


 温かい味噌汁。


 全部ちゃんと、ここにある。


「何書くの?」


 ひまりが覗き込む。


 ハルは少し笑った。


「新作」


「タイトルは?」


 ハルは指先で、ゆっくり文字を打った。


『どうせわたしなんかを、追放しました』


 ひまりが吹き出す。


「なにそれ!」


「ざまぁ小説よ」


「誰への?」


 ハルは少し考えた。


 そして静かに笑う。


「昔のわたし」


 部屋が静かになる。


 タブレットの白い画面。


 若草色のワンピース。


 椅子に掛かった藤色のカーディガン。


 全部が、ここまでの時間を繋いでいる。


「おばあちゃん」


「ん?」


「また書くの?」


 ハルは頷いた。


「うん」


 その声は穏やかだった。


「でも今日は、一話だけ」


 ひまりが笑う。


「えらい!」


 和彦も小さく笑った。


 ハルはタブレットへ向き直る。


 昔みたいに、“消えないため”じゃない。


 今は、“生きるため”に書く。


 指先が、最初の一行を生み出す。


 七十二歳のキャンバスは、まだ終わらない。



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