第十四話 深夜のコンビニと、心のおもてなし
第十四話 深夜のコンビニと、心のおもてなし
深夜一時。
団地の外は、夏の湿った空気に包まれていた。
昼間の熱がアスファルトに残っていて、歩くたびにむわりとした風が足元から上がってくる。遠くでバイクの音が響き、電線の上では夜なのに蝉が一匹だけ鳴いていた。
ハルは白いカーディガンを羽織り、桜色のスカーフを首に巻いて歩いていた。
若草色のワンピースの裾が、夜風に揺れる。
眠れない夜だった。
頭の中に物語が流れてくる日は、時々こうなる。
でも昔みたいに、朝まで書き続けたりはしない。
編集部ルール。
「夜中に暴走しそうになったら、一回コンビニへ行く」
ひまりが作った妙な規則だ。
「冷たい風浴びると、ちょっと落ち着くから」
そう言って笑っていた。
コンビニの自動ドアが開く。
冷房の冷たい空気が、火照った肌を撫でた。
揚げ物の油の匂い。
コーヒーマシンの香ばしい香り。
漂白剤の混じった床の匂い。
深夜のコンビニは、なぜか少しだけ寂しくて優しい。
「こんばんは」
レジの奥から、青年が顔を上げた。
黒髪。
少し眠そうな目。
名札には、“高橋”と書いてある。
十九歳。
夜勤の大学生だ。
「あら、高橋くん」
「今日も来てくれたんですね」
彼はにこにこ笑った。
その笑顔を見ると、ハルは少し安心する。
深夜の世界に、自分を知っている人がいる。
それだけで、胸の中の孤独が少し薄くなる。
ハルはホットミルクを手に取った。
「今日は涼しいですね」
「でも外はむしむしするわ」
「確かに」
高橋は笑いながらレジを打つ。
その横顔はまだ幼い。
でも、夜勤をする人特有の疲れが少し滲んでいる。
「眠くないの?」
ハルが聞く。
「眠いですよー」
高橋は苦笑した。
「でも今日、誕生日なんです」
「え?」
「二十歳になりました」
ハルは目を丸くする。
「まあ!」
「おめでとうございますって、今日もう十回くらい言われました」
「じゃあ十一回目ね」
ハルは笑った。
「おめでとう」
高橋は少し照れたように頭をかく。
「ありがとうございます」
その笑顔を見た瞬間、ハルは胸がじんわり温かくなった。
二十歳。
まだ未来が眩しい年齢。
でもきっと、この子にも、この子なりの孤独や不安があるのだろう。
人は笑っていても、胸の奥では泣いていることがある。
ハルはそれを知っていた。
「毎日すごいね」
ハルは言った。
「え?」
「夜遅くまで働いて。頑張ってるね」
高橋は、一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ顔を赤くして笑った。
「そんなこと言われたの、久しぶりかも」
レジの奥で、電子レンジが鳴る。
誰かがカップ麺を買っていく。
自動ドアが開いて、また閉じる。
深夜のコンビニは、人の人生が少しずつ交差する場所だ。
「そういえば」
高橋が急に声を上げた。
「新作読みました」
ハルが瞬きをする。
「え?」
「“どうせわたしなんかを、追放しました”」
ハルは思わず笑ってしまった。
「長いタイトルねえ」
「でも好きです」
高橋は真面目な顔で言った。
「なんか……優しいですよね」
ハルの胸が静かに揺れる。
「優しい?」
「はい。読んでると、ちゃんと“いていい”って言われてる感じするんです」
その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。
昔のハルは、“認められたい”だけだった。
読まれたい。
必要とされたい。
消えたくない。
でも今は少し違う。
誰かの夜に、そっと毛布を掛けるみたいな小説を書きたいと思う。
高橋がレジ台に肘をつきながら言った。
「俺、前のサイトの時から読んでました」
ハルの目が揺れる。
「追放された時、めっちゃショックでした」
「……そう」
「なんか、自分の好きな店が急に潰れたみたいで」
高橋は困ったように笑う。
「寂しかったです」
ハルは言葉を失った。
あの日、自分は全部消えたと思っていた。
でも違った。
覚えていてくれた人がいた。
寂しいと思ってくれた人がいた。
「ありがとう」
ハルは小さく言う。
喉の奥が熱い。
高橋は照れくさそうに鼻をこすった。
「俺、ファンなんで」
ファン。
その言葉に、ハルはまた胸を打たれる。
七十二年生きてきて、自分にそんな言葉を向ける人がいるなんて、昔は想像もできなかった。
レジの横の窓に、自分の姿が映る。
皺だらけの顔。
白髪。
若草色のワンピース。
でも、その姿を前ほど嫌いじゃなかった。
「わたしね」
ハルはホットミルクを受け取りながら言った。
「小説って、おもてなしだと思うの」
「おもてなし?」
「うん」
紙パックの温かさが、手のひらへじんわり伝わる。
「疲れてる人とか、寂しい人とか」
ハルはゆっくり続けた。
「そういう人の心に、温かいお茶を出すみたいなもの」
高橋は静かに聞いていた。
「だからね」
ハルは少し笑う。
「あなたが“いていい”って思えるなら、わたし、ちゃんと書けてるのかもしれない」
深夜のコンビニの灯りは、白く優しかった。
高橋はにこっと笑う。
「書けてますよ」
その言葉は、ランキング一位より静かで。
でも、ずっと温かかった。
消え去りし 二千の個星は 熄みにきと ほうじ茶の香に 涙こぼるる
画面の文字 奪われし日の 傷痕なお 藤の衣に 抱きて生きる
デジタルに 熄えし灯も 誰かの夜 共に越えにし ぬくもりはあり
ありがとうございます。




