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第十二話 自分へのざまぁ

第十二話 自分へのざまぁ


 六月の風は、少し湿っていた。


 団地の古い網戸を揺らしながら、夜の匂いを部屋へ運んでくる。遠くでは、誰かが風鈴を吊るしたらしい。ちりん、と細い音が時々聞こえた。


 ハルはちゃぶ台の前に座っていた。


 淡い水色のワンピースの上に、白い薄手のカーディガンを羽織っている。髪はきちんと結ばれ、机の上には冷たい麦茶と、ひまりが置いていったラムネ菓子。


 タブレットの画面が、静かに光っていた。


 新しい作品。


 タイトルは、


『どうせわたしなんかを、捨てる日』


 派手な追放劇ではなかった。


 悪役令嬢も。


 復讐も。


 ざまぁもない。


 書いたのは、七十歳を過ぎた女の人の話だった。


 ずっと自分を駄目だと思って生きてきた人。


 人の顔色ばかり見て。


 謝ってばかりで。


 何か始める前から、“どうせ私なんか”と言ってしまう人。


 でもその人が、少しずつ、自分の声を取り戻していく。


 静かな話だった。


 地味かもしれない、とハルは思った。


 ランキングには向かないかもしれない。


 でも、どうしても書きたかった。


 これは、たぶん。


 自分の物語だったから。


 ぴこん。


 タブレットが小さく鳴る。


 感想が届いた音だった。


 ハルの肩が、少し揺れる。


 今でも感想を見る時は怖い。


 否定されたらどうしよう。


 また追い出されたらどうしよう。


 胸の奥では、あの怪物が今も囁く。


『むだだ』


『誰も求めてない』


『お前なんか』


 でも前と違う。


 ハルは深呼吸をしてから、画面を開いた。


『私も、“どうせ私なんか”と思って生きてきました』


 ハルの指が止まる。


 次の感想。


『この小説、読んで泣きました』


 次。


『年齢を理由に諦めなくていいんですね』


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 ハルは何度も感想を読み返した。


 文字は相変わらず少し揺む。


 でも昔ほど怖くない。


 読めないところは、読み上げ機能を使えばいい。


 分からないところは、和彦に聞けばいい。


 もう、一人で全部抱えなくていい。


「おばあちゃん!」


 玄関が開き、ひまりが飛び込んできた。


 ランドセルを放り投げ、すぐちゃぶ台へ走る。


「見た!? 感想すごい!」


 ハルは少し笑う。


「見たわ」


「泣いてる人いっぱいだよ!」


 ひまりはタブレットを覗き込みながら興奮している。


「“救われました”だって!」


 ハルは麦茶を飲んだ。


 氷がからん、と鳴る。


 その小さな音が、やけに綺麗に聞こえた。


「不思議ね」


「なにが?」


「前はね」


 ハルはゆっくり言った。


「いっぱい読まれたくて書いてたの」


 ランキング。


 数字。


 更新速度。


 感想数。


 あの頃は、止まったら自分が消える気がしていた。


 だから必死だった。


 読まれないと駄目だった。


 必要とされないと、生きていてはいけない気がした。


「でも今は違うの」


 ひまりが顔を上げる。


 ハルは画面を見つめながら続けた。


「誰か一人の心に届けば、それでいいって思える」


 その時、和彦が仕事から帰ってきた。


「ただいま」


「おかえりー!」


 ネクタイを緩めながら、和彦は苦笑する。


「今日も編集部会議?」


「今日はお祝い!」


「何かあったのか」


 ひまりは得意げにタブレットを突き出した。


「おばあちゃんの小説、めっちゃ感動って言われてる!」


 和彦は画面を見る。


 感想欄には、たくさんの言葉が並んでいた。


『母を思い出しました』


『私も、自分を嫌いでした』


『この作品に抱きしめられた気がした』


 和彦はしばらく黙って読んでいた。


 やがて、小さく笑う。


「……すごいじゃん」


 ハルは少し照れくさそうに目を逸らした。


「地味なのにね」


「地味だからいいんじゃないか」


 窓の外で、風が鳴る。


 どこかの家のテレビの笑い声。


 夕飯の焼き魚の匂い。


 団地の夜は、相変わらず平凡だった。


 でもハルの胸の中では、長い間凍っていた何かが、少しずつ溶けていた。


 昔から。


 ずっと。


 自分を責めてきた。


 読むのが遅い。


 普通にできない。


 忘れる。


 失敗する。


 迷惑をかける。


 だから“駄目な人間”なんだと、自分で自分を裁き続けてきた。


 誰よりも残酷に。


 誰よりもしつこく。


 でも今。


 画面の向こうで、誰かが泣いている。


 誰かが救われたと言っている。


 それは、“完璧な人”だからじゃない。


 傷だらけのまま書いたからだ。


 ハルはゆっくりタブレットに触れた。


 白い光が、指先を照らす。


 その光の向こうに、昔の自分が見える気がした。


 小学校で笑われていた女の子。


 仕事で怒鳴られていた若い母親。


 何か始める前から諦めていた自分。


 ずっと胸の奥で、


“どうせわたしなんか”


 と囁いていた自分。


 ハルは小さく笑った。


 涙が、静かに頬を流れる。


 でもこれは、前みたいな涙じゃない。


 失った涙じゃない。


 やっと、自分を抱きしめられた涙だった。


 ハルは画面へ向かって、静かに言った。


「見たか」


 声は震えていた。


「どうせわたしなんか、って言ってたわたし」


 ひまりが不思議そうに見上げる。


 和彦は何も言わない。


 ただ、静かに母を見ていた。


 ハルは涙をぬぐい、少し笑う。


「ざまぁみなさい」


 それは誰かを傷つけるための言葉じゃなかった。


 七十二年間、自分を縛り続けてきた呪いへ向けた、たった一度の反撃だった。




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