第七話 「あーあ、生きててよかった」って思えたのに
第七話 「あーあ、生きててよかった」って思えたのに
夜の団地は静かだった。
窓の外では、遠くを走る電車の音がかすかに響いている。古い蛍光灯は、じ、と細く鳴り、部屋の隅には薄い影が溜まっていた。
ハルはちゃぶ台ではなく、小さな机の前に座っていた。
古いノートパソコンが開いている。
和彦のお下がりだ。
キーボードの文字は何個か擦り切れ、スペースキーだけ妙に白っぽく光っていた。
ハルは画面に顔を近づける。
文字はまだ揺れる。
でも今は、AIの読み上げがある。
昔みたいに、一人で文字の海に沈まなくていい。
機械音声が、ランキング一覧を読み上げる。
『一位、“冷酷御曹司の執着愛”』
『二位、“離婚したら元夫が泣きついてきました”』
『三位、“追放された聖女は隣国で溺愛される”』
ハルは真剣な顔で聞いていた。
メモ用紙には、大きな字で丸や線がたくさん書かれている。
「ざまぁ……追放……溺愛……」
ぽつぽつ呟く。
机の上には冷めたコーヒー。
部屋にはインスタントの苦い匂いが漂っている。
和彦が後ろから覗き込み、苦笑した。
「母さん、受験生みたいだな」
「勉強よ」
「勉強?」
ハルは真面目な顔で頷いた。
「作家なんだから」
その言葉に、和彦は少しだけ目を細める。
ハルは続けた。
「わたしね、最初は好きなものばっかり書いてたの」
「うん」
「でも違うのね」
画面には、人気作品の分析結果が並んでいた。
読者維持率。
人気タグ。
クリック率。
AIが、売れている作品の傾向をまとめている。
ハルはそれを、必死に聞いていた。
「八百屋さんと同じなのよ」
「八百屋?」
「そう」
ハルは少し笑う。
「自分が売りたい野菜だけ並べて、“なんで売れないんだろう”って言うの、違うでしょう?」
和彦は黙って聞いている。
「お客さんが、今日は何食べたいのか」
ハルの目が真っ直ぐになる。
「何を読んだら嬉しいのか」
その声には、必死さが滲んでいた。
「需要を見て、供給する。それが作家なんだと思ったの」
和彦は少し驚いた。
母は感覚だけで書いていると思っていた。
でも違った。
ちゃんと考えていた。
必死に学ぼうとしていた。
七十二歳で。
誰にも教わらず。
読みづらい文字と戦いながら。
「今のわたしなら、できる気がしたの」
ハルは小さく言った。
その横顔は、若い頃よりずっと真剣だった。
昔のハルは、“できない人”として生きてきた。
説明書が読めない。
仕事を覚えられない。
周囲についていけない。
だから何かを“分析する側”になれるなんて、一度も思ったことがなかった。
でも今は違う。
AIが補ってくれる。
読めないところを読んでくれる。
整理できない情報をまとめてくれる。
だから初めて、“努力の仕方”が分かったのだ。
「四作品も入ったのよ」
ハルは少し誇らしそうに言った。
「四十位以内に」
「すごいじゃん」
「頑張ったもの」
その時だった。
パソコンが、小さく音を鳴らした。
新しい通知。
和彦が画面を見る。
掲示板だった。
匿名のコメントが流れている。
『また春眠ハルいる』
『更新速度おかしくね?』
『AI乱造じゃん』
『盗作してるだろこれ』
ハルの指が止まる。
「……盗作?」
和彦は慌てて画面を閉じようとした。
「見るな、こんなの」
でもハルは動かなかった。
目だけが、じっと画面を見ている。
『文章似てる作品多い』
『量産型ざまぁ小説』
『中身AIだろ』
『ランキング荒らし』
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
「盗作って……」
ハルはかすれた声を出した。
「わたしが?」
和彦は何も言えない。
ハルは笑った。
乾いた笑いだった。
「無理よ」
ぽつり。
「識字障害のわたしが、人の作品盗むなんて」
その言葉が、部屋に重く落ちた。
「人の小説読むだけでも大変なのに」
ハルは目を伏せた。
そうだ。
盗むほど読めない。
速読なんてできない。
文章を追うだけで、頭がぐちゃぐちゃになる。
だからハルは、自分の頭の中からしか書けなかった。
情景。
匂い。
怒り。
寂しさ。
自分の中に溜まり続けたものだけを、吐き出していた。
なのに。
今度は、“盗んだ人”になっている。
「出すぎたのね」
ハルはぼんやり呟いた。
「ちょっと、出すぎちゃった」
窓の外で風が鳴る。
洗濯物を揺らす音。
古いサッシがかたかた震える。
「頑張ったんだけどなあ」
ハルはパソコンを撫でた。
ランキング分析。
市場調査。
人気傾向。
読者心理。
全部、一生懸命覚えた。
“読めない人”のまま終わりたくなくて。
やっと、自分にも戦える場所が見つかった気がしたのだ。
「あーあ」
ハルは天井を見上げた。
蛍光灯の白い光が、涙でぼやける。
「あーあ、生きてていいって思えたのになー」
和彦の胸がぎゅっと締めつけられる。
その一言が、あまりにも重かった。
ハルは作品を失っただけじゃない。
“存在していい”という感覚を、やっと手に入れかけていたのだ。
学校でも。
職場でも。
家庭でも。
どこかでずっと、“普通じゃない人”だった。
でも小説を書いている時だけは違った。
読者が待ってくれる。
感想をくれる。
泣いてくれる。
笑ってくれる。
そこでは初めて、“いていい人”になれた。
なのに。
また追い出された。
和彦はゆっくり言った。
「母さん」
「ん?」
「俺は、母さんの小説好きだよ」
ハルは少し笑う。
「身内だからでしょう」
「違う」
和彦は首を振った。
「なんか……ちゃんと、人がいるんだよ」
ハルの目が揺れる。
「登場人物が」
部屋が静かになる。
パソコンのファンだけが低く回っていた。
ハルはそっと目を閉じる。
商店街。
夕焼け。
八百屋。
怒鳴る魚屋。
寂しい姑。
全部、自分の中でまだ生きている。
誰に否定されても。
たぶん、消えない。
けれどその夜、ハルは初めて少しだけ怖くなった。
才能より先に、“異物”として扱われる世界を知ってしまったからだった。




