第六話 出すぎる杭は、引っこ抜かれる
第六話 出すぎる杭は、引っこ抜かれる
団地の窓から、西日が細く差し込んでいた。
夕焼けの色は、少し血みたいだった。
ハルはちゃぶ台の前に座ったまま、動かなかった。
タブレットの画面は暗い。
昨日まで、あんなに何度も触っていたのに、今日は開くことすら怖い。
部屋には、ほうじ茶の冷えた匂いが残っている。流しには洗っていない湯呑み。畳には読みかけのメモ用紙。藤色のカーディガンは肩から落ち、床に半分引きずっていた。
ハルはぼんやり、窓の外を見ていた。
子どもの笑い声。
買い物袋の擦れる音。
どこかの家の夕飯の焼き魚の匂い。
世界は何も変わっていない。
なのに、自分だけが急に外へ放り出された気がした。
「母さん」
和彦が静かに声をかけた。
コンビニ袋を提げている。
「なんか食べろよ」
「いらない」
「朝から何も食ってないだろ」
「お腹すいてないの」
和彦は小さく息を吐き、ちゃぶ台の上におにぎりを置いた。
鮭のおにぎりだった。
ハルの好きなやつだ。
でも見るだけで喉が詰まる。
和彦はタブレットをちらりと見た。
画面には、まだあの文字が残っている。
『アカウントは永久停止されました』
和彦は眉を寄せた。
「問い合わせは?」
「したわよ」
「返事は?」
「定型文」
ハルは乾いた声で笑った。
「大量投稿による規約違反です、だって」
その瞬間、胸の奥がまたずきりと痛む。
大量投稿。
乱造。
システム負荷。
その言葉たちは、まるで工場の不良品でも数えるみたいに冷たかった。
「乱造じゃないのに」
ハルはぽつりと言った。
和彦は黙る。
「一個ずつ、一生懸命書いたのに」
声が震える。
「毎日ちゃんと考えて……商店街の魚屋も、お惣菜屋さんも、全部、生きてたのに」
ハルの目に涙が浮かぶ。
「手抜きなんかしてない」
そう。
確かに書きすぎた。
止まれなかった。
でも、雑には書いていない。
一話一話、胸を削るみたいに書いた。
登場人物たちの孤独も。
嫉妬も。
優しさも。
全部、本当にそこにいるみたいに感じていた。
ハルにとって作品は、“投稿データ”なんかじゃなかった。
子どもだった。
やっと生まれてきてくれた、自分の分身だった。
「四つも入ったのよ」
ハルは涙をこらえながら言った。
「ランキング……四十位以内に、四作品も」
和彦が目を上げる。
「そんなに?」
「頑張ったもの」
ハルは少し笑った。
でもその笑顔は、ひび割れていた。
「ちゃんと減らしたのよ」
「え?」
「前はもっと書いてたの。でも我慢したの。一日三話までにして……ちゃんと、頑張ったの」
その“頑張った”が、あまりにも痛々しくて、和彦は何も言えなかった。
ハルにとって、自制することは簡単じゃない。
頭の中に物語が流れ込んでくる。
止めようとすると、胸が苦しくなる。
だから減らしただけでも、本当は必死だったのだ。
「やっとね」
ハルはタブレットを撫でた。
「やっと、生きてていいよって言われた気がしたの」
部屋が静かになる。
換気扇の音だけが遠くで鳴っている。
「読者さんがね、“待ってます”って言ってくれたの。“先生”って呼んでくれたの」
ハルは泣き笑いみたいな顔をした。
「わたし、人生で一回も、誰かに必要とされたことなんかないと思ってた」
和彦の胸が締めつけられる。
そんなことない、と言いかける。
でも言えなかった。
自分も昔、母を責めたことがあるからだ。
「なんで忘れるんだよ」
「ちゃんとしてよ」
「普通にしてくれよ」
あの頃の自分もまた、“できない母親”しか見ていなかった。
ハルがどれだけ苦しかったかなんて、考えたこともなかった。
「出る杭は打たれるって、本当ね」
ハルが小さく呟く。
夕焼けが、しわだらけの横顔を赤く染めていた。
「出すぎる杭は、引っこ抜かれるのね」
和彦は何も言えない。
ハルは続けた。
「生き馬の目を抜く世界なんだねえ……」
その声は怒っているようで、どこか諦めていた。
ハルは、タブレットを抱きしめた。
「作家を育ててくれる場所だと思ったの」
涙がぽろりと落ちる。
「下手でも、頑張ってたら、ここにいていいよって言ってくれる場所だと思った」
窓の外で、カラスが鳴いた。
夕暮れが濃くなる。
団地の部屋は少しずつ暗くなっていく。
「でも違った」
ハルはかすれた声で言う。
「ちゃんと並べる人だけなのね」
「母さん……」
「速すぎても駄目。多すぎても駄目。変でも駄目」
ハルは笑った。
寂しい笑いだった。
「昔から変わらないね」
その言葉に、和彦の胸が痛む。
学校でも。
仕事でも。
社会でも。
母はずっと、“普通”から少しはみ出していた。
そして、そのたびに居場所を失ってきた。
やっと見つけた世界でも、同じだった。
和彦は低い声で言った。
「でも、読んでた人はいたんだろ」
ハルは黙る。
「母さんの話を好きだった人、ちゃんといたんだろ」
ハルの唇が震える。
「……いた」
「だったら、それは本物だよ」
ハルは顔を伏せた。
涙が畳に落ちる。
「わたしね」
小さな声。
「もっと早く、生まれてこれたらよかった」
和彦は息を呑む。
「若い頃に、こういうのあったら……もっと違ったのかなって」
その言葉が、あまりにも切なかった。
七十二年。
ずっと、自分を“駄目な人”だと思って生きてきた。
なのに最後の最後で、やっと物語を書く方法を見つけたのだ。
それを、世界は簡単に消してしまった。
部屋はもう薄暗い。
和彦は黙って立ち上がり、電気をつけた。
ぱっと白い光が広がる。
ハルは眩しそうに目を細めた。
ちゃぶ台の上には、もう冷たくなった鮭のおにぎり。
タブレット。
藤色のカーディガン。
そして、行き場をなくした七十二歳の涙だけが残っていた。




