第五話 暗転、アカウント永久停止
第五話 暗転、アカウント永久停止
朝の空気は、妙に澄んでいた。
昨夜まで降っていた雨が上がり、団地のベランダには細かな水滴が残っている。遠くで洗濯機の回る音が聞こえた。誰かの家の味噌汁の匂いが、廊下を流れてくる。
ハルは鏡の前で、桜色のスカーフを結び直していた。
「変じゃないかしら」
小さく呟き、自分で少し笑う。
こんなふうに鏡を見るのは久しぶりだった。
昔はおしゃれが好きだった。淡い色のスカートも、花柄のブラウスも好きだった。でも年を取るにつれ、“どうせ似合わない”が先に来るようになった。
今日は少しだけ違った。
昨日投稿した新作には、きっと感想が増えている。
読者が待っている。
それを思うだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
ハルは藤色のカーディガンを羽織り、ちゃぶ台の前に座った。
タブレットを両手で持つ。
少しだけ、指が震えている。
「どんな感想かしらね」
電源を入れる。
青白い光が、薄暗い部屋を照らした。
ログイン画面が開く。
その瞬間だった。
ハルの笑顔が止まる。
白い画面の中央に、黒い文字が並んでいた。
『アカウントは永久停止されました』
ハルは瞬きをした。
意味が分からなかった。
「……え?」
画面を見つめる。
もう一度読む。
『規約違反により――』
そこから先は、頭に入らなかった。
「ちが……」
喉が乾く。
指先が急に冷たくなる。
ハルは慌てて画面を触った。
ログイン。
もう一度。
パスワード。
入力。
違います。
もう一度。
違います。
「なんで……」
呼吸が浅くなる。
胸の奥で、どくどくと音が鳴る。
タブレットを持つ手が震え、爪がカバーを引っかいた。
「待って、待って……」
ハルは音声読み上げを押した。
機械音声が淡々と告げる。
『アカウントハ、エイキュウテイシサレマシタ』
冷たい声だった。
感情がない。
まるで、人間じゃない壁に話しかけているみたいだった。
「ちがうの」
ハルは画面に向かって呟く。
「わたし、悪いことなんか……」
言葉が途切れる。
本当に?
赤い警告を読まなかった。
投稿を止めなかった。
怖いから閉じた。
書き続けた。
だって、止まったら消えてしまいそうだったから。
ハルは急いで作品一覧を開こうとした。
開けない。
感想欄。
消えている。
ブックマーク。
ランキング。
何もない。
空っぽだった。
「……うそ」
頭の中が白くなる。
あれだけ毎日鳴っていた感想も。
『続きを待ってます』
『今日も泣きました』
『先生の文章、大好きです』
全部。
全部、消えていた。
部屋が急に静かになる。
いつもなら朝には、まず感想を確認していた。誰かの言葉が届いていた。画面の向こうに人がいた。
でも今は違う。
換気扇の低い音だけが聞こえる。
時計の針が進む音が、やけに大きい。
「わたしの話……」
ハルはかすれた声を出した。
「どこへ行ったの?」
返事はない。
タブレットは白い画面を光らせているだけだった。
ハルは何度も画面を触る。
指が滑る。
もう一度ログイン。
エラー。
もう一度。
エラー。
目が痛い。
文字が滲む。
でも止まれない。
「お願い……」
その声は、もう子どもの声みたいだった。
「返して……」
胸が潰れそうに苦しい。
息がうまく吸えない。
ハルはタブレットを抱えたまま、ちゃぶ台に突っ伏した。
涙がぽたぽた落ちる。
桜色のスカーフが濡れる。
藤色のカーディガンの袖を、ぎゅっと握りしめる。
その瞬間、昔の記憶が一気に押し寄せた。
小学校。
みんなの前で教科書を読まされた日。
文字が読めなくて、教室が笑った。
「春野さん、また間違えた」
職場。
伝票を読み違えて怒鳴られた日。
「ちゃんと確認しろ!」
保護者会。
提出物を忘れて、他の母親たちが顔を見合わせた。
「困るわよねえ」
ずっと同じだった。
どこへ行っても。
何をしても。
最後には、“あなたはここにいてはいけない”と言われる。
「やっぱり……」
ハルは泣きながら笑った。
「やっぱり、わたしなんか……」
喉が痛い。
涙で息が詰まる。
その時、玄関の鍵が回った。
「母さん?」
和彦だった。
「いる?」
返事がない。
嫌な予感がして、和彦は急いで部屋へ入った。
「……母さん?」
ちゃぶ台の前で、ハルが小さく縮こまっていた。
タブレットを抱え、肩を震わせている。
「どうした」
和彦は駆け寄った。
ハルは顔を上げる。
目が真っ赤だった。
「消えたの……」
「え?」
「全部……」
震える指で、タブレットを見せる。
和彦は画面を読む。
そして表情が固まった。
『永久停止』
しばらく沈黙が落ちた。
団地の外で、自転車のベルが鳴る。
遠くで子どもが笑っている。
なのに、この部屋だけ世界から切り離されたみたいだった。
「母さん……」
和彦は何と言えばいいのか分からなかった。
ハルは泣きながら言う。
「わたし、やっと見つけたのに」
その声は、年老いた女の声じゃなかった。
長い間ずっと、居場所を探していた子どもの声だった。
「やっと……ここにいていいって思えたのに……」
和彦の胸が締めつけられる。
母は作品を失ったから泣いているんじゃない。
もっと深い。
もっと痛い。
これは、ようやく辿り着いた居場所から、また追い出された涙だった。




