第四話 赤い警告と、読めないルール
第四話 赤い警告と、読めないルール
その朝、団地の空は妙に白かった。
雨が降りそうで降らない。湿った空気が窓ガラスに張りつき、遠くでカラスが鳴いている。
ハルは布団の上に座ったまま、タブレットを開いていた。
目の下には薄い隈。髪は寝癖で跳ね、藤色のカーディガンは片袖だけ裏返っている。
けれど本人は気づいていなかった。
通知音。
胸が跳ねる。
「感想かしら」
ハルは少し笑った。
ここ数日、通知が生きる理由になっていた。
誰かが続きを待っている。
それだけで、朝起きる意味があった。
画面を開く。
しかし、いつもの感想欄ではなかった。
赤い帯。
その色を見た瞬間、ハルの胃がぎゅっと縮む。
「……なに、これ」
文章が並んでいた。
『短期間での大量投稿について』
『AI生成コンテンツの連続投稿』
『システム負荷』
『利用規約違反の可能性』
文字が滑る。
目で追おうとすると、行がねじれる。
赤い字だけが、異様に大きく見える。
「だめ……」
心臓が速くなる。
昔から、赤字は怖かった。
学校のテスト。
職場の修正。
回覧板の注意書き。
赤い字はいつも、“お前は間違っている”と言ってくる。
ハルは唇を噛んだ。
「また、怒られてる……」
指先が冷える。
全部読む前に、胸が苦しくなる。
理解するより先に、頭が逃げたがる。
「どうしよう……」
その時、また通知音が鳴った。
感想だった。
『今日の更新も最高でした!』
ハルは息を止める。
さらにもう一件。
『春眠ハル先生、毎日の楽しみです』
胸の奥が、じんわり温かくなる。
怒られる世界と、褒められる世界。
ハルは迷わず後者へ逃げ込んだ。
赤い警告画面を閉じる。
「……あとで読もう」
そう呟いたが、自分でも読まないことは分かっていた。
長い文章は苦手だ。
規約。
説明。
注意事項。
昔から、途中で頭が真っ白になる。
理解できない自分が恥ずかしくて、結局逃げてしまう。
でも物語は違う。
人の気持ちは見える。
景色も匂いも分かる。
だからハルは、またマイクを押した。
「商店街の空には、古い洗濯物が揺れていた――」
声が流れ始める。
その瞬間、恐怖が少し遠ざかる。
書いている間だけ、自分は駄目じゃなくなる。
書いている間だけ、“ここにいていい”と思える。
昼過ぎ。
部屋の中には、湿気と麦茶の匂いがこもっていた。
ちゃぶ台には食べかけのあんパン。
包装のビニールだけが、かさかさ鳴る。
ハルはほとんど噛まずに飲み込む。
早く続きが書きたい。
人物たちが待っている。
読者も待っている。
止まると、全部消えそうだった。
夕方、ひまりがやって来た。
「おばあちゃん!」
「いらっしゃい」
ひまりは部屋に入った瞬間、顔をしかめた。
「また寝てないでしょ」
「寝たわよ」
「嘘。目、赤いもん」
ハルは笑ってごまかした。
ひまりはタブレットを覗き込む。
「うわ、また更新してる」
「今日は三話だけよ」
「三話って多いんだよ?」
ひまりは呆れながらも、少し嬉しそうだった。
「コメントすごいね」
「みんな優しいの」
ハルは画面を撫でるように見つめた。
そこには、自分を責める声がない。
馬鹿にする目もない。
ただ、“続きを待ってる”という言葉だけが並んでいる。
ひまりが突然、眉を寄せた。
「ん?」
「どうしたの?」
「これ」
画面の端に、小さく赤いマークが出ていた。
ハルの背筋が凍る。
「あ……」
「運営から?」
「別に大したことじゃないわ」
「見たの?」
「……まだ」
「なんで?」
ハルは黙った。
言えない。
怖くて読めないなんて。
長い文章を見ると、頭がぐちゃぐちゃになるなんて。
ひまりはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「パパに見てもらう?」
「だめ!」
思わず大きな声が出た。
ひまりがびくっと肩を震わせる。
ハルは慌てて目を逸らした。
「……ごめんね」
「ううん」
「でも、だめなの」
和彦に知られたくなかった。
また“母さんには無理だ”という顔をされる気がした。
やっと見つけた場所なのに。
やっと、“何もできない人”じゃなくなれたのに。
夜。
雨が降り始めた。
窓ガラスに細かな水滴が流れる。
団地の廊下を歩く足音。
遠くのテレビの笑い声。
ハルはそれらを全部遠くに感じながら、ただ画面を見つめていた。
通知が鳴る。
『更新ありがとうございます!』
通知が鳴る。
『毎日楽しみにしています』
通知が鳴る。
『先生、体に気をつけて』
その言葉に、一瞬だけ胸が痛んだ。
体。
確かに最近、少しおかしい。
立ち上がると眩む。
階段で息が切れる。
手も震える。
でも、止まれない。
止まったら、また空っぽに戻る。
ハルは冷えたお茶を飲んだ。
苦い。
でも頭は冴えている。
物語が次々浮かぶ。
商店街。
濡れた猫。
孤独な姑。
嘘をつく嫁。
夕焼け。
全部、生きている。
「書かなきゃ……」
ハルは呟く。
雨音が強くなる。
部屋の隅には、読みかけの警告メールが赤い印のまま残っていた。
けれどハルは、もうそちらを見なかった。
怖いから。
もし全部失うと言われたら。
もし“あなたは間違っています”と言われたら。
耐えられない。
だから書く。
書けば、忘れられない。
書けば、自分が消えずに済む。
その必死な指先が、少しずつ破滅へ向かっていることを、ハルだけがまだ知らなかった。




