第三話 喝采と、乾いていく体
第三話 喝采と、乾いていく体
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
ハルは布団の上に座ったまま、タブレットを握りしめていた。目は乾き、口の中は苦い。それでも画面から視線を離せない。
「……七位」
ランキング欄に、自分の名前があった。
春眠ハル。
その文字を見るたび、胸の奥がじわりと熱くなる。
「うそ……」
ハルは思わず口元を押さえた。
昨日までは二十位台だった。たった一晩で、こんなに上がるなんて思わなかった。
通知が鳴る。
また感想だ。
『続きが気になって眠れません』
『登場人物が生きてるみたい』
『姑の孤独に泣きました』
『春眠ハル先生、更新ありがとうございます!』
先生。
その言葉に、ハルはまた胸を突かれる。
七十二年間、一度も呼ばれたことのない名前だった。
学校では、叱られてばかりだった。
仕事では、怒られてばかりだった。
スーパーのレジで計算を間違え、客にため息をつかれた。
説明書を読めず、パートを転々とした。
誰かに「ありがとう」と言われても、次の日にはまた失敗した。
だからずっと、自分は駄目な人間なんだと思っていた。
なのに今、誰かが自分の言葉を待っている。
胸が苦しいほど嬉しかった。
「続きを……書かなきゃ」
ハルは立ち上がった。
膝が軋む。
けれど頭の中では、もう次の場面が始まっていた。
商店街の角。
八百屋の老婆。
雨の日。
濡れた猫。
全部見えている。
台所へ向かい、棚から菓子パンを掴む。袋を開け、半分かじる。
パサパサした甘い生地が口の水分を奪う。
でも味なんて分からなかった。
早く戻りたい。
物語の続きを出したい。
ハルは急いでちゃぶ台へ戻り、マイクを押した。
「八百屋の老婆は、濡れた段ボール箱を見つめた――」
声が止まらない。
喋るたび、頭の中の景色が鮮明になる。
魚屋の怒鳴り声。
夕方のコロッケの匂い。
湿ったアスファルト。
古い蛍光灯のちらつき。
人物たちの寂しさまで、手触りみたいに分かった。
気づけば昼を過ぎていた。
炊飯器は空っぽ。
洗濯物は干し忘れたまま。
でもハルは立ち上がれなかった。
通知が鳴る。
感想。
また通知。
ブックマーク追加。
ランキング上昇。
そのたび胸の奥で火花が散る。
「もっと……」
もっと書きたい。
もっと褒められたい。
もっと、ここにいていいと言われたい。
窓の外では、子どもたちの笑い声が響いていた。
もう夕方だった。
部屋の中は散らかり始めている。
空の湯呑み。
食べかけの菓子パン。
脱ぎっぱなしの靴下。
藤色のカーディガンは片方の肩からずり落ち、袖口には茶渋の染みが濃く広がっていた。
それでもハルは気づかない。
指先だけが熱かった。
夕方、和彦がやって来た。
「母さん、いる?」
返事がない。
玄関を開けた和彦は、顔をしかめた。
「……うわ」
部屋には冷えたお茶の匂いと、こもった熱気が漂っていた。
ちゃぶ台の周りには湯呑みが四つ。どれも半分ずつ残っている。
ハルは画面に向かったまま、ぶつぶつ喋っていた。
「だからその時、魚屋の嫁がね……」
「母さん!」
肩を掴まれ、ハルはびくりとした。
「あら、和彦」
「何時間やってるんだよ」
「え?」
「顔見ろよ。真っ青じゃないか」
和彦は呆れたようにため息をついた。
ハルはようやく自分の指先を見た。
少し震えている。
「平気よ」
「平気じゃないだろ。ちゃんと飯食った?」
「食べたわよ」
和彦はゴミ袋を見た。
中には菓子パンの空袋が二つだけ。
「これだけ?」
「忙しかったの」
「誰に頼まれてんだよ」
その言葉に、ハルの胸がぴくりと痛んだ。
「……読者が待ってるの」
「読者?」
「続きを読みたいって言ってくれてるの」
和彦は少し黙った。
そしてタブレットの画面を見た。
そこには大量の感想が並んでいた。
『毎日の楽しみです』
『こんな文章初めて読んだ』
『春眠ハル先生、無理しないでください』
和彦の眉がわずかに動く。
「……こんなに読まれてるのか」
ハルは、子どもみたいな顔でうなずいた。
「すごいのよ」
「母さん」
「みんな待ってるの。わたしの話」
その声は震えていた。
嬉しさと、恐怖が混ざった声だった。
「止まったら、終わる気がするの」
「終わらないよ」
「終わるわよ!」
ハルは思わず声を荒げた。
自分でも驚くくらい大きな声だった。
「だって、わたし何にもなかったもの!」
部屋が静まる。
換気扇だけが回っている。
ハルは息を切らしながら続けた。
「ずっと駄目だったの。読むのも遅いし、仕事も続かないし、迷惑ばっかりで……」
声が震える。
「でも今だけは違うの」
ハルはタブレットを抱きしめた。
「今だけは、わたしの言葉を待ってる人がいるの」
和彦は何も言えなかった。
母がこんな顔をするのを、初めて見た。
まるで、やっと見つけた光を奪われまいとしているみたいだった。
「少し休もう」
和彦は静かに言った。
「倒れたら意味ないだろ」
ハルは笑った。
笑顔だった。
でも、どこか危うかった。
「今だけなの」
かすれた声で言う。
「今、書けるの」
その目は輝いていた。
若い頃より、ずっと。
けれど同時に、何かが壊れかけている光にも見えた。
夜更け。
和彦が帰ったあとも、ハルはまたタブレットを開いた。
団地の窓に、自分の姿が映る。
ぼさぼさの白髪。
落ちたカーディガン。
乾いた唇。
でも、目だけは異様に冴えていた。
通知音が鳴る。
感想。
『更新嬉しいです』
『今日も泣きました』
『先生、天才です』
胸が熱くなる。
頭の中では、次の物語がもう始まっている。
止まれない。
止まりたくない。
もし止まったら。
また“どうせわたしなんか”に戻ってしまう気がした。
雨の匂いが、少し開いた窓から流れ込む。
時計は午前二時を回っていた。
それでもハルは、眠ることを忘れたみたいに喋り続ける。
部屋の隅では、冷めたお茶が静かに乾いていく。
そしてハル自身の体もまた、少しずつ乾いていく。




