第二話 暴走ペン、目を覚ます
第二話 暴走ペン、目を覚ます
雨上がりの午後だった。
団地のベランダから見える空は、灰色の雲の隙間だけが薄く明るい。濡れた手すりには、水滴が粒になって並んでいた。
ハルはちゃぶ台の前で、何度も指をこすり合わせていた。
「……本当に押すの?」
タブレットの画面には、小説投稿サイトの登録画面が映っている。
名前。
年齢。
ペンネーム。
ひまりは隣で、ポテトチップスを食べながらうなずいた。
「押さないと始まらないよ」
「でも、こんなおばあちゃんが……」
「おばあちゃんだからいいんじゃん」
ひまりは軽く言う。
ハルは唇を噛んだ。
若い頃から、新しいことは怖かった。
説明書が読めない。
登録画面で迷う。
間違えたら笑われる。
だからいつも、最初から諦めてきた。
「名前、どうする?」
「名前?」
「作家名だよ」
「そんなのいるの?」
「いる!」
ひまりは楽しそうに目を輝かせた。
「かっこいいのにしようよ!」
ハルは考え込む。
昔から、自分に名前をつけるのが苦手だった。
スーパーの名札も嫌いだった。
“春野ハル子”という字を見るたび、自分の失敗まで並んでいる気がした。
「……春眠」
「え?」
「春眠ハル、ってどうかしら」
ひまりは笑った。
「かわいい!」
その瞬間、ハルは少しだけ胸が熱くなった。
誰かに、自分の選んだものを笑われなかった。
それだけで嬉しかった。
登録ボタンを押す。
ぴこん、と軽い音。
その小さな音が、長い人生の扉を開ける音みたいに聞こえた。
「できた!」
「……できたの?」
「うん! おばあちゃん、作家デビュー!」
ハルは呆然と画面を見つめた。
“春眠ハル”という名前が、そこにあった。
自分なのに、自分じゃないみたいだった。
夕方、ハルは台所で大根を煮ながら、ずっと頭の中で物語を考えていた。
商店街の八百屋。
怒鳴る姑。
黙って耐える嫁。
魚屋の奥さん。
夕焼け。
路地裏の猫。
湯気の向こうに、場面が次々浮かぶ。
ことこと煮える鍋の音が、まるで物語の拍子みたいだった。
「やだ、焦げる」
慌てて火を弱める。
だが胸は、妙に浮き立っていた。
夜。
和彦が仕事帰りに寄った。
「母さん、ちゃんと食べてる?」
「食べてるわよ」
ハルはそう答えながら、ほとんど手をつけていない煮物を隠すように茶碗を寄せた。
和彦はじっとタブレットを見る。
「またそれ触ってるのか」
「ひまりちゃんに教えてもらってね」
「難しいだろ。変なとこ押すなよ」
その言葉に、ハルの胸がちくりとした。
悪気がないのは分かる。
でも、昔からそうだった。
“母さんには無理だろ”
“どうせできないだろ”
そういう目。
ハルは笑ってごまかした。
「大丈夫よ」
和彦が帰ったあと、部屋は静かになった。
壁時計の秒針だけが、かち、かち、と鳴る。
ハルはタブレットを開いた。
画面の白さが、夜の部屋でぼんやり光る。
投稿欄。
点滅するカーソル。
心臓がどくどく鳴った。
「……こんばんは」
マイクに向かって、ハルは話し始めた。
「商店街の八百屋の婆さんは、今日も朝から怒っていた――」
言葉が流れ出す。
止まらない。
まるで、何十年も堰き止められていた水みたいだった。
八百屋の老婆の声。
夕方の惣菜の匂い。
濡れたアスファルト。
値引きシール。
寂しさ。
意地悪。
本当は誰かに愛されたかっただけの人たち。
全部、見えていた。
全部、聞こえていた。
ハルは夢中でしゃべり続けた。
気づけば窓の外は真っ暗だった。
「……投稿」
指が震える。
送信ボタンを押した瞬間、胃が縮んだ。
「やっぱり消そうかしら」
でも、もう遅かった。
作品はネットの海へ流れていった。
その夜、ハルは眠れなかった。
布団に入っても、胸がざわざわする。
誰にも読まれなかったらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
“おばあちゃんの作文”だと思われたら。
朝四時。
薄暗い部屋で、ハルはそっとタブレットを開いた。
通知が一件。
息が止まる。
恐る恐る開く。
『文章が優しいのに、胸に刺さりました』
ハルは瞬きを忘れた。
もう一件。
『この商店街、匂いまで見えるみたい』
さらに。
『続きが読みたいです』
「……え」
声が漏れた。
指先が震える。
何度も読み返す。
読み返すたび、涙が滲んで文字がぼやける。
「続き……」
誰かが、自分の話の続きを待っている。
人生で初めてだった。
ハルは立ち上がった。
台所へ行き、冷えた麦茶を一気に飲む。
胸が熱い。
苦しいくらい熱い。
「続きを書かなきゃ」
その日、ハルは朝から書いた。
洗濯機を回しながら書く。
味噌汁を作りながら書く。
トイレのあとに場面を思いつき、慌てて戻る。
ひまりが来る頃には、もう三話できていた。
「おばあちゃん怖!」
「だって浮かぶのよ!」
ハルは笑った。
久しぶりに、心から笑っていた。
投稿するたび感想が増えた。
『姑の気持ちも分かるのがすごい』
『若い人には書けない視点』
『なんでこんなに人間がリアルなんですか』
読むたび、胸の奥がじんわり温かくなる。
ハルは止まれなくなった。
もっと書きたい。
もっと届けたい。
もっと褒められたい。
頭の中に、次の場面が押し寄せる。
まるで駅のホームに人が雪崩れ込むみたいに、次から次へと。
夜中。
窓の外では雨が降っていた。
蛍光灯の白い光の下、ハルは藤色のカーディガンを羽織ったまま、タブレットに向かっていた。
湯呑みには、冷えた茶が残っている。
袖口には茶渋の輪。
それでも気にならない。
目が冴えていた。
胸が鳴っていた。
「春眠ハル先生!」
コメント欄に、そう書かれていた。
先生。
その言葉に、ハルは息を呑む。
学校では、ずっと叱られる側だった。
何もできない子。
遅い子。
変な子。
なのに今、自分が“先生”と呼ばれている。
涙が出そうになった。
「どうせわたしなんか」
いつもの声が、胸の奥で小さく囁く。
でも、その声はもう聞こえにくかった。
代わりに別の声が大きくなる。
「書きたい」
「もっと」
「もっと」
雨音が強くなる。
団地の暗い部屋の中で、七十二歳の女の目だけが、若い炎みたいに燃えていた。
頭の中の物語が、やっと出口を見つけたのだ。




