第一話 文字の檻と、藤色のカーディガン
第一話 文字の檻と、藤色のカーディガン
朝六時。団地の窓ガラスが白く曇っていた。
ハルは湯呑みを両手で包みながら、ちゃぶ台の上に広げた新聞をじっと見つめていた。煎茶の湯気が、ゆらゆらと視界を曇らせる。団地の外では、ゴミ収集車のエンジン音が遠くで唸っていた。
新聞の文字は、小さな黒い虫みたいだった。
目で追おうとすると、列がずれる。行が滑る。頭の中で意味になる前に、文字がぐにゃりと溶けていく。
「……まただめか」
ハルは新聞を閉じた。
藤色のカーディガンの袖口には、昨日こぼした醤油の染みが小さく残っている。昔はもっと気にしたのに、最近はもう、細かいことを直す気力がなかった。
台所の換気扇が、ごうごうと低く鳴る。味噌汁の鍋からは、豆腐とわかめの匂いが立っていた。
ハルは味噌汁をよそおうとして、お玉を落とした。
がしゃん、と音が響く。
「ああ、もう……」
腰を曲げて拾おうとすると、膝が痛む。
その瞬間、昔の声が耳の奥で蘇った。
「また間違えたの?」
「ちゃんと見なさい」
「どうして普通のことができないの」
ハルは目を閉じた。
小学校の教室。
白いチョーク。
笑い声。
教科書の文字だけが読めない自分。
先生に当てられるたび、頭が真っ白になった。
黒板の字は、水の底に沈んでいるみたいに揺れていた。
読めない。
なのに、みんな読める。
どうして自分だけ。
ハルは深く息を吐き、味噌汁をすすった。少し冷めていた。
「どうせわたしなんか……」
その言葉は、長い年月をかけて体の中に染みこんでいた。
結婚しても。
子どもを産んでも。
スーパーのパートをしても。
伝票を読み間違え、何度も怒られた。
メモを書けば、文字がひっくり返る。
説明書を読めず、炊飯器を壊したこともあった。
息子の和彦が小さい頃、学校のプリントを読むのが怖かった。
保護者会のお知らせ。
提出期限。
持ち物。
間違えるたび、周囲の母親たちの視線が痛かった。
「春野さんって、ちょっと変わってるわよね」
聞こえないふりをしてきた。
でも、本当はずっと聞こえていた。
ピンポーン。
突然インターホンが鳴った。
ハルは肩を震わせた。
「おばあちゃん! いるー?」
明るい声だった。
玄関を開けると、黄色いパーカー姿のひまりが立っていた。ランドセルの横には、星形のキーホルダーが揺れている。
「ひまりちゃん」
「ママが仕事長引くってー。今日ここで待ってていい?」
「もちろんよ」
ひまりは靴を脱ぎ散らかしながら部屋へ入ると、すぐにちゃぶ台の新聞を見つけた。
「また新聞読んでたの?」
「読んでたっていうか……見てたの」
ハルは苦笑した。
ひまりは何も言わなかった。ただ、少しだけハルの顔を見た。
十歳のくせに、妙に人の顔色を読む子だ。
「ねえ、おばあちゃん」
「ん?」
「これ知ってる?」
ひまりはランドセルからタブレットを取り出した。
薄い水色のケースに、猫のシールが貼ってある。
「学校で使ってるの?」
「ううん、これはわたしの。パパのお下がり」
画面を何度か触ると、丸いマイクのマークが出てきた。
「これ、しゃべると文字になるんだよ」
「ええ?」
「やってみて」
「わたし、こういうの苦手よ」
「大丈夫だって。ほら、押して」
ひまりに手を引かれるように、ハルはマイクを押した。
ぴこん、と軽い音が鳴る。
「何しゃべればいいの」
「なんでもいいよ」
ハルは困った。
なんでもいいと言われるのが、昔から苦手だった。
頭の中にはいろんなものが浮かぶのに、口から出そうとすると絡まる。
「ほら、おばあちゃんの好きな話!」
「好きな話……」
ハルは少し考えた。
そして、ぽつりと口を開いた。
「古い商店街にね、八百屋のおばあさんがいるの」
画面に文字が現れる。
ハルは息を止めた。
「その人、毎日怒ってるの。でも本当は、息子に置いていかれるのが怖しいの」
文字が増えていく。
「だから、近所の人に意地悪を言うの。ひとりになるのが怖しいから」
ひまりが目を丸くした。
「すご……」
ハルは画面を見つめた。
そこには、ちゃんと文章があった。
自分の言葉が並んでいた。
胸の奥が熱くなる。
まるで、何十年も鍵のかかった部屋が、急に開いたみたいだった。
「おばあちゃん、続きは?」
「え?」
「続き聞きたい」
ハルは笑いそうになって、でも涙が出そうになった。
そんなこと、言われたことがなかった。
ハルはずっと、自分は人より劣っていると思っていた。
読むのも遅い。
書くのも下手。
忘れ物ばかり。
落ち着きがない。
だから、何かを作る側の人間じゃないと思っていた。
でも今、ひまりは目を輝かせて続きを待っている。
「そのおばあさんね」
ハルはゆっくり続けた。
「ある日、商店街で倒れた子猫を拾うの」
夕方の光が、団地の畳をオレンジ色に染めていた。
時計の針が進む音がする。
味噌汁はすっかり冷めていた。
それでもハルは気づかなかった。
頭の中に、景色が溢れていた。
商店街。
夕焼け。
八百屋。
怒鳴り声。
泣いてる子猫。
全部、見えていた。
ひまりは夢中で聞いていた。
ハルは、生まれて初めて感じていた。
自分の中に、こんな世界があったのだと。
誰にも読めなかった。
自分にさえ、読めなかった。
でも確かに、ずっとここにあったのだ。
藤色のカーディガンの袖を、ハルはそっと握った。
胸の奥で、小さな声がした。
――どうせわたしなんか。
その声はまだ消えていない。
けれど今日、初めて別の声が生まれていた。
「わたしの中にも、物語があったんだ」




