第十一話 新しい名前、新しいキャンバス
第十一話 新しい名前、新しいキャンバス
春の風は、少しだけ甘い匂いがした。
団地の桜は満開を過ぎ、薄桃色の花びらが廊下に吹き溜まっている。遠くで小学生の笑い声がして、どこかの家からカレーの匂いが流れてきた。
ハルは鏡の前に立っていた。
淡い水色のワンピース。
胸元に小さな白い花の刺繍が入っている。
少し若すぎる気がして、何度も脱ごうと思った。でも、ひまりが嬉しそうに選んでくれた顔を思い出すと、どうしても畳めなかった。
「似合ってるよ」
後ろからひまりが言った。
黄色いパーカー姿のまま、歯磨きしながら立っている。
「ほんと?」
「うん。作家さんっぽい」
その言葉に、ハルは少しだけ背筋を伸ばした。
作家。
その響きはまだ、くすぐったい。
けれど前ほど、自分に禁止しなくなっていた。
和彦が台所から顔を出す。
「母さん、コーヒー入ったぞ」
「ありがとう」
部屋にはコーヒーの香ばしい匂いが広がっていた。
ちゃぶ台の上には、新しいタブレット。
和彦が買ってくれたものだ。
前より画面が大きく、文字も見やすい。
横には、編集部ノート。
『一日一話』
『投稿前深呼吸』
『ご飯を食べる』
ひまりの丸い字で書かれている。
ハルは小さく笑った。
「厳しい編集部ねえ」
「ブラック編集部です」
ひまりが胸を張る。
和彦がコーヒーを置きながら言った。
「今日は投稿するんだろ」
その瞬間、ハルの胸がどくりと鳴った。
投稿。
その言葉だけで、まだ指先が冷える。
白い画面。
永久停止。
消えた作品。
全部、一瞬で蘇る。
「……やっぱり、やめようかな」
ぽつりと呟く。
するとひまりがすぐ言った。
「だめ」
「だって怖いもの」
「怖くてもやるのが主人公だよ」
ハルは苦笑した。
「ずいぶん厳しいわね」
「だって、おばあちゃんの小説の主人公、みんな頑張るもん」
その言葉に、ハルは少し黙る。
確かにそうだった。
商店街の姑も。
離婚した女の人も。
追放されたおばあさんも。
みんな傷つきながら、それでも生きようとしていた。
なのに作者だけが、逃げるのか。
ハルはゆっくりタブレットを開いた。
新しい投稿サイト。
白い登録画面。
『ペンネームを入力してください』
ハルは息を止める。
春眠ハル。
その名前はもう使えない。
使おうと思えば使えるのかもしれない。でも、なんだか前の傷まで一緒についてくる気がした。
「どうする?」
和彦が聞く。
ハルは窓の外を見る。
桜の花びらが風に舞っていた。
小さな鳥が、電線へ止まる。
「……春野ことり」
「ことり?」
「小さいけど、飛べるから」
ひまりがにやっと笑った。
「かわいい!」
登録ボタンを押す。
ぴこん、と軽い音が鳴る。
その瞬間、ハルの胸の奥で何かが静かに動いた。
新しい名前。
新しい場所。
新しいキャンバス。
怖い。
でも、少しだけ嬉しい。
「じゃあ第一話読むね」
ひまりがタブレットを抱える。
ハルは慌てた。
「まだ駄目!」
「なんでー」
「変なとこいっぱいあるもの」
「そこ直すのが編集部でしょ」
和彦が笑いながら言う。
ハルはしぶしぶ原稿を開いた。
今度の話は、古いクリーニング屋の女主人の物語だった。
頑固で。
嫌味ばかり言って。
でも、本当は誰よりも孤独な人。
ハルは前みたいに、一気に書かなくなっていた。
一話ずつ磨く。
寝かせる。
読み返す。
削る。
息が苦しくなるほど、続きを出したい時もある。
でも止まる。
編集部ルールだから。
「ここ好き」
ひまりが言う。
『洗いたてのワイシャツの匂いは、昔好きだった人の匂いに少し似ていた』
ハルは照れくさそうに笑う。
「変じゃない?」
「変じゃない。なんか、ぎゅってなる」
和彦も頷く。
「前より読みやすい」
「ほんと?」
「うん。前は勢いで殴られてる感じだった」
「なによそれ」
三人で笑う。
その瞬間、ハルはふと思った。
前は、一人だった。
誰にも止めてもらえなかった。
誰にも読んでもらえなかった。
怖くても、苦しくても、全部一人で抱えて暴走していた。
でも今は違う。
「投稿する?」
和彦が聞く。
ハルの指が止まる。
胸がざわつく。
『早く出さなきゃ』
『忘れられる』
『誰も待ってない』
頭の中で、声がぐるぐる回り始める。
昔の怪物だ。
焦らせる声。
自分を急かし、自分を壊す声。
ハルは深く息を吸った。
コーヒーの匂い。
春の風。
カレーの匂い。
桜の花びら。
ちゃんと、ここにある。
「……深呼吸」
ひまりが小さく言う。
ハルは目を閉じた。
吸う。
吐く。
肩の力が少し抜ける。
「大丈夫」
和彦が静かに言った。
「今回は、一人じゃないから」
ハルはゆっくり目を開けた。
画面の投稿ボタンが光っている。
怖い。
でも。
前とは違う。
壊れるまで走るためじゃない。
生き続けるために、書くのだ。
ハルは淡い水色のワンピースの裾をそっと撫でた。
「おばあちゃん、作家さんみたい」
朝のひまりの言葉が、胸の奥で小さく灯る。
ハルは少しだけ背筋を伸ばした。
そして、新しい名前で最初の物語を、静かに世界へ送り出した。




