第八話 諦めたら、そこで終わりなんだよ
第八話 諦めたら、そこで終わりなんだよ
雨だった。
団地の窓を、細い雨粒が何本も流れていく。空は朝から灰色で、部屋の中まで湿っていた。
ハルはちゃぶ台の前に座り、じっとパソコンの画面を見つめていた。
目は赤い。
昨日、ほとんど眠っていない。
永久停止。
盗作疑惑。
乱造。
ランキング荒らし。
匿名の言葉たちは、まだ胸の奥に刺さっていた。
読むたびに苦しい。
でも、なぜか閉じられなかった。
人は傷つく言葉ほど、何度も確かめてしまう。
ハルは、冷えたほうじ茶を一口飲んだ。
苦い。
舌の上に、古い茶葉の渋みだけが残る。
「……やめようかな」
ぽつりと呟く。
部屋には誰もいない。
返事もない。
換気扇の低い音だけが、ごう、と響いていた。
「向いてないのかもしれない」
その瞬間だった。
頭の中に、昔の声が蘇る。
『また間違えたの?』
『ちゃんとしなさい』
『普通の人はできるのに』
ハルはぎゅっと目を閉じた。
まただ。
また、“どうせわたしなんか”が戻ってくる。
せっかく小説を書けるようになったのに。
やっと、“いていい”と思えたのに。
涙が滲む。
その時、ふと机の端に置いてあった漫画が目に入った。
ひまりが置いていった古いバスケット漫画だった。
しおり代わりのレシートが挟まっている。
ハルは何気なく開く。
そこに書いてあった。
『諦めたら、そこで試合終了ですよ』
ハルはじっとその言葉を見る。
文字は少し揺む。
でも、今度はちゃんと胸に入ってきた。
「……試合終了」
小さく呟く。
その瞬間、胸の奥で何かが動いた。
「まだ……終わってない」
ハルはゆっくりパソコンを開いた。
検索欄に向かう。
キーボードを打つのは遅い。
指も震える。
だから途中から、音声入力を押した。
「発達障害 天才」
機械音声が読み上げる。
『検索結果ヲ表示シマス』
画面にたくさんの名前が並んだ。
イーロン・マスク。
坂本龍馬。
織田信長。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。
エジソン。
モーツァルト。
ハルは息を呑む。
「こんな人たちまで……」
記事をAIが読み上げる。
『強い集中力』
『衝動性』
『常識にとらわれない発想』
『睡眠を忘れるほどの没頭』
ハルの胸がどくりと鳴る。
「同じ……」
もちろん時代も違う。
本当に発達障害だったかなんて、断定はできない。
でも、そこに書かれている“特性”は、どこか自分と似ていた。
普通の人と同じようにできない。
でも、異常なくらい没頭してしまう。
頭の中が止まらない。
興味のあることだけ、命を削るほど集中する。
ハルは画面に顔を近づけた。
白髪が頬に落ちる。
「モーツァルト、多作……」
思わず笑ってしまう。
「いっぱい書いてたんだ」
和彦が帰宅したのは、その頃だった。
「母さん?」
玄関の音。
スーパーの袋が擦れる音。
和彦は部屋へ入るなり、少し驚いた。
「……何してるんだ」
ハルの目が、久しぶりに生きていたからだ。
「研究」
「研究?」
「すごいのよ」
ハルは興奮した顔で画面を指差した。
「みんな変わってたの」
「は?」
「信長も、エジソンも、モーツァルトも」
和彦は苦笑する。
「急に歴史の勉強?」
「違うの」
ハルは真剣だった。
「わたし、変だから駄目なんだと思ってた」
雨音が強くなる。
窓ガラスを叩く水音。
団地の古いサッシが震えている。
「でもね」
ハルは続ける。
「変だったから、見えたものもあったのかもしれない」
和彦は黙る。
ハルは、画面を見つめながら言った。
「止まれないのも」
「いっぱい作っちゃうのも」
「頭の中がうるさいのも」
その声は少し震えていた。
「全部、悪いことだけじゃないのかもしれない」
和彦は静かに椅子へ座った。
「母さん」
「ん?」
「また書く気か」
ハルは答えなかった。
代わりに、机の上の漫画を撫でた。
『諦めたら、そこで試合終了ですよ』
その言葉が、胸の中で何度も響いている。
「ねえ和彦」
「なに」
「わたし、悔しかったの」
和彦は顔を上げる。
「乱造って言われたの」
ハルの目が赤くなる。
「ちゃんと、一個ずつ育ててたのに」
声が掠れる。
「盗作って言われたのも悔しかった」
ハルは笑う。
でも涙が滲んでいた。
「人の小説読むだけでも必死なのにね」
和彦は何も言えない。
ハルは続ける。
「でもね」
その時だった。
ハルの目に、ふっと火が戻る。
「だったら、もっと上手くやればいいんだと思った」
「え?」
「止まれないなら、止まり方を覚えればいい」
雨音の向こうで、電車が通り過ぎる。
「いっぱい作っちゃうなら、編集を覚えればいい」
ハルは、ゆっくりタブレットを抱きしめた。
「わたし、やっと見つけたんだもの」
その声は、静かだった。
でも強かった。
「ここで終わりたくない」
和彦はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……ほんと、しぶといな」
ハルは笑った。
「褒めてる?」
「半分は」
部屋に、久しぶりに少しだけ笑い声が落ちる。
窓の外では、まだ雨が降っている。
でもハルの中では、小さな火が消えずに残っていた。
“どうせわたしなんか”に押し潰されそうになっても。
何度追い出されても。
それでもまだ、物語を書きたいと思ってしまう。
たぶん、それがハルの才能だった。




