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第九話 “どうせわたしなんか”という怪物

第九話 “どうせわたしなんか”という怪物


 雨が続いていた。


 団地のコンクリートは濡れたまま乾かず、灰色の空が何日も天井みたいに低く垂れ込めている。部屋の中には湿った畳の匂いがこもり、流しには洗っていない湯呑みが増えていた。


 ハルは布団の上に座ったまま、窓を見ていた。


 何もしていない。


 タブレットも閉じたまま。


 髪はとかしておらず、白髪が頬に張りついている。藤色のカーディガンは皺だらけで、袖口には乾いた茶渋が残っていた。


「母さん、食べろよ」


 和彦が置いたうどんは、ほとんど手つかずだった。


「いらない」


「昨日もそれ言ってただろ」


「お腹すかないの」


 声に力がない。


 和彦は黙って母を見る。


 まるで、魂だけ抜け落ちてしまったみたいだった。


「やっぱりね」


 ハルがぽつりと言った。


「わたしなんかが書いちゃいけなかったのよ」


「そんなこと――」


「迷惑だったんでしょう」


 ハルは笑った。


 でもその笑いは、薄いガラスみたいに脆かった。


「昔からそうだもの」


 窓の外で、風が鳴る。


 古いサッシが、かたかた震える。


「わたし、ずっと人に迷惑かけてきた」


 和彦は息を詰めた。


 ハルは続ける。


「学校でも」


「仕事でも」


「お母さんになってからも」


 声がだんだん小さくなる。


「だから、今回もそうだっただけ」


 和彦は拳を握った。


「違うだろ」


「違わないわよ」


 ハルは目を伏せる。


「出すぎた杭は、引っこ抜かれるの」


 部屋が静かになる。


 時計の針だけが、かち、かち、と鳴っていた。


 和彦はその時、初めて気づいた。


 母を壊しているのは、投稿サイトじゃない。


 規約でもない。


 運営でもない。


 もっと古くて、もっと深いものだった。


 “どうせわたしなんか”。


 それが、母の中に住みついている。


 失敗するたび育ち。


 怒られるたび太り。


 七十二年間、母の心を食べ続けてきた怪物。


 和彦は何も言えなくなった。


 夜。


 ハルが眠ったあと、和彦は押し入れを片づけていた。


 湿気た古い段ボール箱。


 黄ばんだアルバム。


 昔の通知表。


 その奥から、一冊の大学ノートが出てきた。


 表紙には、震えた字でこう書かれている。


『さくら商店街のお話』


 和彦は眉をひそめた。


「……なんだこれ」


 ページを開く。


 文字は曲がっていた。


 誤字も多い。


 インクが滲んで読みにくい場所もある。


 でも。


 和彦の手が止まる。


『夕焼けで、魚屋の銀色の鱗が赤く光っていた』


『コロッケ屋のおじさんは、油の匂いを服に染み込ませたまま笑った』


『誰にも優しくできない人は、本当は一番寂しい人だ』


 和彦は息を呑んだ。


「……なんだよ、これ」


 情景が浮かぶ。


 匂いまで見える。


 商店街が、本当にそこにあるみたいだった。


 ページをめくる。


 途中で止まっている。


 消し跡。


 書きかけ。


 ぐしゃぐしゃの線。


 そして端っこに、小さな字。


『やっぱりわたしには無理』


 和彦の喉が詰まる。


 母は、昔から書きたかったのだ。


 ずっと。


 若い頃から。


 でも、書けなかった。


 読めなかった。


 自分を信じられなかった。


 だから途中で、何度も諦めてきた。


 和彦の目に涙が滲む。


「母さん……」


 その時だった。


 背後で、小さな声がした。


「……和彦?」


 振り返ると、ハルが立っていた。


 ぼさぼさの髪。


 眠れなかった目。


 和彦は慌ててノートを閉じる。


「ごめん、勝手に」


 だがハルは、じっとノートを見つめていた。


「あったんだ……」


 かすれた声。


「捨てたと思ってた」


「これ、母さんが書いたの?」


 ハルは小さく頷いた。


「昔ね、書こうと思ったの」


 ふらふらと近づき、ノートを撫でる。


「でも駄目だった」


「なんで」


 ハルは少し笑う。


「なんでって……」


 その笑顔は、自分を馬鹿にする時の笑いだった。


「わたしだもの」


 その瞬間。


 和彦の中で何かが切れた。


「それ!」


 大きな声が部屋に響く。


 ハルが肩を震わせる。


「その、“わたしだもの”ってやつ!」


 和彦は苦しそうに言った。


「母さん、いつもそうだよな」


 ハルは黙る。


「失敗する前から、自分で自分殴ってる」


 窓の外で、雨が強くなる。


 ざあ、と音が部屋を包む。


 ハルの唇が震える。


「だって……」


「だってじゃない」


 和彦はノートを握りしめた。


「これ、すごいじゃん」


「誤字ばっかりよ」


「でも書けてる!」


 ハルは目を見開く。


 和彦は涙声だった。


「母さん、ずっと書きたかったんだろ」


 沈黙。


 長い沈黙。


 そして突然、ハルが耳を塞いだ。


「うるさい」


「母さん」


「うるさい、だまれ!!」


 その叫びは、和彦へ向けたものじゃなかった。


 もっと奥だ。


 頭の中。


 長年こびりついている声。


『むだだ』


『やめろ』


『今までもそうだったじゃないか』


『お前なんか』


 ネガティブな言葉が、メビウスの輪みたいに終わらない。


 ぐるぐる回る。


 何度も何度も、同じ傷をえぐる。


 ハルは頭を抱え、涙を流した。


「うるさい……」


 声が震える。


「もう、うるさい……」


 和彦は何も言えなかった。


 ハルは泣きながら、ゆっくりノートを抱きしめた。


 ぐしゃぐしゃの大学ノート。


 途中で諦めた物語。


 若い頃の自分。


 全部、そこに詰まっている。


「……でも」


 ハルは小さく息を吸った。


 涙で濡れた目が、少しだけ前を向く。


「投げない」


 和彦が顔を上げる。


「逃げない」


 雨音が響く。


「諦めない」


 ハルはノートを胸に抱いた。


 震えている。


 でも、その声には確かな熱があった。


「わたしは」


 唇を噛む。


「わたしを、見捨てない」


 その瞬間。


 和彦は初めて、“母が戦っている相手”の本当の姿を見た気がした。


 それは社会でも、読者でもない。


 七十二年間ずっと、母の心の中で囁き続けてきた怪物だった。




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