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俳句 楽園のリアリズム(パート11・全)

 私のこれまでの作品をある程度読みこんでいただいた方ほど、61句の俳句のポエジーにご自分のものになってきつつある詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をより活性化してもらった状態で、高田敏子の詩5篇と大木実の詩1篇を味わっていただくことになります。

 ただ、この「詩」のジャンルを選んで詩を読むことを楽しめている方は、普通のひとよりもゆたかな詩的想像力や詩的感受性や詩的言語をすでにご自分のものにしているはずなので、たぶん問題なく今回の私の作品もそれなりに楽しんでいただけるのではないかと思います。


 


 さてきょうも素晴らしいポエジーとの出会いを求めて俳句を読んでいってみよう。

 こんな言い方って鼻もちならないのは分っているけれど、ポエジーって、選ばれた者だけが味わうことのできる、人生最高の喜びなんだと、やっぱり、そう思わないではいられない。詩の読者とは、最高の人生が約束された(社会的にはどのような存在だろうと)人生のエリートなのだといっていい。そうしてぼくたちも、その仲間入りをしようとしているのだ。

 世界一の幸福を実現してしまったバシュラールの言葉と世界一すぐれた詩型である俳句形式とのコラボレーションだけで、今回もたっぷりと俳句のポエジーを堪能させてもらうことにしよう。

 まあその前に「楽園のリアリズム」という言葉だけは思い出しておきたい。どんな俳句だろうと、天使の目にした世界として読めてしまったのも、一句一句の俳句作品があらわにする世界(イマージュ)とは、まさに、四季折々の、この世の夢の楽園にほかならないからだった。


 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、幼少時代という<イマージュの楽園>における宇宙的幸福をそっくり追体験させてくれる》


  「言葉(パロール)の世界では、詩人が詩的言語のた

  め有意的言語を放棄するとき、心的作用

  の美化作用が心理的に主要なしるしとな

  ってくる。自己表現をのぞむ夢想が詩的

  夢想となるのだ」


 俳句ほど、文学的な重苦しさから解放されていて、混じり気のない純粋なイマージュだけをぼくたちに手渡ししてくれる詩は、絶対、ほかにみつからないだろう。俳句の言葉だけが意味作用に対する隷属から完全に解放されていて、俳句の一句一句が、心的作用の美化作用、つまり、そう、まさに詩的夢想の発現の場となっているから、俳句だけがこんなにも簡単に、ぼくたちをしぜんと詩的夢想へと誘ってくれたのだ。

  

  「静謐さの勝利、世界への信頼の頂点で  

  ある詩的夢想」


  「ときにはイマージュが単純であればあ

  るほど夢想はますます大きくなる」


 沈黙が支配する、単純な、たった一行の俳句だからこそ、条件さえ満たせば(つまり、ぼくたちの幼少時代の復活だった)至純にして至福、本格的な極上のポエジーを、ぼくたちだれもに味わわせてくれるはずなのだった。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


 まあ、そうはいっても、味わうことのできたポエジーのレベルは基本的には復活させることのできた幼少時代のレベルに対応しているので、まだ個人差があるのは仕方ないこと。ぼくたちの幼少時代の熟睡度にも、当然、個人差というものが考えられるからだった。


  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない」


  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」


 そうして、復活させることのできた幼少時代のレベルに応じて、いやでも読む速度をスピードダウンさせる俳句の5・7・5の音数律が、こうした言葉の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような、ゆるやかな「言葉の夢想」をぼくたちに体験させてくれたのだった。そのことが、ぼくたちの詩的言語感覚を研ぎ澄ますことにもつながったのだった。

 それなりの詩的想像力や詩的感受性ばかりではなくそういった詩的言語感覚までを自分のものにすることができたのも、何度も旅に出て「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させては、旅先で、ぼくたちの幼少時代と、想像力―記憶という心理的混合体(ぼくたち自身の詩的想像力の原型)を同時にめざめさせてしまったそのことが、この本のなかの俳句で、素晴らしいポエジーに出会うことを可能にしてくれたからだった。

 そうして、めざめる幼少時代のレベルに応じて、最初のうちは、記憶の作用によってぼくたちに幸福をもたらす、詩的な魂、その詩的想像力や詩的感受性が、ついで、次第に、記憶などというものにたよらない、幼少時代の宇宙的な魂そのもの、その宇宙的想像力や宇宙的感受性までもがめざめはじめてきたことを、旅先で実感できるようになった方も少なくはないのではないかと思う。


  「思い出の向こう側に、わたしたちの未

  知の存在、子供のたましいというまった

  く不可知なものの総体を見いださねばな

  らないのである」


 俳句の言葉を宇宙的なイマージュに変換するのは記憶の作用によるとしても、そのイマージュを受けとめてくれた「心の鏡」の正体とは、ぼくたちだれもが大人になったいまでもおなじものとして潜在的に共有する、宇宙的感受性のことだったのかもしれないと考えると、たった一行の俳句が宇宙的幸福を追体験させてくれた、そのことが当然なこととして納得できるようだ。

 旅抜きでこの本だけを利用してこられた方でも旅情にも負けない極上のポエジーに出会えたとしたら、それは、俳句作品が遠い日の宇宙の記憶をよみがえらせるついでに、幼少時代の宇宙的感受性までを復活させてくれたおかげにちがいないのだ、きっと。


  「夢想の根底に下降するひとは自然な夢

  想、原初の宇宙、原初の夢想家の夢想を

  また発見する。そのとき世界はもはや沈

  黙してはいない。詩的夢想は世界を原初

  の言葉(パロール)によって甦らせる。世界のあらゆ

  る存在はそれがもつ名詞によって話し始

  める」


 さてきょうは何%分の<楽園の幸福>を、ふたたび味わいなおすことができるだろうか。 

 3回目、4回目……と、この「俳句パート」をくりかえし読んでいただくほどに一句一句のポエジーのレベルが上がっていくとしたら、それは、それらのイマージュを受けとめる宇宙的感受性がそれだけレベルアップしたことの証拠。それは、とりもなおさず、ぼくたち自身の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚がそれだけレベルアップしたことの証拠。

 これも詩や詩人とあるところを俳句に変えてしまうとぼくたち日本人にとっては元の訳文よりもうれしい真実となってくれる、こんなバシュラールの言葉からはじめてみよう。



  「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを

  立ちあわせる」

  

  「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア

  ンスをもたらす」


  「俳句によって創り出されたこの世界を

  前に、恍惚として見とれている意識はじ

  つにすなおにその扉を開く」

 

 大井雅人。俳句作品によるイマージュの贈物。沈黙に縁どられたたった一行の俳句作品を前にしただけで開かれる、魂の扉。それと同時にあらわになってしまう、ぼくたちの宇宙的な魂と、その宇宙的感受性とは……



  店頭のメロンに冬の近き街


  初冬(はつふゆ)の夕映えとどめ長良川


  遠空をゆく電車音野は凍てて


  客帰りゆく玄関の牡丹雪


  淡雪や神田界隈橋多き




  「幼少時代は『絵入りの世界』、最初の

  色彩、本当の色彩で描かれた『世界』を

  眺めている。幼少時代の思い出を夢想し

  つつ甦らせる偉大な昔のときはまさに第

  一回目の世界なのである。わたしたちの

  子供の頃のあらゆる夏は、<永遠の夏>の

  証しである。思い出の季節は永遠である。

  なぜならそれは、第一回目の色彩と変ら

  ぬまったく同じ色彩をもつからである。

  わたしたちの夢想のなかでわたしたちは、

  幼少時代の色彩で彩られた世界をふたた

  び見るのである」


  「思い出の季節は美化されている。ひと

  びとが夢想しながら、単純そのものであ

  る季節の根底、まさに季節の中心にまで

  たどりつくとき、幼少時代の季節は俳句

  の読者の季節となる」

 

 大野林火。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品がよみがえらせてくれる、幼少時代の色彩で彩られた第一回目の世界、記憶のなかの〈永遠の夏〉とは……


   

  貨車のかげ夏浪白くあがるなり


  夏の日の倉庫にそへば海くらく


  坂に見る埠頭(ふとう)夕焼けてゐし晩夏


 

  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである……



  店越しに紺青(こんじょう)の海梨を買ふ


  月の浜へ外燈の濃き露地曲る


  レースカーテン吹かるる部屋の港近し



    

  「常に過去に密着しつつたえず過去から

  離脱しなければならない。過去に密着す

  るには、記憶を愛さなければならない。

  過去から離脱するには、大いに想像しな

  ければならない。そして、このような相

  反する義務こそ、言語を申し分なく潑剌

  と活動させるのである」

 

  「プルーストは思い出すためにマドレー

  ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思

  いがけない俳句の言葉だけでも同じ力が

  発揮される」


  「わたしたちの幼少時代はすべて再想像

  されるべき状態にとどまっている」

 

 高木晴子。そう、いつだって、一句一句の俳句作品が、再想像された幼少時代のなかに生きることを可能にしてくれたのだった……



  満天の星のなかなる天の川


  天の川かすかに流れゐると思ふ


  冬の月かこみ輝き星数多(あまた)



  「わたしたちの幼少時代はすべて再想像

  されるべき状態にとどまっている……



  クリスマスツリーの星を先づ飾り

  

  かくれんぼしてみたくなる庭紅葉



  「プルーストは思い出すためにマドレー

  ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思

  いがけない俳句の言葉だけでも同じ力が

  発揮される……



  港より一すぢ続く冬木立


  春風にポプラは芽ぶくこと遅し


  牧場の柵の近くのつりがね草




  「夢想の根底に下降するひとは自然な夢

  想、原初の夢想、原初の夢想家の夢想を

  また発見する。そのとき世界はもはや沈

  黙してはいない。詩的夢想は世界を原初

  の言葉(パロール)によって甦らせる。世界のあらゆ

  る存在はそれがもつ名詞によって話し始

  める」


  「幼少時代の宇宙的な広大さはわたした

  ちの内面に残されている。それは孤独な

  夢想のなかにまた出現する」


  「ごく簡単に俳句作品はある様態の思い

  出の前にわたしたちをつれてゆく。わた

  したちのなかで、今なおわたしたちの内

  部で、つねにわたしたちの内面で、幼少

  時代はひとつのたましいの状態でありつ

  づけている」


 大井雅人。一句一句の言葉たちがよみがえらせてくれる、ある様態の思い出とは……



  夕焼けて塀に(たま)投ぐ子がひとり


  夕涼し宿の浴衣に宿の下駄


  六月の加賀は夕日のながき国

  

  初夏(はつなつ)や小樽は風の多き町



  「幼少時代の宇宙的な広大さはわたした

  ちの内面に残されている。それは孤独な

  夢想のなかにまた出現する……



  北国の深き夜空の花火かな


  夜涼し二階の窓に白き雲


  灯台の細き入口白日傘



  「そのとき世界はもはや沈黙してはいな

  い。詩的夢想は世界を原初の言葉(パロール)によっ

  て甦らせる。世界のあらゆる存在はそれ

  がもつ名詞によって話し始める……



  明日は八月山の間に(うみ)見えて


  八月や灯を消せば樹が全容を


  船過ぎし川ゆれている晩夏かな




  「『世界』が人間にたいして提供するあ

  らゆる供物を前にして、人間が『世界』

  から投げだされたとか、しかもまず最初

  は『世界』のなかに投げだされていたな

  どと、どうしていうことができようか」


  「夢想するわたしを魅惑し、また俳句が

  わたしたちに分かちあたえることができ

  るもの、それがこのわたしのものたる非

  ―我である。世界のなかに存在している

  わたしの信頼感をわたしに体験すること

  をゆるすもの、それがこのわたしのもの

  たる非―我である」


  「非―我が夢想する自我を魅了する。俳

  句のイマージュを、読者がまったく自己

  のものと感じることができるのは、その

  ようなわれわれのうちなる非―我の作用

  なのである」


 水原秋桜子。俳句という器に盛られた「世界」からの供物。5・7・5と言葉をたどっただけでぼくたちを魅了する、ぼくたちのうちなる非―(イマージュ)の作用とは……



  藤咲きぬ林あかるく風あふれ


  食堂や雲と吹き入る青葉の香


  初蝶のみちびく町のすぐ尽きぬ

  

  木苺(きいちご)の咲けども山路いそがれつ

  

  

  「非―我が夢想する自我を魅了する。俳

  句のイマージュを、読者がまったく自己

  のものと感じることができるのは、その

  ようなわれわれのうちなる非―我の作用

  なのである……



  天使像くだけて初夏の蝶群れをり


  野あやめのむらさきのみぞ霧に咲く

  

  道けはし葛咲く淵にまた沿へる

    

  颱風(たいふう)や傘預け入る美術館



  「ひとつの世界をつくるために万物が一

  致協力する俳句の宇宙論……



  啄木鳥(きつつき)や落葉をいそぐ牧の木々

  

  林枯れひとすぢふかき道見ゆる


  草枯れて運河いよいよ空澄めり




 山口誓子。俳句作品によるイマージュの贈物。

 

 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、幼少時代という<イマージュの楽園>における宇宙的な夢想を、そっくり追体験させてくれる……



  秋の雲うすれて天の瑠璃(るり)となる


  星などの高さに夜の鰯雲


  秋すでに電信柱野に鳴れり


  秋風にわが手のひらをかゞやかせ



 《俳句作品のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……



  秋の暮行けば他国の町めきて


  屋根瓦光()るかそけさも秋の雨


  砂に寝て砂の(きし)むや秋日和


  ひややけき空気に秋日さしゐるも


  夜道よし木犀の香のとゞきゐて




  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない」


  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」


 久保田万太郎。いやでも読む速度をスピードダウンさせる俳句の5・7・5の音数律が、こうした言語の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような、ゆるやかな「言葉の夢想」を可能にしてくれているのだ。一句一句の俳句作品がしぜんと体験させてくれる、言葉の内部のポエジーやひとつの単語の内部の無限性とは……



  沖に立つしら波みゆる枯野かな


  川風のこゝまでとゞく焚火(たきび)かな


  霜ふかし花屋の店はまだあけず



  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない……



  冬の夜の雨ぬかるほどふりしかな


  石段にうすき月さす冬夜かな


  ちかみちに抜ける空地の寒の空



  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう……



  水仙を買ひて人出の中をまた


  うしろかげまだみえてゐる寒さかな


  炭つぐや雪になる日のものおもひ



  「孤立した詩的イマージュの水位におい

  ても、一行の詩句となってあらわれる表現

  の生成のなかにさえ現象学的反響があらわ

  れる。そしてそれは極端に単純なかたちで、

  われわれに言語を支配する力をあたえる……


  

  しらぬまにつもりし雪のふかさかな

    

  雪晴れのいつしか(たこ)のあがりそめ

  

  竹町で下りる電車や雪の暮




 今回も最後に高田敏子の詩を5篇ほどつづけて読んでみることにしよう。孤立した俳句のイマージュで現象学的反響(ポエジー)をくりかえし体験してきたぼくたちには、すでに、言語を支配する力がそれなりにあたえられていることになる。


 一篇の詩を前にしていちばん優位に立つことになるのは、その詩作品でもそれを書いた詩人でもなく、それを読むぼくたち読者にほかならないというのが、バシュラールの基本的な教えというものなのだ。


 まあ、言葉を支配する力の程度にはまだ個人差があるとは思うけれど、いずれにしても5篇はやさしい詩で意味をたどる苦労もいらないから、俳句の言葉とイマージュとポエジーが育ててくれたぼくたち自身の詩的言語感覚や詩的想像力や詩的感受性をまったく活動させずに、つまり、詩的な喜びや甘美な〈諧調〉みたいなもの抜きでこれらの詩を最後の行まで読みとおすなんて、いまや、そんなこと、絶対、不可能に決まっている!


  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  やかに夢想することをわれわれはまなば

  なければならぬことだろう」


  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない……


 


  夕日


 すすきの穂のまねく

 秋の道

 まねかれ

 歩みつづけて

 岬のはずれまで来てしまった


 もう先へは行きようもないけれど

 ひろがる海はおだやかで

 やさしい小舟を浮かばせている


 水平線もはっきり見えて

 海上近くに落ちかかる

 夕日の赤

 あれは ほおずきの赤

 風車の赤

 柿の実の赤

 糸につるした折鶴の赤の色


 夕日は刻々海に近づいて

 円のはしが

 水平線に接したかと思うと

 刻々の 時の早さを見せて

 沈んでいった


 沈みきったあとも

 私はまだ 赤の色を追っている

 母が髪に結んでくれたリボンの

 赤の色も思い出され



  「ゆっくりと読書をすると、なんと多く

  の夢想が湧き上がってくることだろう……



  坂道


 港の外人墓地

 ――愛するマリアここに眠るーー

 マリアって私ぐらいの人かしら

 それとも小さな子どもかしら

 「マリア マリア」

 その名を舌にころばしながら

 坂道をおりてゆく

 どの家の庭にもバラが咲き

 さまざまなマリアがたたずんでいた


 とつぜん 船の汽笛が鳴った

 風は海の匂いだった



  「新しいイマージュによって生命をあた

  えられることに同意するときは、だれで

  も古い書物のイマージュのなかに虹色の

  輝きを発見するだろう……



  流れ


 川は流れている

 静かに「時」を流している

 夕陽がいまの時を

 美しく染めあげている

 

 手をつなぐ恋人たちは

 知っているだろうか

 あのフランスの詩人

 アポリネエルのうたを

 ――日は去り月は行き

 過ぎた時も 昔の恋も

 ふたたびは帰らない……


 私は失った時を

 二人の上にみいだす

 ――月日は流れ わたしは残る……



  「わたしが夢想によって詩化された対象

  の例を求めたのは、もちろん詩人たちの

  もとである。詩人がもたらすポエジーの

  あらゆる反映を体験しつつ、夢想をつづ

  ける〈わたし〉はみずからのうちに詩人

  を発見するのではなく〈詩化するわたし

  〉を発見するのである……



  夕涼み


 湯上がりに着せてもらった浴衣には

 かすかにシャボンのにおいがした


 月の夜は

 川風にたもとをふくらませて

 影ふみをしたものだが……


 縁日で買ったほたるカゴを

 どんなにか大切にしたことだろう


 少女とならんで

 水中花にみとれる

 肩をたたく人もない

 旅先の夕涼み



  「わたしたちは書物のなかで眠りこけて

  いる無数のイマージュを契機として、み

  ずからの詩的意識を覚醒させることがで

  きるのである」



  一つの駅


 降りずに終わってしまった一つの駅

 列車は私を運びながら

 山すそをめぐっている

 山は秋の色に彩られ

 稜線は空をはっきり区切っている


 行かずに終わってしまった一つの道

 線路わきのすすきの穂も白萩も

 過ぎてしまった駅の方向になびいている


 もうもどれないあの駅

 離れ遠ざかってゆく一つの時間

 私の心は離れがたい山すそをめぐりながら

 秋のむこうのさびしい季節へと運ばれてゆ   

  く



  「わたしは読みながらあまりにも夢想す 

  る。またあまりにも思い出にふける。読

  書のたびに、個人的な夢想の出来事、思 

  い出の出来事に出くわしてしまうのだ」


 「俳句パート」だけを独立させてしまったのでもう読むこともなかったはずの大木実の「田舎の駅」という詩を、読まずに終わってしまうのはあまりにも残念なので、特別に書き加えて読んでみることにした。ぼくの旅へのあこがれの原点ともいえるような、いまでもぼくの大好きな詩だ。


  「詩人がわれわれに差し出す新しいイマー

  ジュを前にしたときの、この歓び……



  田舎の駅


 いつか降りてみよう

 ここを通るたび

 きまってそうおもう

 知らない田舎の駅


 改札口のむこうに

 ひっそりと

 陽のあたっている

 くだもの屋が見える


 あのくだもの屋の横の

 ほそい道を

 歩いていってみたい

 ――けれどまだ降りたことはない


 いつもせわしく暮らしているので

 気持がひかれ

 降りてみたくなるのか

 田舎の小さな駅

 


  「ああ、わたしたちの好きなページは、

  わたしたちにいかに大きな生きる力を

  あたえてくれることだろう」





 次回は8月24日(日)に日付が変わってからの投稿を予定していますが、前回同様、ふつうの詩だけを味わっていただくことになっているので楽しみにしていただけたならと思います。私の作品をいままでにどれだけ活用していただけたかにもよりますが、19篇の詩を味わうことを通して、ご自分のものになってきつつある詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚の存在を確信していただけたなら、うれしいかぎりです。

 詩を読んだあとの後半は、バシュラール的世界への入り口、すなわち、極上の詩的喜びへとみちびいてくれるバシュラールの言葉を私の「バシュラール・ノート」からどっさり書き抜いて紹介しているので、その部分だけでも一生の宝物として生涯役立ってくれるのではないかと思っております。


 「こうして詩人の作品を読むことを通じて、自分が美しい生に浴していると実感することができたのである」(ガストン・バシュラール)


 私の作品をどれほど読みこんでいただいかにもよりますしいまの段階で個人差があるのは仕方ないことで、まだそれほどの詩情や詩的な喜びを感じられなかったからって、べつに気にすることはありません。私の作品さえくりかえし読んでいただけたなら、バシュラールそのひとにどなたもが美しい生へとみちびかれて、本格的な、極上の詩情や詩的な喜びを味わえるようになるのは、もう時間の問題でしかないのですから。

 そういった意味からも、いちばん手っ取り早いのは、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の名前で検索すれば、現在(令和7年8月)いちばん最初にのっている作者マイブックで、既発表の全作品を好きなように読めますので大いに活用していただけたならと思います。

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