俳句 楽園のリアリズム(パート12・全)
人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの、そのバシュラール的世界の入り口への到達は、私の全作品をどれだけ読みこんでいただけたかその個人差にもよりますが、19篇の詩の詩情や詩的な喜びのレベルはともかくとして、詩を味わったあとの後半で、バシュラール的世界を垣間見ていただくことはどなたにも可能ではないかと思っています。そこでは、バシュラール晩年の基本的用語であるアニマとアニムスという言葉も、はじめて登場することになります。
時の流れのほとりにたたずむ。いつものように心のなかでそうつぶやいてみる。
泡だちながらさわやかな水音をひびかせキラキラと陽にきらめいて流れていく、ぼくの人生の時間。
それを意識しただけで心に満ちてくる、しみじみとしてそれでいてほのぼのとしたこの幸福感はいい。人生っていいなあ、と心からそう思う。
書くぶんにはどうにか平気になったけれど、人生なんて言葉、気恥ずかしくていまでも人前でシラフでは絶対口に出せない類の言葉のひとつであることに変わりはない。それでも、人生という言葉をいつもぼくは口にしていたい、と、そう自分に言って聞かせてみるのだ。人生とは事実としてひとつの奇蹟、たった一度の素晴らしい贈物なのだ、と。
こんなふうにのんびりとくつろいで、時のせせらぎに耳を澄ませていると、次第に、人生の流れそのものがゆっくりと減速されてくるのがよく分かる。
ぼくの人生の時よ、もっともっと、ゆっくりと流れて!
そんな、ぼくの切実な願いが通じたかのように。これは、人生の残り時間がそれほど多いとはいえなくなってしまったぼくの、ほんとうに、切実な願いなのだ。まあ、それでも、うまくいけばまだいくども新しい春や夏やクリスマスやそうしてまた満開の桜の季節を迎えることはできるだろう。
一日が、一時間が、この瞬間が、あっという間に過ぎてしまうなんて、せっかくの人生、あまりにももったいない。
チェンバロの銀の驟雨に眼を閉ざす 樹
も樹の翳も寂かなる午後 三枝浩樹
前に短歌の話をしたときに読んでみたこの一首があたえてくれる、まばゆくてひっそりとした甘美な<階調>のようなものが、こうした瞬間を支配してくれるようになったとしたら、どんなにか素敵なことだろう。
あわただしい毎日の生活のなかでも、ほんとうの人生、ほんとうの自分を取り戻せるこうしたひとときを一日に一度は必ずもちたいものだとは思うけれど、それでも、いつまでもこんなふうに時の流ればかりを意識しているわけにもいかないし、生きるとは結局はなにかをして生きることなわけだし、これは人生の大問題といっていいかもしれない、仕事や社会的な義務などから解放された少なくて貴重な自由な時間を、どのように使って生きていけばいいのだろう。
ああ、喜びの感情こそ生きていることの証。喜びを感じないでいる状態なんて、ぼくたちが存在していないのとほとんどおなじこと。そんな時間ばかりで終ってしまうとしたら、せっかくの人生、あまりにももったいない。
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的
確信としてそれをすでに語ることができ
ているならば、人の生は倍加することに
なるだろう」
味わうためにはそれなりのトレーニングが必要な短歌はともかくとして、自由な時間のほんの一部でも、とりあえず詩を読むことにあてたなら、そのうち、詩を読むことが、人生、なによりの楽しみともなってくるだろうし、一篇一篇のあたえてくれる詩的な喜びが、まさに「幸福のメカニズム」と呼ぶしかないような仕方で、この本を利用してこられたどなたをも、さらに素晴らしい人生へと導いてくれることになるのは、ほかでもないバシュラールそのひとが確実なこととして約束してくれているのだ。
「夢想の詩的相は、意識を覚醒の状態の
ままに保つ金色のプシシスムにわれわれ
を近づける」
詩とは、ぼくたちに贈物されたこの素晴らしい人生への、さらなる最高の贈物なのだ。
「詩篇、それはおのれ自身の韻律を創り
だす美しき時間のオブジェである」
海にて
西条八十
星を数ふれば七つ
銀の燈台は九つ、
岩陰に白き牡蠣かぎりなく
生るれど、
わが恋はひとつにして
寂し。
「詩人がさしだす言葉の幸福」
小曲
大木惇夫
想ひ
かすかに
とらへしは、
風に
流るる
蜻蛉なり。
霧に
たゞよふ
落葉なり。
影と
けはひを
われ歌う。
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する、感性の極限点へみちびく」
落葉松
北原白秋
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通る道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり。
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あわれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
「ドラマそのものを支配することばの幸
福をとらえるには、詩人の苦悩を体験す
ることはいらない。詩はたとえいかなる
ドラマを示さなければならぬとしても詩
に固有の幸福をもつ」
レモン哀歌
高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯がかりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
「われわれは倖せな読書に没頭し、大き
な感激にささやかな読書の誇りをおりま
ぜ、好きなものだけをくりかえし読むの
だ。イマージュの幸福に身をゆだねると
きにうまれるささやかな誇りは、いつま
でも控えめにかくれひそんでいる。それ
は単なる読者にすぎないわれわれのうち
に、われわれのために、ただひたすらわ
れわれのために存在する。それはいわば
部屋のなかの誇りである」
夕ぐれの時はよい時
堀口大学
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
それは季節にかかはらぬ、
冬なれば煖爐のかたはら、
夏なれば大樹の木かげ、
それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘ふ、
それは人の心が、
ときに、しばしば、
静寂を愛することを、
知ってゐるもののやうに、
小声にささやき、小声にかたる……
夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。
若さににほう人々の為には、
それは愛撫に満ちたひと時、
それはやさしさに溢れたひと時、
それは希望でいっぱいなひと時、
また青春の夢とほく
失いはてた人々の為には、
それはやさしい思ひ出のひと時、
それは過ぎ去った夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど
しかも全く忘れかねた
その上の日のなつかしい移り香。
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらう
か?
だれもそれを知らぬ!
(おお! だれが何を知ってゐるものか?)
それは夜とともに密度を増し、
人をより強き夢幻へみちびく……
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれ時、
自然は人に安息をすすめるやうだ。
風は落ち、
ものの響きは絶え、
人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
今まで風にゆられてゐた草の葉も
たちまち静まりかへり、
小鳥は翼の間に頭をうづめる……
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
「いつものように今日もまた、言葉が人
間的なものを創造する瞬間々々を、おそ
らくわたしはとらえるだろう」
マクシム
菅原克己
誰かの詩にあったようだが
誰だか思い出せない。
労働者かしら、
それとも芝居のせりふだったろうか。
だが、自分で自分の肩をたたくような
このことばが好きだ、
<マクシム、どうだ、
青空を見ようじゃねえか>
むかし、ぼくは持っていた、
汚れたレインコートと、夢を。
ぼくの好きな娘は死んだ。
ぼくは馘になった。
馘になって公園のベンチで弁当を食べた。
ぼくは留置所に入った。
入ったら金網の前で
いやというほど殴られた。
ある日、ぼくは河っぷちで
自分で自分を元気づけた
<マクシム、どうだ、
青空を見ようじゃねえか>
のろまな時のひと打ちに、
いまでは笑ってなんでも話せる。
だが、
馘も、ブタ箱も、死んだ娘も、
みんなほんとうだった。
若い時分のことはみんなほんとうだった。
汚れたレインコートでくるんだ
夢も、未来も……。
言ってごらん、
もしも、若い君が苦労したら、
何か落目で
自分がかわいそうになったら
その時にはちょっと胸をはって
むかしのぼくのように言ってごらん
<マクシム、どうだ、
青空を見ようじゃねえか>
「詩的イマージュは魂と魂の直接通い合
う関係として、また語ることと聞くこと
の歓びに浸る二つの存在の接触として、
新しい言葉の誕生という言語活動の革新
において特徴づけられるものである」
わたしを束ねないで
新川和江
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえられた座に
坐りきりにさせないでください わたしは
風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があった
りする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わた
しは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一
行の詩
「わたしが夢想によって詩化された対象
の例を求めたのは、もちろん詩人たちの
もとである。詩人がもたらすポエジーの
あらゆる反映を体験しつつ、夢想をつづ
ける〈わたし〉はみずからのうちに詩人
を発見するのではなく〈詩化するわたし
〉を発見するのである」
遠い鏡
新川和江
ひとは まだ見ぬ湖に
おのれのすがたを 映してみたく思う
手もとの鏡は
どれを覗いても もう
歪んだ顔しか映してはくれないので
支度もそこそこに
ひとが旅立ってゆくのは
親よりもきょうだいよりも
なつかしい声が
遠くでしきりに呼ぶからだ
ひとはいつか この湖のほとりに
立ったことがあるように思う
それはたぶん 生まれる以前
雲が 雲であり
木の葉が 木の葉であった頃のこと
「詩人がわれわれに差し出す新しいイマ
ージュを前にしたときの、この歓び……
アメリカ村
田中冬二
ジャムを煮るにほひがしますね
あけっぱなしで ヴェランダに
日本の赤い提燈をともした家
きれいな若い婦人があみ物をしてゐる家
トルストイににたおぢいさんよ
裏のパセリの畑で 料理人の吹いてゐる
日本の笛はかなしいですか
小さい昆虫学者たちは
街燈にあつまる虫をとってゐます
コルシカ松の鉢は外へだしました
ほんとに白いワイシャツに
シャンパン酒のやうな夜ですね
ジャムを煮るにほひがしますね
「記述された詩の夢想は、文学的なペー
ジを形成するほどうまく導かれると、逆
に、わたしたちにたいし伝達可能な夢想
に、インスピレーションをあたえる夢想
に、換言すれば読者であるわたしたちの
才能に応じてインスピレーションをあた
える夢想になっていく。わたしたちは書
物のなかで眠りこけている無数のイマー
ジュを契機として、みずからの詩的意識
を覚醒させることができるのである」
フランシス・ジャム『四行詩集』より
手塚伸一訳
広がり
絹の空が
水を青く染める。
犬が
丘で吠えている。
水溜り
春の湿った並木道はわたしにはなつかしく、
すべてがナイチンゲールの歌声のようにや
さしい。
白い雲を背負ったポプラの木は
道に映る青い大気のなかにその影を落とし
ている。
「特有の美というものが、言語活動のな
かで言語活動によって言語活動のために
次々に生まれてくる」
田園詩
牝羊は崩れた塀のそばで草を食んでいた。
わたしたちが水を飲んだ泉は清らかな青空
でみちていた。
子供は山の山査子の下で眠りこんでしまっ
た。
遠くに神々しい海が光っていた。
夜
寒々と星はまたたき
村は深い眠りに沈む。
水飼い場は褐色の水を静かに湛えて
さっきまで太陽があったとは思えない。
「語の内部のポエジーやひとつの単語の
内部の無限性を体験するにはいかにゆる
やかに夢想することをわれわれはまなば
なければならぬことだろう」
「言語の生命そのもののなかに深く入り
こんでいくような夢想をしなければなら
ない」
しぜんと読む速度をスピードダウンさせる5・7・5の音数律が、この本のなかの俳句を味わうときに、言葉の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような、ゆるやかな「言葉の夢想」を可能にしてくれたのだった。
そんなふうにしてこの本のなかの俳句で、言葉の内部のポエジーや無限性をくりかえし何度も体験してきたそのことが、詩を読むときのぼくたちの詩的言語感覚を研ぎ澄ますことにもつながったのだった……
雨後の往来
尾崎喜八
にわか雨のとおりすぎた春のゆうがた、
いかにも、今かえって来て
再び見るふるさとのような町の風景。
ほのかにしめった往来は
掃き清められたようにひろびろとし、
家々の列、ゆりの木の並木、
瓦斯燈、電柱、郵便函、
その他あらゆるものがことごとくそのとこ
ろを得、
爽やかな微風そこここに生まれ、
西の空には清らかに目醒めた宵の明星、
東の空は水を打ったロベリヤの草むら、
ともしびは新しく光りそめ、
人々の歩みはかろく、いそいそと、
清新な空気はいたるところに満ち、
身は水中の魚のようにのびのびと自在に、
心は信頼と愛と寛容とにみたされ、
いつともなく
無限なものの気息に胸を一ぱいにして、
生きている事の恩寵に涙ぐみ、
星々の瞬きがつぎつぎに増して夜に入るま
で
ついに恍惚として同じところに立ちつくし
てしまう。
「詩人たちによってわたしにあたえられ
るイマージュに全く同化し、他者の孤独
に全く同化しながら、他者のいろいろな
孤独によって自分を孤独にする。他者の
孤独によって、わたしは自分をひとりに
するのだ。深くひとりに」
「詩を読んでわれわれにあたえられるイ
マージュは、こうして真にわれわれのイ
マジュとなる。イマージュはわれわれの
なかに根をはる。たしかに外部から受い
れたものだが、自分にもきっとこれを創
造することができた、自分がこれを創造
するはずだった、という印象をもちはじ
める。イマージュはわれわれのことばの
新しい存在となる。イマージュは、その
イマージュが表現するものにわれわれを
かえ、これによってわれわれを表現する
のだ。いいかえれば、それは表現の生成
であり、またわれわれの存在の生成であ
る。ここでは、表現が存在を創造する」
風景
有田忠郎
水のこころをさわがせて
ひとときの驟雨はすぎる
いもうとよ
淡彩の筆をひとはけ加えなさい
この風景に
かなしみはあかるいほうがいい
樹はくっきりと
水のほとりに佇つのがいい
ごらん
倒立した世界のなかでも
梢は颯爽と風をうけて
ふかい空までとどいている
いもうとよ
かなしみの水に木立に
あかるい色をもうひとふで加えなさい
このわかれの刻々を
しずかにはげしくみつめるために
「純粋な自発性とは、言語活動のなかで
なければいったいどこで、よりいっそう
大気のように自在であるということがで
きようか。詩とは、それ自身に対して自
由な言語活動のことなのである」
静物
吉岡 実
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの階調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく
「この種のイマージュはすくなくとも表
現の現実としてそのままに把握しなけれ
ばならない。これらのイマージュは詩的
表現からその全存在をえているのである。
これをある現実、さらに心理的現実にま
で帰させるならば、その存在をよわめる
ことになるだろう。この種のイマージュ
にとっては、真実であるということはむ
だなことなのである。それは存在する。
これらのイマージュはイマージュの絶対
性を保持する」
難解とされる吉岡実の詩のなかでも最後の4行だけがなんのことかよく分らないような詩(田中冬二の「ほんとうに白いワイシャツにシャンパン酒のやうな夜ですね」もそうだ)を読んでみたけれど、いまの段階でも、なかにはこれらの詩的イマージュをすんなり受けとれた方もいるかもしれない。これからどっさり詩を味わっていくなかで、どうしてもこうしたわけの分からない難解な詩にもぶつかることになるだろうから、いま紹介したばかりのバシュラールの教えを、しっかりと肝に銘じておきたい。
「これらのイマージュは詩的表現からそ
の全存在をえているのである。この種の
イマージュにとっては、真実であるとい
うことはむだなことなのである」
それでは最後に、読みやすい高田敏子の詩を3篇選んで詩を読むのはおしまいにしよう。詩的な喜びや快さの大きさ、深さ、ゆたかさは、中身の複雑さや難解さなんかにあまり関係ないことがよく分かる。
「詩人がひとたび対象を選ぶや、対象そ
のものが存在を変化する。対象は詩的な
ものに昇格するのである」
「詩人の詩的世界とともにたましいのす
みずみがあきらかになる」
初冬
高田敏子
プラタナスの葉がゆれている
まるで うなずいているように
イチョウの葉も
小きざみに身をふるわせている
金色の光をふりまいている
葉は 散る前のひととき
風と光と 自分に
語りかけ うなずき つづける
住みなれた町を歩きながら
見知らぬ国をゆくような
旅愁のわく季節
落ち葉する道はことさらに
「詩人たちの作品を読めば読むほど、わ
たしたちは思い出の夢想のなかに慰めと
安らぎをみいだすのではあるまいか」
月夜
高田敏子
庭は月明り
どこかで子どもの声がする
父の背におわれて
月夜の堤を歩いたことがある
すすきの穂が足にさわって鳴り
川は母の帯のように光っていた
庭は月明り
しきりと虫の声がする
縁日で買ったすず虫を
たいせつに育てたことがある
秋深まるのをおそれながら
庭は月明り
幼い日の思い出が
木々の葉を光らせては過ぎてゆく
「常に過去に密着しつつたえず過去から
離脱しなければならない。過去に密着す
るには、記憶を愛さなければならない。
過去から離脱するには、大いに想像しな
ければならない。そして、このような相
反する義務こそ、言語を申し分なく潑剌
と活動させるのである」
この本のなかの俳句作品が育ててくれた詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体)が、これらの詩の言葉を、こんなにも生き生きと活動させているにちがいないのだ……
星空
高田敏子
きれいな星ね と
娘がいう
昼間 買い忘れた品を思い出して
夜の道に出たときに
二人で行くほどでもない買い物に
いっしょに行くわ と
娘はついてくる
肩をならべても
星を愛でることばのほかには
別に話すこともないのだが
この年も終わりの思いが
母と娘の心をよりそわせている
表通りに行くまでの道の
一軒一軒の家の窓の灯
この年の
残り少ない日々をいとしむ息づきが
窓の灯からも聞えてきそう
「わたしたちは読んでいたと思うまもな
く、もう夢想にふけっている。たましい
のなかで受けとめたイマージュはわたし
たちを連続的夢想の状態に導く」
これが詩を読むときの理想の状態だと思うけれど、旅先の風景や事物に触れて「思い出の夢想」を、そうしてこの本のなかの俳句で「言葉の夢想」をくりかえしてきたぼくたちは、もう夢想などということを意識して詩を読む必要はない。
ぼくたちの毎日の生活のなかにまで夢想の幸福が侵入してきたように、詩の言葉の意味だけを追っていくような単純な読書のなかにまで夢想の幸福が侵入してくるようになってしまったのだから。
「哲学的視点から考察された真の記憶と
は、非常に生きいきした、容易に感動し
やすい想像力、したがって各感覚の助け
をえて、過去の情景を生命の魅力のごと
きものを加味しつつ喚起することのでき
る想像力のなかにしか存在しない、とわ
たしは考える」(ボードレール)
ボドレールのいう過去の情景を生命の魅力のごときものを加味しつつ喚起することのできる想像力、とは、まさに、ぼくたちだれもがそれなりに自分のものにしてしまった詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体)のことにほかならない。
「想像的な記憶のなかではすべてが途方
もなく新鮮によみがえる」
こうした詩的想像力、さらには詩的感受性や詩的言語感覚を動員して一篇の詩を読んでみれば、この人生で、どのようなことが起こってしまうことになるだろう? まだいまの段階では自分のものにしたそれらのレベルに個人差があるのは仕方ないとしても、このことのすごさも、そのうちどなたにもうれしく実感していただくことになるだろう。
「詩的なるものの実存主義の主要問題は
夢想状態の持続ということである。わた
したちが詩人たちに要求することは、か
れらの夢想を伝えてくれること、わたし
たちの夢想を強固にしてくれること、そ
うすることによって、わたしたちが再想
像された過去のなかに生きることを可能
にしてくれることである」
とくに旅先の「思い出の夢想」が、詩人たちの代りにぼくたちの夢想を強固にして、この本のなかの俳句を読んでぼくたちが<再想像された過去のなかに生きること>を可能にしてくれたのだったし、この本のなかで「心の鏡」に俳句のイマージュを映し出すようにして「言葉の夢想」を楽しんできたぼくたちは、詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚といっしょに<万華鏡のような意識状態>までも自分のものにすることができたのだった。(あるいは、そのうち、だれもが確実に)
「詩的言語のあらゆる不意打ちを受け入
れるには、万華鏡のような意識状態を心
がけなければならない」
そういった<万華鏡のような意識状態>で詩の一行一行の言葉をたどれば、湖面のようなどこかで俳句の詩的情景を受けとめてきたときみたいに、一篇の詩的世界の全体がそこに映し出されることになるのは当然のなりゆき。
「詩人の詩的世界とともにたましいのす
みずみが明らかになる」
詩人の魂のすみずみが明らかになる。そうなのだ、一篇の詩を読むことをとおして、その一篇に対応する詩人の意識、つまり、その詩を生んだときの、詩人の素晴らしい感動や奥深い感情や思いを、そっくりそのまま追体験することがぼくたちには可能になったのだ。
「わたしは詩的夢想の詩学を樹立したい
のである。詩的夢想の詩学! これは大
きな野望である。むしろ大それた野望と
いうべきである。なぜなら、それは詩の
すべての読者に、詩人の意識をあたえる
ということにひとしいのだから」
いままで詩なんかに縁のなかった方が、ためしに全詩集を買ったりする場合はどうしてもスマホとかで検索して詩人の名前やその評価をある程度把握しておく必要があるけれど、詩をそれなりに味わえるようになった最初のうちは、詩集のうしろに載っている「詩人論」や「作品論」といったたぐいの文章は無視していただいたほうがいいかもしれない。ぼくたちの魂の領域で起こった素晴らしい出来事を、そうしてそれを実現させたゆたかな詩的言語を、冷静な精神の言葉に翻訳しているだけのような詩の解説が、残念ながら少なくはないから。ぼくたちにはもう解説なんかしてもらう必要はない。詩を読むことに習熟するまでは、そのことに反省的な意識を向けたりしないほうが得策ではないかと思われるのだ。
「本物の詩人は二重の言語をあやつる。
かれは意味の言語と詩的言語を混同しな
い。この二つの言語をどっちかの言語に
訳すことは味気ない仕事にすぎないであ
ろう」
ぼくにしたって、ポエジーを味わいたい一心でバシュラールの書物を頑張って読んでいって、詩を読むことに反省的な意識を向けるようになってしまったせいで、かえって、詩の不感症のような状態におちいってしまったのだった。旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きでも俳句のおかげで、せっかく生き生きと魂の領域で生起するようになった詩の現象を、わざわざ(少なくとも感情の面では)心貧しい精神の言葉で捉えなおしてみることはないのではないだろうか。
そういえば『夢想の詩学』の第二章は「夢想についての夢想 <アニムス>―<アニマ>」となっていて、アニムス=精神、アニマ=魂と単純に考えてそう不都合はないと思うけれど、男性的なアニムスと女性的なアニマという言葉の説明が厄介なのでいままで紹介しなかった文章も、じつはぼくの「バシュラール・ノート」にはどっさり書き抜いてあるのだ。なかには、どうしても紹介したくて、アニマを魂と、こっそり書き換えてすでに引用させてもらった文章もあるのだけれど。
「アニムスとアニマという心理学的な二
つの階層」
「アニムスにおける読書とアニマにおけ
る読書」
「夢想が本当に深層にあるならば、わた
したちの内部で夢想している存在は、わ
たしたちのアニマなのである」
「それは歌ったり夢想にふけったりする
のがアニマだということである。夢想し
歌う、これはアニマの孤独な仕事である。
夢想はあらゆるアニマが自由に羽をのば
すことである。詩人がアニムスの思想に
歌の骨格、歌の力をあたえるようになる
のは、詩人のアニマの夢想によるのであ
る。そうしてみると、詩人がアニマの夢
想にひたって書いたものをアニマの夢想
なくして読むことがどうして可能であろ
うか」
「詩人のイマージュであるあの絶対的才
能に応じてこだまを響かせるためには、
わたしたちのアニマが感謝の讃歌を歌う
ことができなければならない。アニムス
は少ししか読まぬ。アニマは多く読む。
時おりわたしたちのアニムスはわたした
ちが多く読みすぎたと叱る。読む、たえ
ず読む、アニマの楽しい情熱」
「もしわたしたちがアニマのなかでイマ
―ジュを本当に受けとるなら、詩人のイ
マージュは自然な夢想の記録のようにわ
たしたちの前にあらわれてくる。イマー
ジュを受けとると、たちまちわたしたち
は、自分でもそれを夢想することができ
たのではないか、というふうに想像する。
詩的夢想はわたしたちの夢想を掻きたて
るし、それはわたしたちの夢想のなかに
腰をすえてしまう。それほどアニマの同
化の力は大きい。わたしたちは読んでい
たと思うまもなく、もう夢想にふけって
いる。アニマのなかで受けとめたイマー
ジュはわたしたちを連続的夢想の状態に
導く」
「わたしたちの夢想の大いなる孤独の状
態で、自分たちが深層まで解放されて、
もはや潜在的な競争さえ考えなくなった
とき、わたしたちのたましいはアニマの
影響下にすっぽり入っているのである」
「純粋な夢想、夢想家を孤独な平穏さに
ひきもどす夢想においては、男であれ女
であれ一切の人間存在は深層のアニマの
なかに、下降しながら、たえず<夢想の
坂道>を下降しながらその憩いをみいだ
すのだ。失墜のない下降。この不安定な
深層においては女性的憩いが支配する。
さまざまの気づかいから、野心から、計
画から遠ざかり、この女性的休息のなか
で、動かすべからざる確かな休息を、わ
たしたちの存在を完全に憩わせる休息を、
わたしたちは体験する」
「アニマに属するのはしあわせなイマー
ジュの現在を生きる夢想である。幸福な
時間には、夢想が夢想をうみ、人生がか
らみあうようにからみあった夢想がうま
れることを知るであろう。静かな夢想、
本質的に女性的である大いなる無憂状態
の産物は、アニマの平穏さのなかで維持
され、調和をとっている。こういうイマ
―ジュは、だれのたましいのなかでも女
性の王国がひたっている内密な温かさ、
つねに変らぬ優しさのなかで作られる。
これはわたしたちの研究の中心的な主張
であるからくりかえしていうが、純粋な
イマージュにあふれる夢想は、アニマの
表現であり、おそらくはもっとも特徴的
な表出である。いずれにしても、わたし
たちがアニマの恩恵を探るのはイマージ
ュの王国においてである」
ちなみに『夢想の詩学』の最後のページは「アニマによって書かれたのであるから、この単純な本もアニマによって読まれることをわたしは期待する。しかし、いずれにせよ、アニマはわたしたちの全生活を支配する存在であるとはいえないので、今度はアニムスの作品であるような別の本をもう一冊書きたいとわたしは念じている」という、学者としてふたつの顔をもつバシュラールらしい言葉で結ばれていた。
ぼくたちの内部に育ってきている詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚はアニマに属する能力であって、ぼくたちが詩を読んで詩的な喜びを感じることができたとしたら、それは、その詩の言葉やイマージュがぼくたちのアニマの領域で受けとめられたことの証拠。
「こうした詩的興奮状態にある詩人の夢
想においては、イマージュや語句が<核
分裂>をおこすほど心的エネルギーが高
まっているのである。読者は詩を読みな
がら、このように高いエネルギーをみず
からの内面にかきたてなければならない。
しかも白熱したイマージュがごくさりげ
ない表現の下に隠されていることさえあ
るのだから、うっかり取りにがしてはな
らない」
「詩人をその文句のない詩的夢想のなか
で捉えることをせずに、いったい想像力
の心理学などなりたちうるだろうか。そ
の資料を求めるため、想像しない人や、
想像を禁じている人や、湧きたつイマー
ジュを冷静な観念に<縮小する>人や、想
像力のもっと手のこんだ否定家であるイ
マージュの<註解者>の門を叩いたのでは、
イマージュの存在論や想像力の現象学の
あらゆる可能性を、いずれもぶちこわし
てしまうのではないだろうか」
「湧きたつイマージュを冷静な観念に<縮小する>人」や「想像力のもっと手のこんだ否定家であるイマージュの<註解者>」の門を叩いたりしないで、一篇の詩を読んではぼくたち読者がじかに「イマージ
ュの存在論や想像力の現象学」を生きてしまうこと、それこそが、バシュラールの教えというものなのだ。
「イマージュは概念ではない。それはか
れらの意味作用のなかで孤立しているの
ではない。正確に言えば、それは自己の
もつ意味作用をたえず超えようとしてい
るのである。想像力は、そのとき多くの
機能をもつようになる」
「イマージュと概念の誤った融合という
拷問を加え、わたしたちの精神を十字架
にかけてきた」
イマージュを概念や観念で解釈したりしてはいけない。湧きたつイマージュを冷静な観念に縮小してしまってはいけないのだ。
そうしてまた、一篇の詩の詩的な喜びや感動を解説してもらう必要なんて、まったくない。一篇の詩の魅力を納得させてくれるものは、その作品自体をおいてほかには考えられないのだから。
ぼくたちの内部に育ってきているぼくたちの詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚が詩の言葉の流れのなかに、せっかくイマージュやポエジー、つまり、詩的な喜びや感動や甘美な〈諧調〉をみつけだしたのに、少なくとも最初のうちはそのことに、アニムス=精神による反省的な意識を向けたりしないほうがいいのだ。それでなくても詩は、俳句とちがって、言葉の意味作用に満ち満ちているのだから。
「イマージュと観念の協調として理解さ
れる詩という構築物」
「詩篇とは現実と非現実をおりなし、意
味作用とポエジーの二重活動によって言
語活動をダイナミックにしている」
詩の言葉の意味をたどるだけでも、ぼくたちだれもの内部に育ってきているぼくたち自身の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚が、すなわち、ぼくたちのアニマ=魂が、一行一行の言葉の流れのなかにイマージュやポエジー、つまり、詩的な喜びや感動や甘美な〈諧調〉をみつけださないはずはない。
まさに旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きでも俳句のおかげで、だれでも楽しむことのできる小説を読むくらいの気軽さで、いままでに誕生した数えきれないほどの詩人たちの残してくれた、それこそ星の数ほどある詩作品を読むことをとおして、だれもが美しい生に浴していると素晴らしく実感することのできるような、凝縮されていて中身の濃い最高の読書体験を、一篇、ほとんどが2、3ページで済んでしまうような超がつくほどの気楽さで、生涯、積み重ねていくことが可能になったのだ。
「わたしはプシシスムを真に汎美的なも
のにしたいと思い、こうして詩人の作品
を読むことを通じて、自分が美しい生に
浴していると実感することができたので
ある」
しかも、そのためには、詩人の伝記的な事実を知ることなども、まったく必要のないことなのだった。
「詩人のぱっとしない過去を知りたいと
は思わない。わたしにはありあまるほど
の過去があるのだから」
「イマージュは、現前したし、わたした
ちのなかにありありと出現した。それは、
詩人のたましいのなかでそれを生みだす
ことを可能にした一切の過去から切り離
されて現前したのである」
「イマージュの創造の過程を知らないた
ましいのなかに、イマージュがなぜ同意
の気持を目ざますのか。詩人はイマージ
ュの過去わたしたちにおしえてくれない。
しかしかれのイマージュはわたしたちの
こころのなかにたちまち根をおろす。あ
る特異なイマージュが伝達できるという
ことは、存在論的にたいへん重要な事実
である」
いままでに本なんかあまり読んだことがなくたって、ぼくたちには、自分の人生や録りためた映画のなかとかで体験したありあまるほどの過去と、詩を味わうのに十分すぎるほどの詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚が、すでにある。そのことに、もっと自信をもっていいのだ。
「自我が自信をもってあるがままの自己
を認めるような内在的な調和」
そんな内在的な調和のなかで<万華鏡のような意識状態>でもって、この人生への最高の贈物として、一篇一篇、詩作品だけを味わっていけばいい。
「きみは良く見た。だから夢想する権利
がある」
「わたしたちは読んでいたと思うまもな
く、もう夢想にふけっている。アニマの
なかで受けとめたイマージュはわたした
ちを連続的夢想の状態に導く」
この本のなかの700句+アルファの俳句でくりかえしポエジーを味わってきたそのことが、ぼくたち自身の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を育成することにもつながり、結果として、ぼくたちを幸福な詩の読者に仕立てあげてくれたのだった。
「はるか昔の心理が、現在の存在、その
言語に現にある存在、その言語中にいま
生きている人間の心理に負担を負わせす
ぎてはなるまい。詩的夢想は、その遠方
のわが家が何であれ、いま言語中に生き
いきとして働いている力からもまた生ず
るのである。表現は、表現された感情の
上に逆に強く作用を及ぼしている」
「しかしこの孤立はそれほど深刻ではな
く、もっと深い、もっと特殊な夢想でも
たいてい伝達可能なのである。すくなく
とも、そのひとたちの夢想が相互に強化
しあい、夢想がそれを受けとる存在を深
化する、そういう夢想家のグループがあ
る。またこういうふうにして大詩人はわ
たしたち読者に夢想することを教えるの
である」
旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの場合は多少ハンディはあったかもしれないけれど、それでも俳句のおかげで、なかにはそういった夢想家のグループの仲間入りをすでに果たしてしまっている方もいるだろうし、いずれにしても、遅かれ早かれ、そのうちぼくたちのひとりひとりがそういったレベルの高い夢想家たちの仲間入りをすることはしっかりと約束されているはず。
まあ、いまの段階でも、イマージュではちきれそうな俳句という一行詩で極上のポエジーを味わってきたぼくたちにとっては、あんなイマージュのすかすかな詩の一行一行を読んでいくなんて、まったく、わけないこと。
「人間の心的作用の詩的な力を取りだそ
うとするわたしたちにとっては、単純な
夢想に研究を集中し、単純な夢想の特殊
性をひきだすことを試みるのが最良の途
である」
たった2、3の俳句一句の<事物のイマージュ>やそれらが全力で協力しあって作りあげる単純な俳句一句の詩的情景で、ポエジーといっしょにくりかえし夢想の特殊性を体験してきたことをとおして、ぼくたちだれもが、まさに、ほんとうの意味での人生のエリート、バシュラール的な書かれた言葉の夢想家たちの仲間入りをすることが可能になったのだ。
「詩人たちの作品を読めば、若々しい言
語活動の中に生きる無数の機会にめぐり
あえるのである」
それにしても、俳句の純粋なポエジーと詩の不純なポエジー。どちらの幸福=快楽が、人生の喜びとして、上ということになるだろう。俳句のポエジーとくらべると、詩のポエジーは言葉の意味作用に邪魔されて、どうしても薄められてしまうということがあると思う。
それは仕方ないことだけれど、どこまでも深いものになりうる俳句の本格的な、純粋な極上のポエジーと、意味作用による人生的な味わいが加味されていてこれもどこまでも深いものになりうる不純な詩のポエジーと……。
「いつさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生き
る」(俳句)
「言葉の世界では、詩人が詩的言語のた
め有意的言語を放棄するとき、心的作用
の美化作用が心理的に主要なしるしとな
ってくる。自己表現をのぞむ夢想が詩的
夢想となるのだ」(俳句)
「この孤独の状態では、追憶そのものが
絵画的にかたまってくる。舞台装置がド
ラマに優先する」(俳句)
「いつものように今日もまた、言葉が人
間的なものを創造する瞬間々々を、おそ
らくわたしはとらえるだろう」(詩)
「詩的夢想は、その遠方のわが家が何で
あれ、いま言語中に生きいきとして働い
ている力からもまた生ずるのである。表
現は、表現された感情の上に逆に強く作
用を及ぼしている」(詩)
「イマージュは、そのイマージュが表現
するものにわれわれをかえ、これによっ
てわれわれを表現するのだ。いいかえれ
ば、それは表現の生成であり、またわれ
われの存在の生成である。ここでは、表
現が存在を創造する」(詩)
「詩篇とは現実と非現実をおりなし、意
味作用とポエジーの二重活動によって言
語活動をダイナミックにしている」(詩)
「こうした詩的興奮状態にある詩人の夢
想においては、イマージュや語句が〈核
分裂〉をおこすほどに心的エネルギーが
高まっているのである。読者は詩を読み
ながら、このように高いエネルギーをみ
ずからの内部にかきたてなければならな
い」(詩)
「ああ、わたしたちの好きなページは、
わたしたちにいかに大きな生きる力をあ
たえてくれることだろう」(詩)
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する感性の極限点へみちびく」(詩)
残念ながら通しで一回読んだだけではまず無理だと思うし、この本をどれだけくりかえし利用していただけたかその個人差にもよるけれど、いまこうして何回目かを読んでいただいているこの段階で、ぼくたちの試みのゴールにはどうにか到着できたと感じている方も少なからずいるのではないだろうか。
もちろん、この試みのゴールとは終点なんかではなくて、バシュラール的世界の入口への到達、新しい人生のはじまりを意味しているはずだった。
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的
確信としてそれをすでに語ることができ
ているならば、人の生は倍加することに
なるだろう」
「わたしがいま、語っておきたいのは、
このような夢想がいかにしてわたしのな
かで活動する夢想となるに至ったのか、
また夢想が内奥の存在にどのように働き
かけているのか、そして詩人のひとつの
夢想が、どのようにしてわれわれのうち
に調和をもたらすことになるのかという
ことである。長い月日のあいだ、ひとつ
のイマージュに忠実に、水に忠実に、鳥
たちの飛翔のあらゆる夢想に忠実でいら
れることは、なんという心豊かな恵みで
あろうか」
詩の一行一行をたどるだけでポエジーや詩的な喜びや甘美な〈諧調〉を味わえるようになれたとしたら、それは、ふだんの心を支配しているアニムスから解放された状態で、街のなかをぶらついたりそこいらを散歩するだけでも、その歩行につれて、建物やお店や家々のたたずまいや自然が、つまり「世界」のすべてが、詩の言葉のようにぼくたちの心に触れてくることを意味するだろう。
だって、ぼくたちのアニマがあらわになった状態では、ぼくたちのものになってきた詩的想像力や詩的感受性は、詩を読むときだけに限定されて機能する、というものではないと思われるから。
「夢想は生きる楽しさのイマージュや幸
福の幻想によって栄養を補給されなけれ
ば続かないであろう。夢想家の夢想はひ
とつの宇宙全体を夢想にふけらせるにた
るものである。夢想家の休息は水や雲や
そよ風を休息させるにたるのである。ア
ンリ・ボスコは、夢想家が大いに夢みる
ような名作の書きだしのところで、こう
書いている。『わたしは幸せであった。
わたしの楽しみから何ひとつ離れてはい
かなかった。すきとおった水も木の葉の
そよぎも、上ったばかりの匂のよい煙の
とばりも、丘の微風も』このように夢想
は精神の欠如ではない。むしろそれはた
ましいの充実を知った一刻からあたえら
れる恩恵なのである」
一日の散文的な生活の流れのなかでようやく自分の時間がやってきてホッと一息つくようなひとときから、そのうち、それまで活発に活動していたアニムス=精神が後退して、しぜんと感じやすいぼくたちのアニマ=魂があらわになってしまい、これはご自分で実際に試していただきたいのだけれど、詩集のページを開くときのようにぼくたちの詩的想像力や詩的感受性は、お気に入り登録した音楽だろうが厳選して録りためた映画だろうが、この人生のあらゆるもののなかに、きっと、いつでも、蜜のように甘美な喜びばかりをみつけだしてしまうことになるにちがいない。
バシュラールが引用していたフランスの文豪が体験したつぎのような至福の瞬間も、間違いなく、あらわになったアニマがもたらしたものではないかと思われる。
「そこにあるあらゆるものは、街でも、
教会でも、河でも、色彩でも、光でも、
影でもなかった。それは夢想であった。
わたしはしばし身動きもせず、このえも
いわれぬ大きな諧調や、大空の晴朗さや
この時刻のメランコリイがこころよく身
体中にしみわたっていくのを感じていた。
わたしの精神のなかで何が起こったのか
分からないし、それをいうすべをもたな
いが、それは、自分のなかで何かが眠っ
てしまい、また何かが目覚めたと感じる、
あの筆舌に尽くしがたい瞬間なのであっ
た」(ユゴー)
まだその入口のあたりをうろうろしているだけだとしても、旅と俳句が、あるいは、旅抜きでも、この本のなかの700句+アルファの俳句でくりかえしポエジーを味わってきたそのことが、いよいよ最高の人生を実現させようとしているにちがいないのだ。
まあ、それにしても、詩を味わうのに十分すぎるほどの(いまの段階ではまだ、この本をどれだけ活用していただけたか、その度合による個人差はあるとしても)詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚がご自分のものになってしまった以上、詩を読むことだけは、もう、一生、やめられそうもないと、どなたもがそう感じられているのではないだろうか。
「詩人によって創り出されたこの世界を
前に、恍惚としてみとれている意識はじ
つにすなおにその扉をひらく」
「詩的夢想の誘いに各人各様に応じて、
奥深い<反響>に身をまかせる、というふ
うにありたいものである」
「わたしはまさしく語の夢想家であり、
書かれた語の夢想家である」
「現代の詩的空間のなかには、どのよう
にすれば入っていけるのだろうか。自由
な想像力の時代が開かれたばかりである」
あと一回でこのサイトでの投稿は最後となりますが、もともと私の作品にはおしまいというものはないという考えですので、「連載」のままで終わりにしてしまってもいいかなと思っています。
連載が終了しても、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の名前で検索すれば私の全作品をいつでも好きなように読んでいただけますので、いつまでも活用していただけたならとせつに希望いたします。せっかく私の作品を開いていただけたのに、これっきりにしてしまうとしたら、バシュラール的幸福が約束された詩の愛読者にどなたもがなれる絶好の機会を放棄してしまうことにも等しいので、とても残念です。私の作品で試みている前例のないやり方が、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を養うのにどれほど有効か、私の作品をくりかえし読みこんではたくさんの人たちに心からそう実感していただけたなら、自分の人生を台なしにしてまで頑張ってきた私の努力も報われたと思うことができそうです。それでも、これが本になれば、もっと、もっと、もっとたくさんの人たちの人生と直接かかわることができるのになあ、と、そう思わないではいられませんが。